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 目を開けると、見慣れた自室の天井が広がった。じんわりと頭の芯に鈍い痛みがある。

「夢か……」

 嫌な夢だった。どうせ夢を見るのなら、もっと幸せな心地になれる夢とてあるだろうに、よりにもよって血まみれの侍とは。

 啓吾はむくりと起き上がる。

 下宿は四畳半一間。階下には大家の老女、梅と、四十代の女中、敏子が住んでおり、一階に五部屋、二階に三部屋を貸している。

 元は江戸の頃に造られた宿屋とあって、古風な数寄屋門があり、その欄間には川辺に佇む牛と牛飼いの姿が彫られている。随分と腕のいい職人が彫ったらしい。おかげで学生からは「牛小屋」とあだ名されている。

 しかしその名に反して、部屋の中は板の間の小上がりを寝台として使える和洋折衷の洒落た造りだ。なんでも二期前の帝大生が、若手の大工や建築家と勝手に改装したとか。

「さてと」

 二日酔いの頭ではあるが、それでも大学には行こうと啓吾は寝台を降りるべく向きを変えた。

 が、部屋を見回して愕然とした。まるで泥棒でも入ったかのような泥だらけの足跡。窓際にはゴロンとした丸い塊が転がっている。

 その塊には二つの大きな穴が開いている。下には綺麗に歯が並んでいた。

「……髑髏、だな」

 確かめるように呟いた。

 昨晩のあれは夢ではなかった。

「これは、あの人の……」

 恐らく昨晩の侍が、この髑髏の主だろう。それがここにある理由も経緯も分からないが、それだけは確かな気がした。

 さて、これからどうするか……。

 思いめぐらしていると、トントントンと階段を上がって来る足音がする。恐らくは寮母の敏子のものだろう。やがて襖の外で声がした。

「ごめんなさいね斎木さん、開けますよ。昨夜は随分遅かったし、何だかあちこち泥だらけで……」

「あ……」

 啓吾が止める間もなく、襖がすらりと開かれた。襖の向こうにいる敏子の目は、真っ直ぐに窓際の髑髏に注がれ、次いでその場に崩れ落ちるように座り込み、

「ぎあああああああ」

 と、向こう五軒まで響こうという言葉にならない叫び声を上げた。

「ち、違うんです、これは昨夜、酔っていて……」

 酔っていたって、髑髏を拾う理由にはならない。それでも取り繕おうとしたが、時すでに遅し。厄介なことになった、と、啓吾は無言で天を仰いだ。

 

 

「いつ、どこで、どうやって髑髏を拾い、どうして下宿に持ち込んだんだ」

 目の前の警官は、先ほどから同じ問いを繰り返している。

 敏子の叫び声を聞きつけた人が、早々に駐在所に駆け込んだらしく、ほどなくしてやって来た警官は、髑髏を下宿に持ち込んだ胡乱な学生を見逃さなかった。かくして御用となった啓吾は、近くの警察署に連行された。髑髏は証拠として警察が押収したらしい。そして、かれこれ一時間は同じことを問われている。

 しかし、残念ながら明確な答えなどない。

「貴様が殺して埋めたのを、今になって掘り返したのか」

「滅相もない、そもそも私はその頃生まれちゃいませんよ。ほら……あの人、髷だから」

 暫しの沈黙の後、警官は声を荒らげた。

「髑髏でなぜそんなことが分かる」

 尚更、不審に思われた。確かに、髑髏には髪は残っていない。月代の髷に鉢巻……という、あからさまな侍姿を視ているのは自分だけだ。信じてもらおうにも難しい。

「昨夜、万世橋にいた車夫からも、胡乱な男が髑髏を抱えて去ったと通報があったのだ」

 車夫は、「万世橋で佇んでいた男が突如として橋の袂の瓦礫へ走り、土を掘って髑髏を抱えて立ち去った。気味が悪くて叫びそうになったのだが、ぎろりとこちらを睨まれたので怖かった」と証言していたらしい。

 恐らく昨夜、あの橋で、侍と目が合った時に体を乗っ取られたのだろう。その後髑髏を掘り返したのだ。

「さぞや驚かれたでしょうねえ……」

 啓吾は車夫に同情する。警官は、

「ええころかげんにせえ」

 と、強い薩摩弁で怒鳴った。警官には薩長の出の者が多く、「江戸っ子の帝大生」に厳しいという噂は、聞いたことがある。先方からすれば、「時代を切り拓いた志士に比べ、敗軍の末裔の分際でのうのうと生きている学士風情」に見えるのだろう。

 とはいえ明治も四十年近くを過ぎて尚、維新の栄光を嵩にかかって責められても、こちとら明治生まれである。警官も見たところ三十になるかといったところ。薩摩の志士は彼の父か祖父かといったところじゃないか……という悪態を辛うじて呑み込んだ。

 不服そうに黙り込む学生を前に、警官はあからさまに苛立った様子だ。

「とりあえず、少し頭を冷やして思い出せ」

 結局、牢にぶち込まれた。

 薄暗く湿った畳敷きの部屋は、饐えた臭いがする。奥の方には彫り物のあるやくざ者や、痩せた盗人など四人が蹲っていた。啓吾は昨晩から着替えもせずにここに来たので、泥で汚れたシャツとズボンを着ている。

「おう、殺しだってな。学士様が大したものだ」

 大柄な体躯の中年やくざが、口の端を上げて笑う。啓吾は苦笑をする。

「いや、殺してはいないんです」

 一体、どうしてそういう話になっているのか。牢名主のようなやくざは、看守から新入りの話を中途半端に聞いているらしい。啓吾は髑髏を持っていたにすぎない。だが、こんな大事になってしまっては、あの下宿、追い出されるかもしれない……と、啓吾はため息をついた。

 あの下宿に住まうようになったのは、昨年末。家族の転居に伴い、下宿を探すことになったのだ。

「この際だから、大学の近くに下宿先を探してみるよ。家賃は心配しなくても、学生用の安いところがあるはずだ」

 意気込んでみたは良いものの、なかなか思うような下宿は見つからない。ようやく見つけたのが、「牛小屋」と呼ばれる今の下宿であった。設えも悪くなく、部屋も綺麗だし、大学からも近い。それなのに相場の約半額。いい掘り出し物を見つけた、と喜んで、そこに決めようとしたところ、大家の老女、梅が申し訳なさそうに言った。

「嘘をつくのも心苦しいので、予め申し上げておきますが……この部屋は、夜中に不審な物音や呻き声が聞こえると、これまでの学生さんは皆、五日余りで耐えかねて出て行かれました。いわゆる凶宅との噂が立っているのです。でも、もし住んで下さるなら、格安にしたいと思って……ねえ、敏ちゃん」

 白髪の梅は、傍らにぴったりと寄り添う敏子に問いかけ、敏子もまた、ええ、と深く頷いた。はじめは梅の娘だと思っていたのだが、女中らしい。四十過ぎの敏子は未亡人で、この下宿に梅と共に暮らしており、寮母として下宿人たちの世話をしていた。

「凶宅でも構いません。安くて嬉しいです。食事もつくなら、ぜひ」

 梅と敏子は心底、ほっとしたようである。

 啓吾にしてみると、背に腹は代えられない。それに、凶宅などという噂がなくても亡霊が住まっている所も少なくない。しかも啓吾がパッと見たところ、この「牛小屋」には禍々しさの欠片もないのだ。

 実際に住んでみると、すぐに「凶宅」の原因は分かった。夜になると帝大の制服を着た男の霊が現れるのだ。その男は、

「ただいまっと。いやあ……強か酔ったなあ……」

 と、部屋に入るなり大の字に横になる。寝相が大層悪く、寝返りを打っては襖を蹴り、壁にぶつかり、寝言や歯ぎしりまでする始末。なるほど、視えない人からすれば、この男の寝相と寝言は不審な物音と呻き声に聞こえるだろう。

 聞けば以前、この部屋に住んでいた田中という学生が、酔って帰る途中に猫を助けようとして、路面電車に撥ねられて亡くなったらしい。しかし当人は死んだことに気づいていないようなのだ。

 啓吾が住み始めて間もない頃、田中は啓吾に挨拶をした。

「いやはや、よろしく頼みます。しかし、新しく同室者が来るなら大家もちゃんと言ってくれなきゃなあ。家賃は少しまけてくれるのかな」

 文句を言いつつ、受け入れてくれる陽気な男だ。啓吾にしてみれば、悪さをされるわけでもない以上、気にすることはない。

「そうですよねえ。すみませんが、よろしくお願いします」

 と、田中と同居することにした。田中は啓吾と同じく帝大の学生ということもあり、大学教授の話なども聞かせてくれた。若干の時間のずれはあるものの、「英文学のA先生は、B先生と折り合いが悪く出世街道から外れて腐っている」などという話は、なるほど確かに今と同じ状況でもある。「あの先生は論文の採点が厳しいが、このネタを入れておけば評価はくれる」といった豆知識も助かっていた。

 とはいえ相手は幽霊だ。余り頼ってもいけない。とりあえず、幼い頃に母に教えられた通り、朝な夕なに窓辺に水を供えて線香を焚き、形ばかり手を合わせて「南無阿弥陀仏」と唱えてみた。

 二十一日ほど経った夜半、田中はいつものように鼾をかいて寝ていたのだが、突然むくりと起き上がると、啓吾に向かって言った。

「おい、どうやら俺は死んでいたらしい」

 あっさりと認めると窓をするりと抜けて、霞のように消えてしまった。

 形ばかりの読経と線香が効いたのか……は、分からない。急に同居人が去ってしまったので、啓吾としてはほんのりと寂しささえ感じるほどだった。だが、恨みも未練も残さず逝ってくれたおかげで、啓吾は、格安で住める下宿を手に入れることができていたのだ。

 

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