「ベビーシャワーって何かわかる?」
今朝、るうこが朝食の準備をしながら言った。テレビをつけて、こめかみをさすりながら見ていると、天気予報の合間に、ビリー隊長が現れる。片言の日本語で、ガンバレ、ガンバレ、と言いながら仲間たちと軽やかなステップを始めた。
深夜のあの告白は何だったのだろう。結婚とかなんとか。いつも通り喪服でお化粧もせずに、キッチンを動き回っているだけ。
私はここしばらく、朝ごはんなんか食べなくても平気だったから、るうこが毎日運んでくる鹿泉山の水だけを飲んだ。いくら飲んでものどが渇くから、口を大きく開けたまま水をざばざば流し込んでいると、コーヒーメーカーから蒸気があがるのが、横目に見えた。
「こういう和洋折衷の朝ごはん、お母さん好きだったよね」
「え? 美魔女はそんなもの食べないわよ」
横から皿を覗き込んでみると、目玉焼きとソーセージが載っている。やっぱり食欲がわかないから、ソファに座った。
「ベビーシャワー? 聞いたことないけど。もしかして沐浴のことかしら」
「ネットで調べたんだけど、赤ちゃんが生まれる前のお披露目会みたいなものなんだって。みんなでお祝いするみたい」
私はため息をついた。
「あのね、るうこちゃん。出産ってとてもデリケートなことなのよ。お祝いした後に不幸があったらどうするのよ」
「でもそれをするっていう人が実際にいて、私たち、呼ばれたんだよね。私とニシダが」
「誰があなたたちなんかを呼ぶっていうのよ」
「昔の同級生。水汲み場で会ったの。それで行くって言っちゃったのね。今から断ったら失礼じゃないかな。赤ちゃんのことを祝えない、心の狭い貧乏人だと思われないかな」
「そうねえ。わからないわ」
どうして、まだ産まれてもないものを、みんなでぞろぞろ集まって祝うのかしら。また変な宗教が流行っているの? 付き合いでついて行っても、どうせ後悔するだけなのに。
「行くといってもやっぱりこれじゃ、よくないよね」
るうこは喪服の袖を引っ張った。当たり前じゃない、常識のない子ね。なぜこの子は毎日毎日バカみたいに喪服ばかりを着ているのかしら。理由を聞いたことはなかったはず。聞いたって理解できない。もともと私たちは分かり合えないから。るうこのことを心配するのはもうやめたの。自分のことだけしか考えてないるうこのことなんか、嫌い。スーパーで店員に万引きを疑われて絡まれた時だって、るうこは他人みたいな顔で少し離れた場所から騒動を見ているだけ。
「そうだ。二階のクローゼットに、服とかアクセサリーがたくさんあったわよ。シャネルとかティファニーとかヴェルサーチなんかも。ピカピカのままだった」
正樹さんにもらったものもあったし、別の男からもらったものもあった。輝きを手に取ると、何だか夢を見ているみたいだった。私だけが劣化して、おばあさんになってしまったみたい。
「ほしいものがあれば持っていってちょうだい。あとは全部ゴミに出すわ」
るうこが私の顔を見た。なによ? と聞くが答えない。意地悪を言っていると思ったのかもしれない。私は黙って首を振った。
「それにしてもお母さん痩せたよね。みるみるうちに痩せていく」
「そう。ありがたいことに、サプリが効いているのね」
するとるうこは、硬く微笑んで食器を片付け始める。
るうこが時間になるとサプリを持ってきてくれるから、飲み忘れずに済む。一日三回、飲むとしばらく世界がぎらぎらと明るくなり、記憶の万華鏡の中に入り込む。
掃除機をかけて、床を拭いてワックスをかけて。お義母さんの部屋なんか葬式の日以来入っていないし、お義父さんの部屋に最後に入ったのは平成何年だったかしら。部屋の中に食べ物なんかがあったら嫌だわ。動いていると汗がしたたり落ちてくる。また代謝が上がってる。じっとしている暇はない。これまで、ずっとこの屋敷に閉じ込められて、時間を無駄にしてきたから。
なんのために美しさを取り戻すの? また誰かに愛されるためでしょう!
心の悲鳴が聞こえる。愛されたい、大切にされたい、誰かの瞳の中心にいたい。それが私が今でもしつこく生きている理由よ。気持ちが高ぶり、飲んでいた水を天井に向けて思いきり噴き出してしまう。まるでロック歌手かプロレスラーみたいだとおかしくなって笑ってしまう。るうこがいなくなった部屋で、私は思い出に浸る。いい思い出も悪い思い出も、ドラマを見ているみたいで、心を奪われる。ブートキャンプのリズムが頭にこびりついて離れなくなり、息苦しくなってくる。ワン、ツー、スリー。ああみんなうるさい、また記憶が追いかけてくる。みんなで集まって楽しそうな、あの勉強会みたいじゃないの。
るうこが誘拐されたあの日まで、勉強会だけが、家族三人水いらずになれる時間だった。あの親子と会ったのもそこだった。山岳信仰とでもいうのかしら、祖父の代から熱心に参加していて、今は付き合いで顔を出しているだけだと正樹さんは朝食の席で言った。お義母さんは黙ったままで、小さく首を振った。
勉強会ではオカシラ様というキツネの天狗みたいな木彫り人形に手を合わせたり、みんなで手をつないで円になり独特な歌を歌ったりした。何も楽しくなかったけど、みんなこの日を待ち侘びていたみたいに、会が始まる前も、終わった後もおしゃべりに夢中だった。
最後になるとセンセイが、一人ひとりに「ラベリング」という施術をしてくれた。元大学教授だという老人だった。いつも同じ灰色のポロシャツにチノパンで、気難しさを隠すように妙にニコニコしているのも、老人のくせに毛量が多いところも私は苦手だった。肩に手を当てたり両手を握られたりするだけで、みんなが口々に「生まれ変わったようだ」「明日から頑張れる」と喜んでいた。私は施術が効いたふりをして、内心はバカにしてやり過ごしたけど、るうこはラベリングを受けた後は、いつになくキラキラした顔でセンセイに丁寧にお礼を言っていた。
「本当に変な人たちよね」。ある日の帰りの車の助手席で、茶化してそう言うと、正樹さんはすごく嫌な顔をして「バチが当たるぞ」と言った。え? 付き合いなんじゃないの? そう思って少し怖くなった気がする。
るうこは勉強会を気に入っていて、家に帰ってからも鼻歌まじりにオカシラ様や薬草の絵を描いていたし、勉強会の日は朝から鏡の前で入念に準備をして車に乗り込んだ。学校で「勉強会」のことは話しちゃだめよ。そう口止めしていたけど、参観日に教室の後ろに貼られていた絵には、黄色と赤の洋服でおめかししたオカシラ様の絵が小さく描かれていたから、私は苦笑した。
勉強会の帰りは、観光客向けの、古民家ステーキハウスで遅めのランチを食べた。掃除が行き届いていない古い家屋の店内は、ほこりと木の匂いがして、妙に心が落ち着いた。ピーク時を過ぎて、客のいない店内。オールディーズのカントリー曲が小さくかかっていた。るうこは勉強会で配られた冊子を熱心に読んでいたし、正樹さんも新聞を読んだりイヤフォンでラジオを聞いたりしていた。人生ってこんなものなのね。これが幸せってものなんだって自分に言い聞かせて、黙って二人を見ていた。帰り道、車は灯油男のアパートの前を通った。駐車場にはいつも停まっている彼のバイクがなくて、だけど別に、なんとも思わなかったわ。
るうこは普通の子よりもかわいいんだから、目立つんだよ。変な男に気をつけないとな。
正樹さんだけじゃなく、警察や学校からもそんな注意を受けた。変な男に連れ回されて、あずさで東京の方まで行っていただけ。それ以外は何もなかった。そういうことで誘拐事件は片付けられた。とにかく無事でよかったよかった。ひとり、またひとりとそう言って解散していった。平凡な毎日はあっさり戻ってきた。だけど私だけが、打ちのめされるようにこう思った。もう遅いのよ。なぜみんな気づかないふりをするの? 何があったか、二人にしかわからないんだから。それってもう手遅れじゃない。って。
誘拐されて妙にいきいきして戻ってきた我が子を、不気味な存在に感じた。洗脳されてしまったのだと確信したのは、私の頭の上にいきなり図鑑が落ちてきたとき。たしか魚の図鑑だった。階段の上を見上げるとあの子がいて、くすっと笑ったのだった。可愛い顔をしている。わざと私の頭をめがけて落としたのかどうか、とっさに判断できず声が出なかった。挑発的に輝く瞳に長いまつ毛。帰ってきて以来、ますます美しく見える。こうなりたかった、こんな顔に。私は思わず、我が子に憧れた。見上げていると、赤いスカートの中の白い下着が少し見えた。天井からほこりが降って、私とるうこの間できらめいていた。どうして子供がいるのにこの屋敷はいつも静かなのだろう。しんとして、冷たい風がどこかから入ってくる。
るうこが微笑んだので、私も思わず口角をあげていた。私たちは微笑み合いながら顔を見合わせた。久しぶりにあの子の顔を正面から見た気がする。全部知っているんだ、と言っているようだった。浅はかで未熟で滑稽で、いつも残念なのよお母さんは。若い男と無理して付き合って、青春ごっこなんかして変な人。
お母さんと私は違うの。私にはいつでも、ここから連れ出してくれる人がいるのよ。
美しい娘の笑顔に答えがすべて書かれているような気がして、まぶしさに目を細めた。
そうなのよ。灯油男なんか、どうでもよかったのよ本当は。寂しかったの、退屈だったの、なんでもよかったの、どうせ欲しいものは何も、手に入らないんだから。
るうこが戻ってから、しばらく精神科に通院するはめになった。週に一度タクシーに乗り、山から降りて街に出た。他人に心のうちを全部吐き出したって、それがなんだっていうのよ。だんだん通院をサボるようになって、デパートをぶらぶらして過ごしていたら、正樹さんが私よりも年上の女と楽しそうに腕を組んで、バッグ売り場を歩いていた。娘が誘拐されても、行動を改めないバカな田舎の男。私が全部悪いの? どうしてそうなるの? 売り場に出ていた小さな財布を、そっと自分のバッグに入れると、初めて頭がすっきりした。
ビリー隊長の掛け声が聞こえて、私は頭が冴えてくる。急に人生が手のひらに収まるように小さくはかないものに感じた。人生なんか、たかだか数時間あれば全部振り返ることができた。まだ思い出していないことはないかしら。汗が噴き出す。身体からエネルギーが湧き立っているのに、それをどうすればいいのかわからない。立ち上がってみると、太陽がまぶしくてカーテンを閉めて回る。満先生のピアノの音が聴こえるけど、耳を傾けている暇はない。ピアノ? それだけじゃないわ。バイオリンもシンバルもフルートも聴こえる。振動で窓が震える。これはオーケストラなの? 先生はあの家に、オーケストラを呼んでいるの? なんのために? もしかして、赤ちゃんを祝福しているのかしら。るうこが今朝、ベビーシャワーとかなんとか言っていた気がする。バカな人たち。呆れたけど同時にほほえましくも思う。いいじゃない、お祝い事なんか、多けりゃ多い方がいいのよ。そういう場所に行きたい。お酒を飲んで踊ったり笑ったりしたい。注目されるのは慣れてるし、その時にどうふるまえばいいかもわかってる。まだこの世に生まれてもないものを祝うなんて、無責任で楽しいわ。人生は、生まれてからの方が大変なんだから、先にお祝いするのもいい。なんだって生きているうちに経験しておきたい。シャワーでもオーケストラでも。私はね、今、何でもいいから理由をつけて暴れたいだけなの。腹がたつ。誰も私に見向きもしないことに。古い屋敷に置き去りにされて、誰も私を救い出してはくれないの。
「るうこちゃん私も行くわ。ベビーシャワーに」
大きな声で叫ぶ。声が泡になって消えていくような気がして、もう一度、両手両足を広げて私は叫ぶ。身体が動く! 声が通る!
「私も行くわ! 明るい世界に行くのよ!」
るうこはその日、ふてくされながらも私のヴェルサーチのセットアップのスーツを着て鏡の前に立っていた。花や蛇や亀や黒や金や赤のダイヤ柄のスカーフが何枚も張り付いたようなデザインは色彩と幾何学模様の暴力、胸元には金の装飾がついたロゴ。まるでその……、言葉を選ぶなら、いかさまの手品師よ。これ、本当に私が買ったの? 精神科に通っていた時期かしら。でもまあいいんじゃない、これなら誘拐されることはないわね。
「お母さんは関係ないでしょ? お母さんはベビーシャワーとは何も関係ないじゃない」
車に乗り込んでもなお、るうこはそう言って抵抗していたけれど、もう赤ちゃんへのプレゼントは用意したし、ご祝儀だって包んだんだから、と毅然とした態度で反論し、車に乗り込んだ。車の鍵も差し込まないので、見ると、珍しくとても怒っていた。
「一緒に行きたくない。お母さんはベビーシャワーに関係ない」
「しつこいわね。早く車を出しなさい」
早く早く、と足をバタバタさせると、全身が気持ちよくしびれてきて、笑いが出てくる。あはは、ははっ、あっははは。笑いに夢中になっていて、気が付くと車は家からだいぶ離れた場所まで進んでいて、後部座席にはニシダが乗っていた。青いスーツに紫色のシャツ、それから金の時計をつけていて、やだわ昔の借金取りみたいじゃない。私はバレないように小さくプッと吹き出した。座席の隣には金と緑のストライプ柄の丸い箱がピラミッド型に三つ重なっている。気合が入っているわね、ニシダ。
「お母さん、ずいぶん痩せたんじゃないすか」
「そうなの。ダイエットピルのおかげね。若さも取り戻したみたいでしょう」
「若さ? まあ、前向きなのはいいんじゃないすか」
プレゼントのリースをニシダが見たので、「盗んだんじゃないわよ。造花で作ったのよ」と断った。片づけの最中で見つけたのだった。昔、東京のデパートで買った、フランスの職人が手作りしたという造花。百円ショップに並んでいるものとは比べ物にならないくらいに精巧な作りで、今にも香りが漂ってきそうだった。なんて気の利いたプレゼントなんでしょう。ニシダのなんかどうせハリボテよ。大きい箱に入れているだけで、中身はどうせくだらない物が入っているのよ。まさか、その中に赤ん坊の頭でも入っていて、みんなを驚かせようとしてるんじゃないでしょうね。不細工な男は、そうやって奇をてらって注目を集めようとするところがあるから。
水を飲もうかと思ったけど、パーティでご馳走が出るのだから少し我慢しなくちゃ。るうこが作る薄味のご飯はもう食べ飽きた。それから、もうすぐみんなが私の美貌にあっと驚くの。美魔女がいる、こんな田舎に似合わない美しい人がいるって。
「あなたたち、毎日水を汲みに行ってるんでしょ。私は何でも知ってるのよ。るうこはね、そうやってコソコソ男と会うのが好きなのよ。ニシダさん、るうこはあなたと結婚するって本当なの?」
「お母さん、やめてよ」
るうこが遮った。ハンドルを持つ手が震えているのが見えた。私は窓を少し開けて、新鮮な空気を吸う。
「るうこの勘違いよね? だってこの子、小さい頃に変な男に誘拐されたことがあるのよ? その話はちゃんとしたの? ニシダさん、そんな人と一緒に暮らすのなんか、怖いわよね? 宇宙人にさらわれた人間と同じなのよ」
「俺は誰とも結婚しないっすね。何も成し遂げないうちは、結婚なんかしている場合じゃないし」
ニシダは何もわかってない。ちゃんと伝えないと。私は振り返って顔を見て言った。
「ニシダさん、私が言ってるのは、そういうことじゃないのよ」
「まあ、どうでもいいっす。俺の輝きを前にして、女子どもが勝手に妄想を始めるのは止めない。アイドルと同じ宿命ってことで」
何がアイドルよ。唇を噛んで前に向き直った。
「アイドル? お母さんにとってのキムタクだね」
るうこがくすくすと笑った。なんて嫌な子なの。
「誰のせいよ。誰のせいでこんな……、」
イライラすると息が切れて気が遠くなりそう。誰のせいでこんなに私が苦しんでいると思ってるのよ。
「ニシダさん聞きなさい。るうこはね、変質者のことを受け入れてしまった……」
車が急停車して、身体が大きく揺れる。ちょっと! 危ないじゃない! 最近浮き出てきた腰骨がダッシュボードに当たり、鋭い痛みが長く響いた。
「お母さんいい加減にして。勝手なことばかり言うなら、車から降りてもらう」
「るうこちゃん、私はね、あなたが嘘をついてこの人を誘惑してるんじゃないかって心配してるのよ。そもそもあなたが結婚したら私はどうするのよ」
「うるさい、いつも出て行けって言ってるのはお母さんじゃないの」
「うるさい? ずーっとうるさいのはあなたの方でしょう。あなた、ニシダさんといるとずいぶん強気じゃないのよ」
るうこが反論しようと口を開けたが、ニシダが窓を開け、我関せずとでも言うようにタバコを吸い始める。私も窓の外を見た。国道沿いのパチンコ屋の、長い行列が見える。るうこは小さくため息をつき、車を発進させる。変な二人。噛み合っていないのに、お互いを意識していて、なんだか見ていて切ないわ。
「今日は暑いわね」
気を取り直してそう言ってみたが、誰も返事をしなかった。
畑付きの二世帯住宅の玄関で待っていると、家主らしき中年男がスマホ片手に現れ、「始まるまで適当にくつろいでて」と雑な出迎えを受ける。一人三五〇〇円の会費は、片手で手招きするように徴収された。
畑の前にある庭がパーティ会場になっており、大人十人、子供十人くらいがそこで、うろうろしていた。
「今日はみんな集まってくれてありがとう!」
この子なのね、ベビーシャワーなんておかしなパーティを計画したのは。それにしても最近の若い子は、妊娠しても太らないというのは本当なんだわ。赤ん坊の大きさは変わらないのに、一体どうして? これも近代医学の力なの? 私は主役のお腹をじろじろと見た。妊婦の千穂ちゃんという子が、ポニーテールを揺らしながら、私たちを庭に案内してくれた。
アウトドア用のテーブルの上には、お寿司やフライドチキンやエビフライが並んでいて、一つずつつまんだら、もうやることがなくなってしまった。テーブルがガタガタ揺れて、子供がぶつかるたびに、私は心配になった。だんだんとお寿司の表面が乾いて砂が張り付いていくのを見ていたら、じっとしていられなくて、目を逸らした。すると、盛りだくさんのフライドチキンを皿に載せた若い女の子が、いきなり話しかけてきた。
「るうこちゃんのお母さんですよね? 覚えてます? 私、るうこちゃんと同級生のマキコっていいますけど、昔何回か遊びに行ったことがあって。山奥のお屋敷に」
私はあいまいにうなずいた。サプリを飲む時間ではなかったけど、退屈しのぎに一粒飲んだら、視界が一段とくっきりして見えてきて、彼女の声がうるさく感じた。クーラーボックスの中に入っていたシャンパンを勝手に飲むと、より一層世界の輪郭がクリアになる。音や光が、迫りはじけるように私の視野を彩る。
「誘拐される前の日だったかな。私、るうこちゃんと一緒に遊んでたんですよね。だからなんかそのすごく、罪悪感っていうか」
罪悪感? 何を言っているの? 笑っちゃう。あなたがそこにいたことなんて、誰ひとり覚えてないわよ。主役になれない子なのよ、あなたは。わからないの? デニムのオーバーオールにキャップなんかかぶって、改めて見たら絶句しちゃったわ。もう若くもない女がオーバーオールなんて、ただただみじめ。多様性っていう言葉に甘えて、自堕落な自分でも世間は認めてくれると思ってるのね。
「あなたさっき、うちの娘の友達って言ったわね。類は友を呼ぶのね。二人とも、仮装パーティと勘違いして来たのかしら」
私が笑うとマキコも笑った。
「見てください。あの人いるじゃないですか。るうこちゃんの彼氏」
マキコは打たれ強いのか、私の嫌味にもめげずに健気に話しかけてくる。
「最近ここに引っ越してきた、怪しげな健康食品とか売ってる会社の人ですよね? 怪しげっていうかその」
「クイーンビューティトーキョーのこと? やっぱり怪しいわよね。私最近そこのサプリを飲んでるんだけど、体調がよくなってるのか悪くなってるのか、本当はどっちなのか、わからないの」
そばを離れようと思ったけど、ニシダの話題が出たので、立ち止まる。
「えー、やめたほうがいいですよ。あの人、反社と関わりがあるんじゃないかって、最近ここらで噂になってますよ。ここは田舎で人目につかないから、覚せい剤の密売をしてるんじゃないかって。鹿泉山に給水車で乗り付けたりしてるってことも、知ってました?」
「反社って何? 暴力団のこと? あんな山奥にある変な建物を、暴力団が買うわけないじゃない。暴力団といえば雑居ビルじゃないの?」
「じゃあ、ラッパーなんですかね?」
「何よそれ。りさ子ちゃんが広告塔になってるくらいだから、ちゃんとした会社だと思ってたけど」
私は笑って、スマホの写真の中からるうこがくれた広告の画像を見せる。こうして見てみると、地元のスーパーや葬儀場のチラシのような安っぽいデザインのチラシに、美魔女でセレブの倉田りさ子が載っているのは、なんだか変にも思えた。
「りさ子っておばさんモデルの倉田りさ子? あの人父親が暴力団で有名じゃないですか」
「そうなの? そんなふうには見えなかった。しっかりしたところのお嬢さんだとばかり思ってたわ」
「私、芸能ゴシップ大好きなんで、そういうのめちゃめちゃ詳しいんですよ」
「彼女のこと、もっと教えてもらえる?」
「いや、私が知ってるのはそれくらいですね。親が暴力団の構成員ってこと。おばさん、千穂ちゃんの子供の性別、どっちがいいと思います? 男の子? 女の子?」
マキコが、フライドチキンにかぶりつきながら言った。こんな地味な子と世間話をしに、わざわざ来たんじゃないのに。この子は野性味が強くて女の子らしさがないから、私の引き立て役にもなってない。気が合うと思われないように、わざとしかめっ面を見せた。
「男でも女でも、どっちでもいいわ。他人の子供の性別なんか興味ないわよ」
「そっかー。でも、るうこちゃんはおばさんに似て、本当にかわいかったですよね。小学校の頃スカウトされたって噂があったくらい」
子供達が走り回って、土埃があがる。案の定、子供がテーブルにぶつかって、寿司が皿ごと地面にひっくり返った。
「噂じゃなくて本当よ。でもあんな子が小さい頃からタレント活動なんて絶対に向いてるわけがないでしょ、私は芸能界にいたからわかるの」
「え、まじっすか」
あの子はとてもかわいかった。何を着せても似合ったし、華があった。家族で東京に遊びに行った時はスカウトマンの男に何度も声をかけられたけど、るうこはなんていうのかしら、その時にはすでに少し変わっていて、表情が乏しいというか、感情の起伏が少ない子だった。「立ってるのが好きなの」そう言って学校から帰ると、よく玄関奥の三和土にぽつんと立っていた。立って、何をするでもなく広い屋敷のなんでもないところをぼんやり見ていた。
「芦田愛菜ちゃんを見てごらんなさいよ。なんにでも興味津々で、お返事も早くて、いつ見ても目がキラキラしてるじゃない」
「まあ、芦田愛菜ちゃんと比べたら誰も勝てないですって」
マキコが興奮したオラウータンみたいに、両手をパンパン叩いて笑った。
「別にるうこを愛してないわけじゃないのよ、育児放棄だってしてないわよ。これはもう何百回も言ってることなんだけど」
もういいわ、気安く私をおばさんなんて呼ばないでちょうだい。ニシダはどこなのよ? この人の言っていることは本当なの? あなたのことを、反社とかなんとか言ってるけど?
缶ビールを飲んでいるニシダが見えた。笑顔で酒なんか飲んじゃってだらしがない。だけど、張りぼてのような贈り物を抱えてきたニシダは主賓から好意的に受け入れられているようで、輪の中心にいた。「投資に興味があればぜひ」なんて言っている声が聞こえる。ほかの男たちはスウェット姿にサンダルなのに、ニシダだけがスーツで決めちゃって、なんだかおかしい。
「人脈づくりなんてニシダさん、俺ら別にそんな大した人間じゃないし」
「そうそう、俺らなんかただの田舎の貧乏人ですわ」
男たちがそう言って笑っている。男の笑い声を聞いたのは久しぶりだった。そうね、女より男の笑い声の方が好きよ。私は男の子が欲しかったのよね。私を守ってくれる小さな騎士が。ひどい結婚生活も、田舎のしきたりも、娘ではなく、息子がいれば乗り越えられたということに。正樹さんが私を裏切った夜も、息子ならそばにいてくれた。息子は、私の寂しさを深く理解してくれるの。母親のことを世界で一番大切に思ってくれるのよ。そして、「これからは、僕が母さんを守るよ」なんて甘いセリフを、そっと手を握って言ってくれて——。
ニシダの少し後ろでるうこが料理を山盛りに載せた皿を手に、うろうろしている。ピザにケーキにフライドポテト。皿を持って輪の中に入れなくて不安そうに動き回ってる、かわいそうな子。そんなにたくさん食べれないでしょうに。誘拐される前からおかしかったのに、誘拐されてからはそれが理由で全てを許されるようになったのよ。甘えてるわ。お食事のマナーだってしっかり教えたはずなのに。
ニシダを中心として笑い声が聞こえたり、冗談っぽく何かを否定したりする声を聞きながら、私は一人で庭に出されたソファに座る。畑の前に子供用の手作りぶらんこが見えた。あの紐に首をくくって死んでしまいたい。だってもう手遅れじゃない。私は多分、いえ絶対にニシダに覚せい剤を飲まされ続けたのよ。きっとそう。さっきのオラウータンみたいな子も言ってたじゃない。
怒りが全身を襲う。怒りに震えて涙がにじむ。許せない。もうだめ。こんなババァになっちゃいました。こんなはずじゃなかった。この人生で一つでもいいから、女の夢を叶えたかっただけ。誰かに選ばれて、優しくしてもらいたかっただけ。そのために自分を差し出してきた。若さも、器量の良さも。だけど田舎の屋敷で年増の娘と二人きり、何も手にできないまま死んでいくの。だってもう、私に差し出せるものはないから。叶わなかった夢は呪詛となって私をますます醜くさせてゆく。それで、これからどうするのよ? ええ、わかった、眠るわ。それ以外に何をすることがあるっていうの? 待てど暮らせど、誰ひとり私に話かけてきやしない。私は、意識の糸をあっさりと手放した。
「知ってると思うけど、もう一度説明しておくね。誘拐されたでしょ、私」
念仏の音かと思って目を覚ますと、るうこの声だった。私が座っているソファの反対側でニシダに迫る勢いで話しかけている。それから畑の真ん中には、ビリー隊長とクルーがいるのが見える。いるわけないわよ、こんな田舎に外国人がいるわけない。これは幻覚なの。立ち上がると足元がふらついたが、意識ははっきりしていた。ビリー隊長を無視して、ニシダとるうこを見る。ニシダの目はほかの招待客のほうに泳いでいて、ぶっきらぼうにるうこに相槌を打っていた。
「あの人と一緒にいたのは、たったの七十二時間で」
「ごめん、あのさ、それって今しなきゃいけない話?」
「ニシダは、私が誘拐された話は、どうでもいいの?」
「うん、どうでもいい。いつまでその話を引きずってんの? それってあんたがガキの頃の話だろ?」
「そうだけど」
「世界には、そのまま殺されて山道にポイ捨てされちゃった子供だってごまんといるわけ。そう思えば、今生きてることに日々感謝しかないだろ。それをなんかよく知らんが、終わったことを、うじうじうじうじ」
「私と一緒に逃げて。ここから一緒に逃げようよニシダ」
「は? 何言ってんだよ。やっぱりキモいぞ。俺はここでやるべきことがあるの」
「勝手に逃げなさいよ。どうせ何もできないくせに」
私は立ち上がって、そう叫んだ。
ワン、トゥ、スリー、フォーのカウントが爆音で流れる。気づいたら私は地面に足をつけ、腹斜筋を鍛えていたわ。黄色いTシャツの隊長が私に笑いかける。その横でるうこが懇願し続けている。逆の方向を向くと、みんなが山になったプレゼントと夫婦を囲んでいる。夫婦が大きな黒い風船を割る。パン! 中からピンクの粉が噴き出す。それはマグマのように広がり、視界を覆い、私の身体を包みこんでいく。何なのよこれは。覚せい剤の末期症状に違いないわ。
「おめでとう! 女の子よ! 女の子ですって!」
歓声が聞こえる。かわいそうに、女の子ですって。