「るうこちゃん見て見て、今日のリースは傑作じゃない? 天気がよかったからアトリエも明るくてね、満先生のピアノも聞こえてくるから調子が良くて。気づいたらこんなにたくさん作っちゃったわ」

「満先生、日本に帰ってきてるんだ」

「そうみたいよ。パリの家も引き払ったらしいの。でも、何年か前も引退宣言してなかったかしら? 私の記憶違い? まあ、世界を股にかける天才ピアニストは、何回引退宣言しても、許されるのね」

 三十メートルほど先の丘の上には、世界的なピアニストの東谷満が住んでいる。こんな山奥にある家は別荘のうちの一つだと思っていたけど、他の家はすべて引き払い、終の棲家としてここを選んだのは意外だった。祖父がいた頃はご近所さんとして仲が良く、時々は二人で朝まで酒を酌み交わしたりもしたらしいが、先生は私たち母娘のことは露骨に嫌っており、挨拶も返さないし、時々二階の出窓から大きな双眼鏡で、こちらを監視している時がある。

「ちょっと、ものぐさなお嬢さんたち」

 昔、車に乗り込もうとした時にボンネットをばん、と叩き呼びとめられたことがある。先生は、ボルボと同じ紺色の、毛玉だらけの分厚いバスローブを着ていた。

「あのね、教えてあげますけど。毎日を便々と過ごしていると、あっという間に年喰って化け物になっちゃうんだからね」

 タイムイズマニ、と先生は去っていった。唖然として言葉を失っていた母が、何よ、失礼しちゃうわ、とようやく言った。

「今のは一体何かしら。化け物ってまさか、私たちのことじゃないわよね?」

「わかんないよ」

「わかった、きっと自分のことだわ。金持ちのくせに、あんなぼろぼろのバスローブで人前に現れて。あの人こそペンギンの妖怪じゃないの」

 母は怒っていたけれど、私は先生の優しさに感謝していた。私たち母娘のことを少しは気にかけていてくれたんだ、と嬉しかった。

 

「ねえ、私って天才じゃない? 季節の植物を使って小さな世界を表現する、アーティストよ」

「そうだね。これ、満先生にプレゼントしてみれば? 芸術家同士で理解を深められるかも……」

「無理ね。絶対受け取ってくれない。あんな人、ピアノの才能がなかったら誰からも相手にされない偏屈ジジィじゃないの。それともババァなの? フランス人の男のお弟子さんに何人も訴えられてるっていうしね」

「そうなの? どうしてお母さんがそんなことを知ってるの?」

「美容院の週刊誌で読んだわよ。長年、不適切な関係を迫ってたんですって。さもありなんよね。そんな汚らわしい人に私のリースは渡せないわ。猫たちのおもちゃにされてもたまんないし」

 満先生の猫たちはしょっちゅううちの庭にフンをしに来るが、母も私も黙認している。私たちは本当は、満先生と仲良くしたくてうずうずしているのだった。先生の美しいピアノの音色のおかげで、私たち母娘は何度口げんかを中断し、その音色に耳を傾けたかわからない。今は、駅のアンテナショップで買った満先生とベルリン・フィルのCDを家で聴くだけだけど、いつか、世界的アーティストに心を許された数少ない友人としていられたら。私はそんな夢をまだあきらめてはいなかった。

「満先生のことなんかどうでもいいの。聞いてよ。りさ子ちゃんがね、また会社を作るんだって。今朝、ブログに書いてたのを読んだの。中国コスメの輸入販売だったかしら。いいわよね、行動力のある人は。そこで私も考えたんだけど、りさ子ちゃんの会社の開業祝としてこのリースを送ってみようと思ってるの」

「いいと思うよ。きっと業界で注目されて、バッと知名度が上がっちゃうんじゃないかな」

 気まぐれに煽ってみると、母は真に受けていた。心の中で母を小ばかにしながらおだてるのって、なんて楽しいんだろう。

「その通りよ、るうこちゃん! お隣さんにあげるだけじゃ、もったいない才能なのよ。りさ子ちゃんが私を売り込んでくれれば、私だって何かの社長になれるかもしれない。りさ子ちゃんはすごく優しい子だったから。満先生が私たちに何をしてくれたっていうのよ」

 短大時代にはミス・ワールドクラス・ウエスト・ジャパンというミスコンで優勝したこともある母。かつては美しく、それなりに友達もいたに違いない。だけどそれはもう三十年も前の、今となっては夢物語と大差ないほどの昔の話。そのミスコンだって平成の初めにはなくなっている。短大時代のモデル仲間のさくらちゃんや、一度だけパーティで一緒になったという倉田りさ子が、母のことを今も覚えているとは到底思えない。

「このリースには絶対に赤が必要よね。だってお祝いなんだもん」

 自分の世界に入ってしまった母は、まるで骨董品の目利きのように、ライトの下でリースをいろいろな方向に傾けた。

「ねえ、明日の朝、車をお願いできるかしら? 赤い花がいるの」

 また始まった、悪い癖が。人の家の花を盗む癖。

 母は破天荒で世間知らずで厚かましいけれど、美人なら何でも許されると思って生きている。他人の家に忍び込み、人が育てた草花を勝手に切って持ち帰るのが最近のブーム。何の罪悪感も感じないらしい。確かに他人の家の前をコソコソと動き回る母は、いきがいを与えられたように輝いて見えた。

「花泥棒はもうやめるって、この間、約束したよね?」

 震える声で伝えると、母は長いため息をつく。

「泥棒なんて大げさよ。でも、そのことはもう大丈夫になったから」

「大丈夫って? 何が?」

「だって、もうあそこへは行かないから。貧乏人しか住んでないじゃない? あの時怒鳴り込んできたジジィと奥さん、そろってねずみに似てたわね。貧相な夫婦だったね」

「やだよ、私はもう関わりたくない。だってそれって悪いことでしょ」

「何を言ってるのよ。悪いことじゃないわ。花を愛する者同士なら、わかりあえるの。美しいものを共有してるだけよ。おうちの人たちも、きっと盗まれるくらいきれいな花を育ててたんだなって、あとから嬉しく思うはずだわ」

「本当に?」

「はい、ほんとうです。あなたは私のやることになると、いちいち目くじら立てるんだから」

 淫乱のくせに、と言われたが、私がそんな言葉で傷つくはずがなかった。

「盗まないで買えばいいじゃん。と、思っただけ」

「あらあら、簡単に言うじゃない? さっきから何を偉そうに私に指図してるの?」

「そんなつもりじゃないけど」

 じゃあどういうつもりなのっ! 母がテーブルをばんと叩き、怒りを露わにした。母の怒りに燃えた三角の目が、私から活力を奪っていくようだった。目の前に広がる世界がみるみる縮み、燃えかすのように色あせていくのを感じた。いくら本を読んで賢くなったって、私の世界が変わるわけがないんだった。母の言葉が、理不尽な要求が、こうして私をこの場所に引きずり戻すから。だから、私は変われない。この家に住んでいる限り、母にエネルギーを吸い取られていくだけ。

「偉そうなことは、お金を稼いでから言いなさいよ」

「働きたいっていつも言ってるよね。なのにお母さんがだめって言うから」

「当たり前でしょ。あなたが働いたらその間、私にどれだけ迷惑がかかると思うの」

 買い出しに料理に洗濯、祖父のこの広い屋敷のあちこちを修繕すること。母は口を出すだけで何もしない。働いたら私より偉くなった気になって、職場の人と私の悪口でも言うつもりなんでしょ。そう言って私が外の世界に出ることを許さない。

 誘拐事件から数年後に父が蒸発してしまい、私たち母娘はここに残り続け、結局この屋敷や祖父母の遺産は、血の繋がりのない母が受け継いだ。そこにどんな交渉があったのかはわからない。普通は消えた息子の奥さんを居座らせ、全財産をあげるなんてことはないはずだけど。遺産がどれくらいあったのか、そこで何があったのか、ていうかお父さんは今どこにいるのか? 私は母に聞いたことがない。怖くて聞けないのが半分、聞いたってどうせ答えてくれないのが半分。お母さんがお父さんのことを殺して裏山に死体を隠している線を疑ってみたりもしたけど、普通にあり得てしまう。母がきっと、祖父母の命も奪うと脅したのだ。今現在、私たちはお金にすごく困ってるわけではないけど、二人とも働いていないのだからお金が底をつく日はいつか必ず来る。

「今日だってどこをほっつき歩いてたのかしら。言えるもんなら言ってみなさい。るうこちゃんの近くにいると、私の神聖な創作意欲が汚れてしまうわ。そのせいで、りさ子ちゃんに遅れを取ってるのがわからないの?」

 作業用の白麻のエプロンを顔面に投げつけられる。エプロンの金具が頬骨に当たり、キンと耳鳴りがした。

「私だって一人暮らしがしたいよ。でも出て行ったってどうせ連れ戻しに来るでしょ、この間みたいに」

 弱気の反論は単なる消耗戦の始まりだとわかっていても、不満を口にすれば止まらない。

「それはあなたが、シェアハウスだかなんだかよくわからないところと契約して、いざ行ってみたら『知らない人とは一緒に住めない』って、たった二日で音を上げて泣きついてきたからでしょ?」

「だって……、私の貯金で住めるのはそういうところしかなかったんだもん」

「ばっかじゃないの? シェアハウスなんて若者言葉に釣られて恥ずかしいわよ。あんなの、ただの女郎部屋でしょうが。あなたがそうやって、現実を知らずに生きてるから、私は迷惑してるんだわ」

「示談金は? 私が誘拐された時に払ってもらった、あのお金はどうなったの?」

「あんなものとっくにないわよ。何年前の話だと思ってるの? 女二人が生きていくのにどれだけお金がかかると思ってるのよ? それにあれだって、あなたのお金ってわけじゃないんですからね」

「じゃあ誰のお金なの?」

「誰のお金って。私よ。決まってるじゃない。弁護士さんを雇って、示談にするって決めて手続きしたのは私なんだから。あれはすごく面倒で気が重くていやな経験だったわ。そのせいで私は病気にもなったんだからね」

「で、いくらもらったの?」

「知らないわよ、しつこいわね。ないお金のことを今さらごちゃごちゃ言わないでちょうだい。そんなに示談金がほしいなら、また誘拐でもされたらどうなの」

 ああもう腹が立つ。るうこちゃんの首を絞めてやりたい、と母は私を憎々しげに睨んだ。

「るうこちゃんはね、今さら何をしたって元には戻れないの。どうしてかわかる? るうこちゃんは、普通じゃないもの」

 母は、自慢の尖った鼻先で私を笑った。

「るうこちゃんは、変な男に連れ去られて洗脳されちゃったんだもん。今さら取り返しがつかないのよ。名前は何だっけ」

 名前は。

 彼が狭いビジネスホテルの小さなテレビを見ながら大笑いした芸人の名前。そうじゃなくて、駅で見た看板。そうじゃなくて、運動会で繰り返し流れていた曲の歌詞。そうじゃなくて、テレビのコマーシャルの聞き間違い。そうじゃなくて、お母さんがよく着ていた毛皮のコートのブランド、そうじゃなくて。

 記憶の糸を引っ張ると、そうじゃない方のふざけた答えが出てくる。誘拐事件のことを思い出すといつもそうだった。記憶の断片から強烈な不快さが電流のように体中を駆け巡る。そこから逃れるように慌ててふざけた言葉でごまかし感覚を押し殺しているうちに、頭の中で彼のもう一つの名前ができあがっていた。

“可能WEEK&Co,”

 それが彼の名前で、本当の名前は思い出せなくなった。

「るうこちゃんは、あいつと一緒にご飯を食べて、一緒にお風呂にまで入ったんでしょ? 自分から進んでそういうことをしたんだ。本当にいやらしい」

 大げさな動作で自分を両手で抱きしめ、しばらくぶるぶる震えながら、私のことを見た。

「それはお母さんの妄想でしょ? 私たちはそんなことしてないもん。もう何度も言ったよね?」

「私たち、ですって。いやね。るうこちゃんみたいな得体のしれない怪物と一緒にいるのはいやよ。でも私は親だから責任があるの。それで仕方なく、行き場のないあなたと暮らしてあげてるのよ」

 何も言い返せず、私は耳をふさいだ。

「いいこと思いついた。明日、“ゆきすかぐら”に行きましょう」

 

 翌日、五時半に私は叩き起こされた。母が告げた目的地はゆきすかぐら。勉強会があったあの古いビルは、うちから三十キロほど離れた山のふもとにあり、昔は薄暗い遊歩道と人工池があるくらいの寂れた場所だったけど、最近ではブルワリーやキャンプ場、東京発のカフェレストランなどが立て続けにでき、若者に人気のエリアに変わっていた。誘拐事件以来、私たち家族がビルの近くに行くことはなかったけど、母はあのエリアの開発を、テレビの夕方の特集で知ったそうだ。

「新しい風を感じたのよね。私の感性に合いそうな若者たちがたくさん集まってるみたいでワクワクしちゃった。早くみんなと仲良くなりたいわ」

 泥棒と仲良くしたい人がどこにいるっていうの。心の中でせせら笑い口をぎゅっと閉じて、私は反発心を隠すため、忙しそうにミラーをチェックしながらハンドルを切る。花曇りの朝、まだ澄んだ冷たい空気がラッピングペーパーのように肌にひたりとついた。

 山を下りて車を走らせると、新しい街が見えてきた。車を減速させると母は窓を全開にして気持ちよさそうに顔を出した。早朝の静かな商業施設を、満先生のショパンをBGMに通り抜けていく。

 大きなブルワリーを抜けカーブの続く道を進むと、あの建物が視界に飛び込んできた。丸い窓ガラスがいくつも並ぶ茶色い奇妙なビル。まるで沈没した潜水艦みたい。何も変わってない。すべてが懐かしくて、思わず息が止まった。私ね、ここに来るのが好きだったんだよね。CDが頭からまたリピートされる。

「こんな変なビルだったかしら」

「そうだよ。ほら、潜水艦みたいな丸い窓があったじゃん」

「そうだった。丸い窓のカーテンってどうなってるんだろうって、いつも思ってたのよね」

 車を停めると、鳥たちの警戒する鋭い鳴き声が広がる。すべての階のテラスには溢れんばかりの植物たちが両手を広げるようにぎっしりと植えられていた。それは終末を迎えた世界で植物がついに主導権を握ったかのように強く、大きく、いきいきと育ち、葉はどれも建物からはみ出していた。廃墟になっていると思っていたのに、誰かが植物を育てている。誰かが手入れをしてくれていたんだ。玄関から道路までの道は、植物園のように珍しい植物がたくさん植えられていた。極楽鳥が飛び立ちそうな南国の雰囲気に圧倒されながら、母が葉を掻き分け進むのを追う。やっとビルのエントランスにたどり着くと、そこにはひっそりと朱色の看板が立っていた。「クイーンビューティトーキョー」。細いゴシック体の黒い文字で書いてあった。

「すごいわ! るうこちゃん。見て珍しい葉っぱ。これってバナナかしら。すごい、こんなことがあるなんて夢みたいね」

 頬に葉をこすりつけて、母は笑った。

「イメージが止まらないの! どうしましょう!」

 母は手あたり次第、ビルの周りに植えられた植物を抜き取り、車に乗り込んだ。後部座席は植物でいっぱいになる。帰宅してから夜遅くまでアトリエにこもりっきりで、時々顔だけを出した母は嬉しそうに「楽しい!」と叫んだ。母の嬉しい悲鳴に私は苦笑するしかなかった。

 その日からゆきすかぐらへの侵入は三日連続となり、クイーンビューティトーキョーは母のお気に入りの花泥棒スポットとなった。早朝から母が私を起こしにくる。

 母が植物を物色している間、私はビルの周りをぶらぶらと見て回った。小学生の頃は毎週家族で通っていたゆきすかぐらのビル。入り口には木彫りの看板があったけど、今はもうなくなっていた。面影はあるけど駆け寄りたくなるような懐かしさはない。ビルの所有者が変わると、こんなにも変わってしまうんだ。それにしても、こんな珍しい植物を一体どこで手に入れたのかな。オリーブ、ブラシノキ、シュロやマツ、ハーブくらいはわかるけど、ほかは名前もわからない。植物に囲まれているのに、都会にいるみたいにおしゃれな気分になる。巨大な薄紫のイガグリみたいな葉を触りながら、私は昔のことを思い出そうとした。勉強会が好きだった。センセイのそばに近づくと和菓子みたいなお香のいい匂いがして、うさぎを罠にかける方法とか、ハチミツの傷ぐすりの作り方とか、そういう秘密の魔法みたいなことをたくさん教えてくれて──。

「はい現行犯ね」

 その時だった。植物の陰に隠れていた男が突然立ち上がり私の手を掴んだ。びっくりして私はバランスを崩し、つんのめって相手の肩に噛みつくように倒れた。男に掴まれたことも、不格好に倒れたのも恥ずかしく、急いで身体を起し、相手の出方を待った。

「ほら、上見て。いま監視カメラにもバッチリ顔映っちゃってるからさ。言い逃れはできません。アウト」

 私を掴んだ反対の手には、スマホが掲げられていた。

 声を聞いた母は、盗んだ植物を丸い岩の後ろにそっと隠し、作り笑顔で慌てて駆け寄ってきた。

「あらあら、すみません。この子、このビルが珍しいからちょっと見ていただけなの」

「嘘つくんじゃねえよ。昨日もおとといも、うちの植物を切って持っていったくせに。喪服とフリッフリの服着たババァコンビを見間違えるわけがねーだろ」

「昨日? おととい? 喪服? ババァ? 何を言っているのかしら? 私たち、昨日の夜にパリから日本に帰国してきたところで。ね? だから人違いよ」

 男はスマホを私たちに向けたまま、「いやいや苦しい嘘、信じるのは無理だわ」と言った。

 警察が駆けつけるまでの間、男は私たちに岩の上に座るように指示し、執拗に撮影をし続け、母が少しでも動こうものなら、その腕を掴んで制止した。

「おばさんたち、何でこんなことしたの?」

 まるで子供を諭すように男は言った。やけにカメラを意識した、妙な喋り方だった。私たちはネットに流されるのだろうか? でも、だから何、という感じだったけれど。私は彼の短い坊ちゃん刈りに目を奪われる。てっぺんはオイルでテカテカしていて、ヒトラーみたいに見える。いまどきの若い男の子は、こんなヘアスタイルが人気なのだろうか。ヒトラーが若者に人気?

「してません。誤解です。何なのあなた。ちょっと! 撮らないでよ!」

 さっきまで言われた通りにおとなしく座っていた母は、ほんの数分でエネルギーをチャージしたのか、突如全力で騒ぎ出し、大声を出しながら両手をぶんぶん振ってカメラを振り払おうとして、二人はもみ合いになる。

「おばさん。ここは田舎で、だからいつもは許されてるんだろうけど俺は許さないからね。立派な犯罪でしょこれ」

「どこがよ。何の罪で捕まるわけ?」

「不法侵入、器物破損、窃盗」

「あなたこそ何なの? こんな朝早くにうろついてすごく怪しいわ。本当にこのビルの関係者なの? このビルに何の用があるの? そっちの方こそ不審者に見えます」

「俺はこの会社の社員だよ。社員証見る? まあ、犯罪者に見せても意味ないか」

 母と男が押し問答していると、パトカーがゆっくり近づき、ふと赤ランプが止まった。ああ、やっと終わる。実のところ私は安堵していた。ここまで大きな騒ぎになれば、さすがに母もやめてくれる。私に犯罪の片棒を担がせることももうないだろう。目撃者に映像の証拠もあるのだから、警察に連行されてさっさと社会的制裁を受ければいい。

「朝からどした?」

 お腹から先によいしょ、とパトカーから出てきた、ずんぐりむっくりの警官が手を振り、母に言った。

「あーん、おまわりさん! 怖かった」

 まるで王子様が駆けつけてきたみたいに、母は両手を開いて叫んだ。

「あなた、以前も人のお宅でトラブルになった人だよね? まだやってんの、こんなこと」

「だって、きれいなお花を見つけたから」

「なに夢みたいなこと言ってんのよ」

 へその下でベルトを締め、制服の襟はよれよれ、濁った眼をしていて不健康そうに見える警官。こんな見栄えの悪い男にかまってもらえて、浮かれている母を私は黙って見ていた。関わりたくない人ナンバーワンが自分の母親なんて。

「おまわりさん、逮捕してくださいよ。現行犯で」

 だらしない警官の横に立ったせいか、男のほうはますますかっこよく見えた。こんな非常事態でも落ち着いて自分の意見を主張できるなんて、立派な大人だと思った。ここらにいる男じゃそうはいかない。男はとても若く、その一点だけでこの場所が活気づいているのがわかる。

「だめでしょあなたたち。都会から来たお兄さんに、ごめんなさい言える?」

 警官は、共犯めいた笑顔を私たちに向けて叱った。大丈夫、僕は地元民の味方だからね、と言いたげなのは一目瞭然だった。

「ごめんなさぁい」

 甘えた声でそう言うと、母はぺろりと舌を出した。

「は? いやいや何今の。おばさんキモいから。謝罪で済む話じゃなくて、ガチ逮捕案件でしょこれ」

「逮捕? 大げさだな。本人たちもこうして反省してるみたいだし」

「反省してまーす」

 警官の陰に隠れていた母はひょっこり顔を出してそう答えると、にっこり笑った。

「まあ、朝からこんなことで事を荒立てても、仕方ないしさ」

 警官は腰をひねり、骨をぽきぽき鳴らしながら言った。

「こんなこと? だからさ、立派な犯罪だっつってんじゃん」

「珍しい植物だから、見てたらつい気になって欲しくなっちゃっただけ」

「じゃあ、つい人を殺しただけでもここでは見逃すのか? この田舎にはそういうルールでもあるのか? じゃあここに人殺しクソほど集めてデスマッチやろうぜ。な?」

 男はいきなりしゃがむと、足元のシュロの葉を掴んでぶちぶちと引き抜き、「死ね」と警官に投げつけた。

「やめてよ! 植物虐待! 環境破壊! くそガキだわ!」

 母も負けじと砂利や落ち葉を拾って、男に投げつける。土埃があがり、警官が激しくむせた。

「二人とも落ち着きなさいよ。本人たちも今回は反省してるんだし。で、この建物の所有者は本当にあなたなわけ?」

 私と警官が間に入り、止めさせようとしたけれど、母と男は春の熊のようにころころと転がり取っ組みあっており、私は興奮状態の母に突き飛ばされた。

「だからそうだって言ってるだろ。俺はここの責任者なの。最初に社員証見せたよな?」

 スーツのポケットから名刺を取り出したが、誰も手を伸ばさなかったので、彼は乱暴にそれを戻した。

「何の会社なんだ?」

「だから水の、」

「また水! 本当に都会の人は水が好きよね」

 明らかに見下した態度で、母は男を見た。

「どうせまた『ガンが治る奇跡の水』とか言って売るつもりなんでしょ。ここらの水を食い物にするのはあなたが最初じゃないわ。演歌歌手のじいさんなんかを広告塔にしてさ。私がすぐに消費者庁にメールを送ってあげる。そしたらすぐに営業停止よ。わかった? 水詐欺師の坊や」

 違う、と彼は言った。その顔は少し悲しそうに見えた。母が何か言い返そうと口を開いたが、もう一度男は違う、と言った。これまでの意地悪な若者という雰囲気は消え、自分のルーツを、例えば祖国とか家族とかそういうものをバカにされた時のような毅然とした強さで否定したので、さすがの母も黙った。

 すると、そろそろお開きとでも言うように、警官が大きく息を吸い、何も書かなかった手帳をしまうと口を開いた。

「ここはずっと買い手がつかなくて空き家だったんだよね。いろいろあったビルだからさ。知ってる?」

「知りませんけど、何があったんすか」

「そっか知らないか。若い人はもう知らないんだな。まあここは昔アジトっていうか」

「アジト?」

「そう。この地域は昔からそういうのが多いんだよ。山が多いから、世間から隠れやすいんだろうな。まあ、花泥棒よりは大きな事件がいろいろとね」

 じゃあまあ、パトロールも強化しときますんで。警官はパトカーに戻ってしまった。

 

 母は挑発的に顎を突き出し「そういうことですので」と、車の方へとさっさと歩き出した。

「すみません、母が。あの植物のお金は弁償しますから」

「いや、いいよ。もうウザいから。帰って」

 男はしっしと私の顔の前で手を振った。

「あの私は、母の行為は本当に悪いことだと思っていて……」

「もういいってどっちでも。ここでは日本の法律は通用しないってことがわかったから。司法も行政も腐敗しきってる。だから俺は海のない県は嫌いなんだよな」

「海のない県って?」

「ここ以外は、栃木、群馬、埼玉、山梨、岐阜、滋賀、奈良」

 電子タバコをひゅっと吸って男は暗唱のように答えた。

「でも滋賀県には琵琶湖がありますよね? 東京23区が入るくらい大きい湖が」

「あ? でも琵琶湖は東京湾より小さい。海をなめんな」

 私がしゃべり終わる前に、男は声を被せて言った。

「知ってる? 海ってあんたが思ってるよりも遥かにデカいから。クソデカくてバカかっけーのが海だからさ」

 クソデカくてバカかっけーのが海……。復唱すると、男は当然のようにうなずいた。

「海水が飲めたらいいのにって思うこと、ない?」

「わからないです。あの、ここって何の会社なんですか?」

「そんなことも知らずに来てたの? まじでキモいな」

 天然水をはじめ、ダイエットピルやエステ器具などの美と健康にまつわる商品を手広く販売する、新進気鋭のスタートアップ企業、さらに近々上場予定。本社は恵比寿の一等地にあり、二十六歳建造物マニアの社長がこの建物を三億円で購入した。空き家にしておくのがもったいないから、ここを中部エリアのオフィスにして、俺がすべてを任されてる。で、あんたは? あんたたち母娘は何者なの?

 私たちは目を合わせずに自己紹介をした。男はニシダと名乗った。ニシダ、下の名前は言わなかった。

「あんたの母ちゃん」

「うん」

「だいぶやばいでしょ、逃げた方がいいよ、絶対」

「わかってるけど、できないの」

 どうして大人なのに、私は何もできないんだろう。自分で稼いで自分で生きていくことが、できない。甘えてるわけじゃない、毎日私は母の言いなりで身動きが取れないんだ。

「話が通じないんだろ、あいつ」

 私たちは互いの目を見ず、一言ずつぶっきらぼうに言葉を打ち合った。まるで扉を挟んで山と言ったら川と返す合言葉のような儀式めいた会話。それに懐かしさを感じていた。なぜならそれはあいつと話した時と同じリズムだったからだ。たった一言でも、百倍の意味に膨らんで相手の心に沁みて伝わるのをしっかり感じた。私の苦しみを、わかってくれる人がいる。

 こんな形で再会するなんて、思ってもいなかったが、あり得ることだと思った。あいつはそういう生き物だから。姿かたちを変えても私にはわかるのだった。ヒトラーみたいな髪型をしてテカテカの革靴を履いていて、スーツなんか着ちゃって、現行犯だ! なんて一人で必死に叫んだりして。男のくせに美容の商売をするなんて変だもん。ゆきすかぐらにいきなり現れたのだって変。なんか、全部が変だと思ったんだ。でも中身はWEEK&Co,だったのなら、納得がいく。近づいてハグでもするべきだろうか、それとも。

「ダイエットピル」

 私は一言そう言い、彼の顔を見た。

「たくさん売れたら、例えば在庫が全部なくなるくらい売れたら、ニシダは嬉しい?」

「そりゃ、当たり前だろ」

「じゃあ、私が全部買うから。嘘でも全然平気だからね」

「は? 嘘ってなんだよ、まだケンカ売ってんのか?」

「大丈夫、大丈夫だから」

 そう言うと、ニシダはうんざりした顔で手を伸ばし、つやつやのパンフレットを指で手繰り寄せ、私に押し付けた。「どうでもいいけど、これが全部ね」

 この人が可能WEEK&Co,だった。やっと会えてうれしいよ。ずっと待ってたんだよ。昔みたいに、きっとここから連れ出してくれる。彼ならきっと。

 

(つづく)