三
泥だらけの体になって、松姫が躑躅ヶ崎館へと帰ってきたのは日が暮れてからだ。幾度も新之丞に挑んだが、ことごとく敗れてしまった。右腕と内腿は疲労のために感覚がない。箸も持てないのではないだろうか。
「姫、これは随分と見目麗しい姿におなり遊ばしましたなぁ」
厩舎の陰から諧謔に満ちた声でいったのは、藤十郎という男だ。小柄で目鼻口は十人並みだが、それがよく動く。ゆえに愛嬌がある──ように初見の人は思う。
が、当人をよく知る松姫にとっては、軽佻浮薄にしか映らないのだが。
「はい、氷室からとってきたばかりの氷ですよ」
藤十郎が桶を手渡す。中には拳大の氷が数個、入っていた。灯影が蹄で地面をひっかいて食べさせろと松姫をせっつく。
「こんな姿になったのは誰のせいだと思っている」
氷を灯影の口に運びながら藤十郎を睨む。
「その言い方ですと私の兄ですか」
新之丞と藤十郎は兄弟である。二人の父は上方の猿楽師で、甲斐に下向し信玄に仕えた。そして、兄弟は力量を見込まれ小姓に取り立てられた。兄は武田家重臣の土屋姓をもらい、今は土屋新之丞と名乗っている。一方の藤十郎だが、武術はからきしで、今は蔵前衆として働いている。
「うちの兄は本当に頑固者でしょう。弟の私も苦労しているのです」
わざとらしくため息をつく。
「誰が頑固者だ」
入ってきたのは、新之丞だ。こちらは松姫とちがって、着衣はほとんど汚れていない。
「兄者、松姫様は婚礼を控えているのだぞ。傷でもついたらどうする」
「孫子旗を嫁入り道具に所望されたからだ」
「ひゃあー、それは姫が悪い。よりにもよって、どうして孫子旗を」
不利と見ればすぐに矛先を転じるのが、藤十郎だ。
「あの旗の文言が気に入った。まるで詩のようではないか」
「そんだけですか」
「悪いのか」
睨みつけると、藤十郎がひえっと首をすくませる。
「あれは、父上のための歌だと思わぬか。風のように速く、林のごとく静かに、そして火のように攻め、山のように動じない」
「孫子の文言は歌ではありませぬよ」
たしなめたのは、新之丞だ。
「それはそうと、新之丞」
「何か」
「父上は、お体がよくないのか」
「どうして……」
「いや、父が馬に乗らなかったから。いつもなら、誰かに勝負を任せるようなことはしない」
「着替えが面倒だったのでしょう」
そうだとしても、以前の父なら期日を決めて勝負を受けたはずだ。
「勝負するなど百年早い、と思ったのではないですか」
「なんだと」
「ほら、怒らない。織田の若君様が驚きますよ。もっとおしとやかに。そうだ、嫁入り道具ならば、小袖や打掛や化粧道具でよいでしょう。藤十郎に誂えさせましょうか」
藤十郎は万事において派手好みなので、とんでもない姿にさせられるだろう。
犬でもあしらうようにして、新之丞は去る。途中で侍女が近寄り、花を渡した。それを新之丞は如才なく受け取る。
「気に入らねえ。また、女をたぶらかしやがって」
藤十郎の弁は言いがかりだが、「わたしも気に入らない」と松姫は応じた。
新之丞を負かせなかったことが、だ。そして、父が相手をしてくれなかったことも、だ。
「じゃあ、手を組みましょうよ。ああ、そんな冷たい目で見ないでくださいよ。けど、その強気な瞳。あと数年たて──ひぃぃ」
松姫は藤十郎の足を思いっきり踏みつけていた。
「よく考えてくださいよ。私と手を組み兄を負かせば、孫子旗が手に入る」
そして、藤十郎は兄の無様な姿をいいふらす。それで女の歓心が買えると考えているのが哀しい。
「手を組むも何も、藤十郎は馬には乗れないだろう」
「失礼な。乗れますよ。ただ、得意じゃないだけです。けど、やる気になりましたね。じゃあ、同盟を組むってことで。そうだ。孫子の兵法書に頼りますか。故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為す者なり」
「それはおまじないか」
藤十郎はやれやれと呆れる。
「この後、『故に其の疾きことは風の如く』と続きます。孫子の兵法書を読み込んで、兄者の隙をついて負かすのです」
熱く語る藤十郎とは裏腹に、こつこつと地面を叩くのは灯影だ。氷をくれとせがんでいる。
四
「いやあ、なんとお礼をいってよいものやら」
焚き火を囲む長岌らに、牢人は幾度も頭を下げた。女童は心地よい寝息を立てている。先ほど「お腹が減った」といって皆を笑わせたところだ。長岌が味噌をつけた握り飯を焼くと、目を輝かせて平らげた。その後は、長岌の長い髪を羨ましがり、ひとしきり話をして、やっと眠りについた。
「それよりも、お武家様はどうして旅をなされているのです」
長岌が聞くと、牢人は恥ずかしそうに頭をかいた。
「今までは徳川家の雇い足軽でして。ちと食えなくなってきましてね。越後の上杉家に行こうと思って。織田家とちがって、謙信様なら神仏を大切にしそうじゃないですか」
「確かに神仏のご加護のない者に、未来は開けないでしょう。そうだ。上杉家なら、仕官を紹介できるやもしれませんよ」
にこやかにいう長岌の背後を、山伏の一人が小便に行くふりをして通る。「隠密ということを忘れずに」と囁いた。無視して、長岌は牢人に微笑んだ。
「本当ですか。なら、これが私めの功名帳です」
おずおずと一冊の書を差し出す。
「三河の戦で、感状ももらっておられるのか。関東の北条家にもおられたことがあったのですな」
「雇い足軽として転々としました」
ゆっくりと丁をくる、長岌の手が止まった。
「御辺は武田家にもおられたのか」
己の声に怒りが滲むことを、長岌は自覚した。しかし、牢人はそれに気づかぬようだった。
「ああ、それが私めの一番の自慢かもしれませんね。三十年前の諏訪攻めの時です」
遠慮がちだった牢人の声が、急に明るくなった。長岌のもつ功名帳を指さし説明する。
よりにもよって、この男は諏訪を攻めた軍に参加していたのか。
「まだ、信玄公は晴信様という名乗りでしたが、大層な戦上手でございまして。諏訪を攻め取った戦に、私も雇い足軽として参加しておりました。ほら、首をにきゅうぅぅぅぅう」
牢人の口から奇妙な声が吐き出され、首がぽとりと落ちた。胴体から離れた首は、しばらく声を発し続けながら転がり、女童のすぐ横で止まった。遅れて、胴体から血が噴き出す。一体ではなく二体。妻の胴体もまた首を失っていた。
「な、なにを──」
山伏たちが一斉に立ち上がる。が、道鬼坊だけは冷静だった。布を取り出し、長岌が手に持つ仕込み刀についた血をぬぐった。
「武田の狗だとわかっていれば、最初から救わなかったものを」
骸に向かって唾を吐き捨てた。
「ち、長岌殿……あなたは正気か」
山伏の一人が詰め寄ろうとするが、途中で止まった。先ほどの斬撃を思い出したのであろう。
「ううん」と声が聞こえた。目をこすりながら、女童が体を起こす。
「お父上、お母上、かわやに──」
そこで声が止まる。女童の目の前には、父母の首が転がっていた。
小さな目が極限まで開き、こぼれ落ちるのではないかと思った。
「恨むならば、お主の父が信玄の狗だったことを恨みなさい」
長岌は仕込み刀を一閃させた。両親の首によりそうように、小さな首が転がっていく。
梟が飛び去り、暗い空に消えていった。
『風林火山のむすめ』は全3回で連日公開予定