「英国に留学なさっていたのでは」
啓吾が戸惑いつつ問いかけると、正周はにっこりと微笑んだ。
「つい先月、帰って来たんだ。元々留学というほど大仰なことではなくてね。半年ほどで帰って来ると言っていただろう。詳しい話は屋敷に戻ってから。さあ」
示された先には、黒く光る舶来の自動車が停まっている。啓吾はズボンについた土埃を払いながら後退りする。
「いえ、大丈夫です。このまま歩いて帰りますから」
「帰ると言って、何処に」
「湯島の下宿です」
すると、正周は啓吾に憐れみの眼差しを向ける。
「残念ながら、大家の梅刀自は啓吾君の退去を望んでおられてね。とりわけ寮母の敏子さんが一刻も早くと必死なご様子で、君の身元保証人である当家に参られたのだ」
あの敏子であれば、大家の為に必死に奔走するであろう。啓吾はため息をついた。
「追い出されたわけですね……では、引っ越さねば」
「ああ、気にすることはない。先ほど当家の者が行って片づけて来た。荷物は全て当家に運んである」
「は」
啓吾は思わず頓狂な声を上げた。すると正周は一人で納得したように深く頷く。
「以前から君には、当家の敷地内にある鳳雛寮に入ってもらうつもりでいたのに、家族と住むからと言って固辞していただろう。しかも、私が留学している間に下宿を決めたというじゃないか。どの道、近所なのだから、これを機にうちの寮に入ればいい。安心してくれ。下宿代などという無粋なものは要らないから」
身売りをする……とは、こういう心地ではなかろうか。
金がないばかりに、この若様にはどうにも逆らえない。いや、金だけではなく、いつも逆らえない。啓吾もそれなりに拒むこともあるし、反論もする。しかし若様は「そうか、なるほど」と口先では答えながらも、いつしか気づくとこの人の思惑に巻き込まれているのだ。
「さあ、遠慮なく、車に乗りたまえ」
「運転、できるんですか」
「無論。倫敦でも乗っていた」
若様はふふん、と胸を張る。まだ東京でも珍しい自動車に、恐る恐る乗り込むが、泥だらけで乗るのを躊躇する。正周は運転席から、啓吾を振り返る。
「しっかり座らないと、揺れで放り出されてしまうよ」
正周に言われて座り直す。
「では行こう」
エンジンがかかると、ブロロロロと、盛大な音が響く。警察署の警官たちも物珍しそうに眺める中、白い背広の若様と、泥だらけの平民を乗せて、車は走り始めた。
この若様と平民の啓吾が知り合ったのは、かれこれ五年ほど前になろうか。ひょんなことから啓吾が「視える」ことを知った正周は、以来、興味津々で付きまとい……いや、若様曰く「腹心の友」となった。生まれも育ちも違う以上、いずれは縁も切れるだろうという啓吾の期待を裏切り、御当主である連翹寺子爵は、「あの正周と近しくしてくれる人はそうはいない。末永く親しくしてやってくれ」と、変わり者の次男坊の「学友」を大いに歓待。現在では大学の学費も支援してもらっている。
しかも両親と妹が暮らしている家も、連翹寺家に所縁の寺の境内にある。つまり一家全員がこの連翹寺家の支援で暮らしていると言っても過言ではない。
その上、下宿まで連翹寺家の世話になれば、愈々、啓吾の人生は連翹寺家に仕えるほかになくなるのではないか……そんな不安がじわりと広がる。
「悪縁だな」
思わず呟くのだが、エンジンの音が大きすぎて声は届いていない。車が揺れる度に大仰に飛び跳ねる。子爵邸まで、僅かな距離だというのに、啓吾は何度か車から転げ落ちそうになり、疲れ果ててしまった。
「さあ、着いた。寮は後にして、まずは本宅へ」
連翹寺子爵邸は、下宿と目と鼻の先の湯島にある、元は旗本屋敷であったところを明治になって譲り受けている。唐破風の荘厳な玄関口を通って中へ入る。汚い装いを見かねた女中頭に風呂に連行された啓吾は、舶来物の石鹸で頭から顔から体から洗い、総檜の湯船に浸かると、身が軽くなったような心地がする。正周のお古らしい白い紬まで貰い受けた。
できることならこれで失礼したいところだが、
「若様がお待ちです」
と、女中に連れられて、今度は廊下の最奥にある正周の書斎に向かった。
正周の書斎は、好きなだけ散らかしても良いように、蔵を改装したもので、啓吾はここを何度も訪れたことがある。重い蔵の戸の内側にある木戸には、正周好みの彫り物が施されているが、この意匠は何ですか、と問うたなら、またぞろ長々と解説が始まりそうなので、素知らぬ顔をして中に入った。
「ああ、啓吾君、待っていたよ」
笑顔の正周の背後には天井にまで至る本棚があり、洋の東西を問わず様々な本が詰まっている。マホガニーの重厚な机にも、これでもかというほどの書類と本に、謎の置物が積み上げられている。臙脂の天鵞絨が張られた二組のソファに、象嵌が施されたテーブル。そしてどういうわけかそのソファには、髑髏が置いてある。思わず、わっと声を上げると、正周は笑った。
「ああ、これは君のとは違って模型だよ。英国で医学生から譲り受けたんだ。さ、座りたまえ」
ソファに座るように促され、啓吾は渋々、腰を下ろした。テーブルにも、西洋の書物、古めかしい巻物、和綴じの本に浮世絵までずらりと並べられている。正周は、啓吾の向かいに腰かけてずいと身を乗り出した。
「昨日、君の下宿から御女中がやって来てからというもの、事の次第が面白すぎて夢中で調べていたのだ。君はあれか、髑髏を使った呪術でも心得ているのか。それだとすると、西洋にもあってだな、この魔女の魔方陣というものが……」
「ちょっと待って下さい若様。昨日、寮母の敏子さんから報せが入り、僕がこうして放免されるまでの経緯については」
すると正周は、話の腰を折られたことが不服なのか、ああ、と不貞腐れた様子で頷く。
「敏子さんが訪ねて来てから、余りに面白い話なので、こちらにご招待した」
聞けば、寮母の敏子は、ともかく一刻も早く気味の悪い下宿人を追い出すべく、啓吾の氏素性を確かめ、保証人である連翹寺家に駆け込んだらしい。血相を変えてやって来て、連翹寺家の女中頭や執事とひと悶着起こしていた。そこへ通りすがりの無責任な次男坊の若様が、敏子を招き入れた。
「敏子さんは、元より凶宅であった因果か、君が今朝がた、部屋で髑髏を抱えて佇んでいた……と、震えながらおっしゃっていた」
「抱えちゃいませんよ」
どうやら現場を見た敏子によって、話に尾ひれがついているようだ。
「敏子さんは昼過ぎに帰られたのだが、私は調べものに夢中で君のことをすっかり忘れていてね。夕食時になってはたと思い出し、父上にご相談申し上げた」
子爵のおかげで、啓吾は釈放されたらしい。どうせ助けてくれるのなら早くしてくれ……と思ってしまう。借りを作りたくないと言いながら、その実、この家に頼ってしまっていることに何とも苦い思いがする。
「それで、君に詳しく話を聞く前に、私の方でも髑髏にまつわる逸話などを調べてみたのだ」
正周は啓吾の胸中などお構いなしに、好奇心で目を輝かせながら、古今東西の髑髏にまつわる伝承の類を話している。
連翹寺子爵家は、平安の昔から帝の側近くに仕えた貴族で、先祖の中には霊力ある祈祷師、加持僧がいたのだという。長い歴史を経て明治の世になるまでには、困窮した時代もあったらしい。ただ現在は正周の兄で長男の正幸が財閥の令嬢を娶り、貿易事業に携わっているおかげで、他の公家出身の華族に比べて裕福であった。
気楽な次男坊の正周は、啓吾と同じく東京帝国大学の文学部の学生である。彼は一族の歴史を手すさびに紐解くうちに、祭祀や霊異に関心を持ち、昨今では異国のものまで調べ始め、英国に「心霊研究協会」なるものがあると知った。「私の好奇心を満たしてくれるものが見つかった」と、凡そ大半の人には理解されない心霊学に精を出し、本にする予定もない論文のようなものを書いては出版社に直談判している。その勢いで昨年には英国にまで渡ってしまった。自称、心霊学者。世に言う「高等遊民」である。
しかし、当人は「こんなにも関心があるというのに、残念ながら何も視えない」と常に嘆いている。英国では交霊術なるものを試したが、まるで視えず、霊が出ると噂のところに足を運んでも、何も視えないと、手紙でまで報告してきた。
正周にとって「視える」啓吾は、憧れであり、恰好の研究対象になっているのだ。
「で、君は牡丹燈籠のように美女と逢瀬を楽しんでいたはずが、髑髏を抱えていたと……」
正周の中では、どんな幻想物語が展開されているのやら。苛立った啓吾は、眉を寄せて正周を睨む。
「何が美女ですか、牡丹燈籠ですか。月代の血だらけの侍ですよ。偶々、万世橋の上で行き会って、うっかり憑依されて、手前の髑髏を掘り返させられたんですよ。その上牢に入れられて」
「何と。正体は侍なのか。その姿を君は視たんだな」
しまった、好奇心を掻き立ててしまった……。
啓吾は慌てて口を真一文字に引き結び、更に話を聞きたがる正周を制した。
「と、に、か、く。今日のところは疲れています。すみませんが、こちらの寮で片づけもしたいですし、明日は普通に大学にも行かなきゃならないし、アルバイトにも出かけなければなりません。これにて、失礼いたします」
啓吾は勢いよくソファから立ち上がり、一つ頭を下げると、そのまま逃げるように書斎を飛び出した。
「啓吾君、もっと詳しく」
声が背後から追って来るが、それを振り切って長い廊下を走った。
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