五
街道の近くの丘の上で、松姫は人を待っていた。
草と土の匂いを運ぶ風が気持ちいい。油断していると寝てしまいそうだ。
「姫、もうすぐ来ますよ。寝ちゃだめですよ」
「わかっているよ」
藤十郎の小言をやりすごすが、欠伸を幾度も嚙み殺す有様だった。ふと見ると、藤十郎が手をあわせて何事か呪文を唱えている。
「どうしたんだ」
「いえ、望気術の稽古をしようと思ってね」
「ぼうきじゅつ」
「はい、信玄様から教えてもらった術です」
信玄は有能な若者を小姓に抜擢し、鍛えることに余念がない。いずれも知勇兼備の武者ばかりで、その中に藤十郎が入っていたのがいまだに信じられない。ちなみに、兄の新之丞もその一人で、こちらは優秀さでは群を抜く存在だった。
「私だってまだ槍働きの望みを捨てたわけではありませんよ。望気術さえできれば、兄のように戦場で戦うことも許されるのです」
藤十郎がいうには、望気術とは人の気配を読む法で、これに長じれば伏兵などもたやすく見つけることができるそうだ。この技が習得できないがために、藤十郎は蔵前衆の立場に甘んじているという。
「そんなことが本当にできるのか」
「望気術は、中国の『晋書』に書いてある歴とした技ですよ」
気が出現した高さにより、敵との距離を知る方法で、陰陽師などにも使える者がいるという。
「目をこらせば空に色がついて見えるそうなのです。人によって赤みや黄みがかかって見えるとか。さらに達者な人は、空から地を見下ろすようなこともできるそうです」
「じゃあ、わたしたちの待ち人がどっちの道から来るか当ててみせてくれ」
松姫の見る街道は二つに分かれていた。
藤十郎は、むむむと声に出して念じる。
「見えた。紫の気が微かに左の街道から上がっています」
だが、人影が見えたのは右の街道だった。二十人ほどの行列だ。旗指物を掲げており、そこには織田木瓜の家紋が染められている。
「くそ、なんでできないんだよ。いつもこうだ。兄者のように望気術ができていれば、今頃ひとかどの侍大将になって、天下に藤十郎の名を轟かせるのに」
望気術ができても藤十郎の膂力では通用しないだろう、と松姫は心中でひとりごちた。だが、藤十郎は己の名が天下に知れわたると信じて疑っていない。それよりも、客人たちだ。先頭は四十代後半の武者で、灰色になった髪が苦労人然とした雰囲気を醸している。その横に、松姫と同年の童がいた。
「望月ぃ」
松姫は手を上げた。
「ああ、松姫様ぁ」
望月と呼ばれた童も飛び跳ね、駆け寄ってくる。
「久しいな」
松姫が声をかけると、望月の表情が曇った。
「どうしたのだ。具合が悪いのか」
「前にあった時に約束したでしょう」
「何をだ」
「もう、いいですよ」
なぜか、望月が拗ね出す。
「津田一安、信長様信忠様親子の使者として、まかりこしました」
灰髪の武者が丁寧に頭を下げた。織田の一族衆で信長が実弟の織田信勝と戦った時、信勝側についたために尾張から追放された過去がある。その際、甲府に十年以上滞在した。甲斐で生まれた息子が、望月である。
一安への信長の怒りが解けたのが、松姫が四歳の頃。一安は尾張に帰ったが、望月は甲府に残された。万が一、信長の気が変わった時の備えとしてだ。父と離れ離れになった望月の落胆は大きく、松姫がよく慰めてやったのを覚えている。そして、一安は翌年、また甲府へとやってきた。織田家と武田家の同盟を締結するためだ。信長の姪と松姫の異母兄の武田勝頼との縁談をまとめ、一安は尾張へと帰っていった。先とちがうのは、望月も連れて甲斐を去ったことだ。
その後、一安は何度か甲府を訪れたが、必ず望月を伴ってくれた。
「確か、最後に会ったのは二年前だな」
「ええ、そうですな。姫が、望月を無理やり馬に乗せて泣かしていましたな」
そんなことがあっただろうか。全く覚えていない。望月は絵を描くのが好きな童で、体を動かすのを好まないのは確かだ。
「望月、積もる話もあるだろう。姫と一緒にゆっくりと後からきなさい」
「いえ、父上、いいです。すぐに躑躅ヶ崎館に行きましょう」
どうして望月はつれないのだろうか。気になったが、松姫はすぐに切り替える。
「わかった。では、わたしたちは先に報せてくる。藤十郎、行くぞ」
いうなり松姫は灯影の背中に飛び乗った。慌ててついてくる藤十郎と一緒に街道を駆ける。
「姫っ」と𠮟声が飛んだのは、館についてすぐだった。
長坂が怒り肩でやってくる。
「一安殿が来られるのは知っているでしょう。早く正装にお着替えなさい」
その一安と会っていたのだが、いえば火に油を注ぐだけなので黙っていた。
奥の間へと引っ込むと、待ち構えていた侍女たちに着衣をはがされ着飾らされた。薫という背の高い侍女は、有無をいわさぬ手つきで髪を整えてくれる。いつもはつけぬ匂い袋なども持たされた。馬の臭いでもするのかと体を嗅いでいると、「姫」と襖の奥から長坂の𠮟声が飛ぶ。
「お呼びがかかるまで礼儀正しくお待ちください」
ここで礼儀正しくしても見えるわけでもないのに、とは口に出さない。やがて、侍女たちから「そろそろのようです」と声がかかった。いつもとちがう足取りで廊下を進んでいく。
広間では、宿老や家臣たちが並んでいた。上座にいるのは、武田信玄だ。その対面に、津田一安がいた。
「おお、姫、先とはちがい麗しいお姿ですな」
一安の朗らかな言葉に首を傾げたのは長坂だ。
「松、ここに参れ。信忠殿からの贈り物を、一安殿が持ってきてくれた」
信玄が自身の左側を叩いた。
「姫、よき柄の小袖ですな。しかし、信忠様からの品もそれに劣らずでございますよ」
一安の前には、漆塗りの箱が並んでいた。その一つ一つに、小袖や打掛が入っている。花や蝶の柄が美しい糸で刺繍されている。が、どれも派手だ。松姫はもっと控え目な図案が好きなのだが。これは信忠の趣味なのだろうか。一安を見ると、誇らしげに笑んでいる。
「お気遣い痛みいる。それはそうと、輿入れの件であるが」
「それでございます」信玄の言葉を、一安が遮った。「こたび、縁談だけの使者ではありません」
「越後上杉家との和睦を仲介する使者でもあるわけか。そういうことならば、松は退室せよ」
「いえ、松姫様にも関わりがあることです」
一安はいつになく口調が強い。
「信玄様には、早急に上杉家と和睦していただきたくあります」
「それは、謙信めがこちらの条件を吞むか否か、だ」
武田家のもとには謙信に駆逐された大名小名が庇護を求め、同じように謙信のもとにも武田家に駆逐された国人たちが匿われていた。謙信の要求を吞めば、武田家が庇護する大名小名が不利益を被り、逆もまた然りだ。一筋縄でいかぬことは、童の松姫でもわかる。
「大変、申し上げにくいことですが、もし上杉家と戦に及ぶようなら、婚約は破談になります」
場が一気にどよめいた。松姫は信玄を見た。
周囲の動揺とは裏腹に、泰然として姿勢を崩さない。
「我らと上杉家は長き因縁にある。それがわかった上で、縁談を進めたはずだが」
織田家との同盟のはじまりは七年前だ。その流れで、五年前に松姫と信忠との婚約が結ばれた。一方で、上杉謙信と信玄が最初に戦ったのは十九年前のことだ。
「おっしゃることはごもっともなれど、大局を見ていただきたくあります。松姫様が輿入れすれば、武田と織田は一心同体、日ノ本の風景は一変します。そのためにも、上杉家との和睦、ぜひご承諾ください」
一安が必死に弁をくる。
「悪いが、一安殿よ、和睦の条件は譲れぬ」
「そこを譲歩していただければ、松姫様の輿入れも滞りなく進みます」
信玄が、気だるげに息を吐いた。
「謙信めが承諾できぬというなら、ことは簡単だ。陣触れを出し、越後の国境を侵すだけだ」
まるで朝餉をとるかのように、信玄はいってのける。
六
夕焼けに体を暖めながら、松姫は馬の鞍に揺られていた。今日も馬乗袴は泥だらけだ。
「いやあ、勝てないですねぇ」
吞気にいったのは、後ろから馬でついてくる藤十郎だ。今日も牧で新之丞と競い馬をしたが、一番もとることはできなかった。
「せっかく、姫が孫子を読み込んだのになぁ」
「藤十郎、お前なぁ、孫子を読んでみろといったけど、『戦わずして勝つ』なんていう教えで、どうやって勝つんだ」
「そりゃあ、兄によくない薬を吞ませりゃ、戦わずして勝てるんじゃないですか。なんなら、私めがやりましょうか。兄に泣かされた女たちの仇討ちですよ」
「馬鹿。恨まれているのは藤十郎の方だろう」
藤十郎は美声の持ち主で、それを駆使して──あるいは下手な矢を数射って──何人かの女人を泣かせていると評判だ。一方の新之丞は何年か前に奥方を亡くしたが、それ以前も以後も浮いた話は聞かない。ただ、一方的に女人から言い寄られているだけだ。
「あ、噂をすれば女泣かせの悪人が来やがった」
鞭で軽く藤十郎の頭をはたいてから、新之丞は松姫と並んだ。
「新之丞、次の勝負はいつにする」
「そんなに負けるのがお好きですか」
新之丞は、意地の悪い笑みを浮かべている。
「輿入れまでに新之丞に勝たねば、孫子旗をもらえぬからな」
松姫がそういうと、「いつでも受けてたちますよ」と新之丞は余裕だ。その言葉に、松姫は安堵する。信忠との輿入れの行方が怪しくなった今、無心になれる新之丞との競い馬の時間は貴重だ。
「藤十郎と孫子を勉強しているとか。競い馬の役に立ちますか」
松姫は首をふった。
「姫、それは教えてるこっちの甲斐がないよ」
「けど、あの書は面白いな」
「ほお」と、新之丞の顔に好奇の色がのる。松姫は、孫子の一節を読んだ。
「声は五に過ぎざるも、五声の変化はあげて聴くべからざるなり」
五つの音階しかなくても、組み合わせれば無限の音曲ができる、という意味だ。
「技の熟達でも数でも、新之丞には及ばない。しかし、組み合わせれば、勝ち目があるかと思ったのだが──」
「曲にはなっておりませんでしたな」
嫌味に感じないのは、新之丞の人柄だろう。
「絵も料理も、多彩な色や味を使っているわけではありません。要は組み合わせ。逆にいえば、絵や料理をよく観察すること。どのような色や味を組み合わせているか」
「絵や料理か」
思い出したのは、望月のことだ。会った最初こそは機嫌が悪かったが、数日もすると以前のように打ちとけた。矢立と帳面を持って、あらゆるものを描き写している。描きたいものがあるから案内してください、とまで松姫にいってくる始末だ。望月はどんな色遣いの絵を描くのだろうか。骨(輪郭)描きばかりで彩色しているのを見たことはない。そうだ。わたしを描かせるのはどうだろうか。望月が松姫を観察し筆を走らせる姿を想像すると、なぜか胸がくすぐったくなった。
道に、山伏の一団がいることに気づく。掲げる旗には“薬”と書かれていた。
「松姫、気をつけなさい。女をたぶらかしていそうな顔をしている」
藤十郎が囁いた。見れば、一団の長と思しき山伏は女のように長く美しい髪を持っている。目鼻口も藤十郎が嫉妬するだけあり端整だ。
「もし、そこの修験者殿、薬を売っておられるのか」
松姫は、美貌の山伏に語りかけた。藤十郎が恨めしげな目で睨むが無視する。
「修行には怪我や病はつきものですので、その薬を売って行の足しにしております」
山伏は澄んだ声でいう。手にもつ杖はよく使いこまれていた。
「身内が最近、元気がないのじゃ。心配でな。よい薬があればと思って」
「お身内の方とは、お父上ですか。それとも……」
「五十をこえた殿方じゃ」
さすがに、信玄の薬を欲していると明かすわけにはいかない。
「よければ、屋敷に参り薬を調合いたしますが」
「そこまではいい」
「では、陀羅尼という薬はいかがか。修行で疲れた時によく服みます」
隣にいる老山伏に目配せした。長い腕を使って荷をおろし、薬箱から紙包を取り出す。
「ならば、それをもらおうか」
松姫が藤十郎に銭を払うように指示した時だ。
法螺貝の音が響き渡る。さらに陣鐘の音も続いた。躑躅ヶ崎館からだ。
「じ、陣触れだ」と、藤十郎が小さく叫ぶ。
はたして、どこを攻める陣触れなのか。普通に考えれば上杉家だろう。しかし、今は乱世。陣触れは頻繁に出る。兵を集めても状況が好転すれば、どこにも攻め込まないこともままある。
「急いで帰りましょう。おい、藤十郎、早くしろ」
新之丞にいわれるまでもなく、松姫は馬の腹を蹴っていた。序の足から破の足へとすぐに移る。新之丞がすぐに続き、かなり遅れて藤十郎が追いかける気配がした。
ふと背後を見る。
美貌の山伏が、松姫を眩しげに見ていた。その手には、売り損ねた薬の包みがある。
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