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 それなのに……と、啓吾は、牢の壁に背を凭せかけながら、深くため息をついた。すると、

「真に、申し訳ない」

 耳元で声がした。驚いて声がした右側を見ると、すぐ隣に揺蕩う黒い人影がある。髷に鉢巻、顔には血……昨夜の侍だ。こんなところで霊を相手に話をすれば、同じ牢内の人からは、奇妙な独り言だと思われる。とはいえ、気になることは聞いておきたい。声を潜めつつ話しかける。

「お前さん、誰だい。迷っちまったのなら、早いところ逝かないと」

 これまでにも、逝き損ねて彷徨う者を度々、視ている。それはいつしか人の形も崩れて、その場に澱む黒い影となり、時には人に害を為す。元は人であったであろうものが変わって行くのは忍びないが、啓吾に何ができるわけではない。苦い思いを抱えつつ、足早に通り過ぎるしかないのだ。

 常には無視をするのだが、如何せん、今は関わらざるを得ない状況に追い込まれている。侍は、更にずいと顔を近づけ囁きかける。

「頼みがあるのだ……」

「断る」

 即答した。下手な安請け合いをすると、ただただ厄介に巻き込まれるだけだと、啓吾はこれまでの経験から知っている。

「さすれば、申し訳ないが、暫しその身に居座らせて頂く」

「いや、断る」

 更なる厄介を申し込まれ、思わず声を張り上げた。すると、牢の最奥にいる強面のやくざ男が、

「ああ、何をだ」

 と、恫喝するような声を出す。

「いえ、どうか気にしないで下さい」

 啓吾が取り繕うと、傍らの侍は両手をついて啓吾に向かって深々と頭を下げる。

「さすれば、お頼み申す。未練を断ちたいのだ」

 いや、お前さんは気にしてくれ、と、声を上げたいが、牢の面々の手前、声を出すわけにはいかない。更に言い募ろうとした次の瞬間、体が溶けるように眠気が襲って来る。眠りに落ちるというよりも、何かに伸し掛かられているような身の重さと、体が動かないのに五感だけが冴え冴えとして来るような感覚。

 来たな……と、思う。金縛りのように動けない。目も開かない。

 ただ啓吾の脳裏に鮮やかな炎が浮かび上がる。

 

 火の手が上がる山から逃げ惑う人々の群れがあった。啓吾はあの侍の記憶を見せられているらしい。侍の身と重なるようにその風景を眺めていた。

「逃げろ」

 侍は刀を手に、逃げ惑う人々を誘導し、追って来る者を斬り倒す。その光景は正に戦場である。

 男の身は既に深手を負っているように見えた。傷を庇いつつ、逃げる人々の後方を守りながら足を進めて行く。その途中、一人の子どもが泣いていた。煤だらけになっているが、赤い麻の葉文の着物を着ていることから、女の子であるのが分かる。

「おっかさんはどうした。はぐれたのか」

 侍の問いに女の子は泣きながら何度も頷く。侍はその子の手を引いて走る。やがてその視界に川が見えて来た。その時、後ろから黒い洋装を纏った男が駆けて来た。一人は大柄な男。もう一人は年若い少年のように見えた。

「幕臣め、逃げるな」

 大柄な男は刀を振りかざし、侍に斬りかかる。侍は女の子を背後に庇い、一合、二合と打ち合う。元より負っていた傷が痛み、刀の重みに耐えられずに手が緩んで、相手の刃が肩先にぐっと沈み込むのが分かった。刃の冷たい感触が、肩から身の奥へずんと響き、侍はどう、と倒れた。

「ふん、幕臣とやらは大したことなか」

 嘲笑うように言い放って刀の血を払うと、大柄な男は侍に背を向けて去って行く。しかし、少年兵は目の前で繰り広げられた死闘に驚いたのか、立ち尽くしている。その時、幼い女の子が侍に歩み寄る。

「おじさん、だいじょうぶ」

 侍は横たわったままで、泣く子の背を撫でながら、目の前の少年を見上げる。

「助けてくれ……」

 少年は戸惑ったような顔をした。先に行った大柄な男の様子を窺いながら、それでも立ち去らずに侍を見つめる。侍は這ってにじり寄り、少年の足首をぐっと掴んだ。

「某ではない……この子を……。そして、これを……」

 侍は、一つの守り袋を懐から取り出した。

「八丁堀の坂本という家で待つ女に、夫が死んだと伝えて欲しい」

 侍は、敵方の少年が守り袋を手にしたのを見届けて、ゆっくりと目を閉じた。

 

 啓吾が目を開けると、相変わらず汚れた牢の中に横たわっていて、頭の芯に鈍い痛みが残る。

「勝手に思い出をねじ込みやがって」

 夢うつつで見せられたあの光景は、侍の記憶なのだろう。ご丁寧に痛みまで今しがた斬られたように生々しい。侍のことを黒い服を着た大柄な男は「幕臣」と呼んだ。

「上野戦争……か」

 上野戦争は、旧幕府軍と新政府軍の戦いである。江戸城の無血開城の後、旧幕臣らを中心とした彰義隊と、新政府軍が衝突した。新政府軍の面々は、黒い軍服を着て三角の帽子をかぶっていたと聞いたことがある。戦場となったのは、上野。そこには、徳川家の菩提寺の一つである寛永寺が建っていた。東の比叡山を意味する東叡山と称され、壮大な伽藍を持つ寺院は新政府軍による容赦ない攻撃によって、火の海となった。昔ながらの江戸っ子は、明治になった今も憎々し気に、「あの時の薩長の連中ときたら……」と、罵る。薩長軍の中には、その後に西南戦争に加わって東京を去った者も少なくない。一方で東京に残って警察官となった者もいたという。啓吾を取り調べた巡査なぞも、残った薩摩の人の子なのだろう。薩摩にとって、上野戦争は誇らしい勝ち戦。時折、自慢しては江戸っ子たちに嫌われる。

 いずれにせよ、上野戦争は、東京において未だに抜けない棘のようなものだ。

 それにしてもあの侍は、目の前にその人しかいなかったとはいえ、敵に大切なものと幼い子を預けてしまうとは。

 しかし無理もない。あの男は息絶えたのだろう。そして数十年の時を経て、啓吾によって髑髏として掘り返されたのだ。霊となった侍の気がかりは、あの幼い女の子の行方と、八丁堀の坂本という家にいる女のことなのだろう。

「その人たちを捜せって……つまりはそういうことなんだろうなあ」

 啓吾の中に、どうしようもなく侍の望みを叶えたいという思いが湧き上がって来る。如何せんそれが、己の欲なのか、憑いたものの仕業なのか区別がつかない。相性の悪いものは体の調子を崩すので、どうやらあの侍と啓吾は、上手いこと波長が合ってしまったのだろう。

 啓吾はむくりと体を起こす。ふと傍らを見ると、陽炎のような侍が両手を合わせて縋るように見つめている。

「平にお頼み申し上げる」

 古臭い喋り口と月代のおかげで、すっかり年寄だと思っていたが、よくよく見れば、啓吾と似た年頃の二十歳前後。それが、戦支度の姿で斬られて死んだとなれば、さぞや無念もあろう。

「そう思って下さるか、忝い」

 思念が伝わるのか……と思うが早いか、侍は涙ながらに啓吾の手を取った。

「よしなに」

 そう言うと、そのまま姿を消した。

「いっそ、ここから出してから言ってくれよ」

 啓吾は顔を両手で覆った。

 

 

「斎木啓吾、釈放だ」

 転寝を叩き起こされ、啓吾は慌てて牢を出た。昨日来の付き合いとなる警官は、あからさまに不快そうに顔を歪め、

「ついて来い」

 と、長い廊下を先導する。一夜明けてすぐに出してもらえるとは、どういう理由なのか。

「無罪放免ってことですか」

「貴様がやったことは、いっちょん分からんが、上から放せと言われたら、仕方なか」

 不承不承という様子である。啓吾ははたと、「上から」という言葉が気になった。

「あの、その……上から、というのは」

「きさんが知っちょじゃろう」

 唾棄するように言うと、腕を掴まれて警察署の外へ押し出された。啓吾は、おっとっと、と、蹈鞴を踏んでそのまま前のめりに転んだ。泥だらけのシャツとズボンに汗臭さも相まって、まさに犯罪者らしいひどい有様だ。座り込んだまま手のひらについた土を払う。

「ざまあねえなあ」

 自嘲しつつ呟いていると、コツコツという革靴の足音が近づいて来た。そして啓吾の視線の先に磨き抜かれた革靴のつま先が現れた。

「大丈夫かい、啓吾君」

 頭上から降る声を聞いた瞬間、啓吾の額にじわりと汗が滲む。一昨夜の橋の上で侍に行き会った時よりも恐ろしい。舶来のオーデコロンの香に、ゆっくりと顔を上げる。

 仕立てのいい夏物の白い背広に、帽子をかぶった二十歳ほどの若い男が立っている。夏の朝の光を浴びた白さが鬱陶しいほどに眩しく、啓吾は思わず顔を顰めた。

「若様」

「さあ、立ちたまえ。君も大変だったねえ。車を用意したから」

 若様と呼ばれた男は、爽やかな笑顔と共に手を差し出す。

「もしや、釈放は若様の……」

「ああ。お父様が声を掛けて下さった。この連翹寺正周の腹心の友が、罪など犯すはずがないのだから」

 若様こと連翹寺子爵家の次男、連翹寺正周は、地面に座り込んでいる啓吾の手をぐっと掴んで立ち上がらせた。

 

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