水戦争が始まったら。
お前らは地下鉄の天井から滴る汚水に向かって、ベロ必死に伸ばしてなよ。
面接は午前十一時、恵比寿の雑居ビルの九階にあるオフィスで、社長自らドアを開けて招き入れてくれた。他の社員はおらずがらんとしていて、引っ越したばかりなのか、部屋の四隅には段ボールが積み上げられている。
「面接の人だよね?」
「はい、そうです。ニシダと言います」
社長の水原は身長が一六五センチほどだが、筋肉でスーツの中のベストのボタンがはち切れそうだった。肉体労働者のようなしなやかさはなく、ジムで鍛えプロテイン飲料で育てたファッション筋肉だとわかる。ニシダはしっかりとお辞儀をした。
「募集の条件ちゃんと読んだ? 鹿泉山って、あんな辺鄙なとこまで本当にわざわざ飛んでくれるの?」
「あ、はい。喜んで」
若い社長はニシダを見ると、「年も近そうだしさ、面接っていうより今から飲みに行かない? その方がお互いに腹割って話せるっしょ」と、気さくに誘ってきた。やべえ、もう始まっているのか入社試験は。伸るか反るかと慌てていると、部屋の電気を順に消され、戸締りしながら入口に追いやられる。
タクシーに乗り込むと、社長が、「お前さ、なんでそんなに坊主なの?」と言ってニシダの頭を見た。
「なんでそんなに坊主? すみません。変ですか?」
「ムショ帰りとかそういうのかと思って」
「いや、全然違います。今日、面接なんで、気合い入れようと思って家で……」
自分を売りこまねばと焦るが、社長は「へえ、ちょっとまぶしいわ」と言ったきり、ニシダの存在など完全に無視してスマホで誰かと通話し始める。
だーかーらー、俺言ったよね? 言ったか言ってないかの二択で答えて。
だからそれはこないだ言ったじゃん。ね?
魂燃やしてやれてんのかって聞いてんの、こっちはさ。お前がクソしつこいの、それやめれる?
苛立つにつれ声が大きくなり、相手の膝頭がこつこつ当たった。ここでビビっても仕方がないのでニシダは目をつむり、深呼吸と共に一人で瞑想状態を作り、移動時間を耐えた。人はなぜ怒鳴るのか。それは自分の声に耳を傾けてほしいという、心からの願いだ。
代官山の地下の会員制バーで、ニシダはあっさり採用された。水原の趣味で購入した信州の物件の税金対策として、そのビルに常駐させる人を探している。ビル、ていうか不思議な建造物なんだけど。あんな山奥の田舎にビルなんか建ってるわけないじゃん。でもまあ面倒くさいから、俺はビルって呼んでる。住民票を移し実際に居住することが条件で、それで月に手取り二十八万。少なくて悪いんだけどいい? 水原は早口で言った。
は? そんなうまい話があるのか? と、ニシダは思わず相手の顔を見た。
「それで、日中の業務は?」
「業務かぁ。何か欲しい?」
「え?」
「欲しいならなんか考えとくけど、近々でやれる仕事はないかな。適当に掃除とかしといてもらえたら」
水原はパン、と音を立てておしぼりのビニール袋を開け顔を拭いた。目の前のバーテンダーがいきなり日本刀を取り出し、氷の角を丁寧に切り落とし始める。大げさすぎないか、とニシダは吹き出しそうになる。昼間ということを忘れそうなほど薄暗い店内だった。店の真ん中には巨木が横たわっている。男女ふたりが、肩を並べて煙の出るカクテルを飲んでいた。男の方は大久保利通のような立派なひげを生やしていたが、女はただの女だった。女は男のことを「殿」と呼んでいた。
「こんなデカいビルに、俺が一人で住んじゃっていいんですか?」
スマホで物件の写真を見せてもらう。宇宙船のような独特な外観と、都心のおしゃれなカフェのようなこだわりの内装に、すげぇと驚きの声を上げる。一体誰が田舎にこんな建物を建てたのだろう。テーマパークでも造るつもりだったのか。それにしても金が有り余っているやつは実際にいるんだな。スクロールの最後に、キャバ嬢のようなカリカリに痩せた美女の写真が出てきたので、おっと、とニシダは律儀に目をそらした。
「時々は俺がプライベートで使うかもしれないからさ。いいよね? 俺もこんな田舎で時にはゆっくりしたいじゃん?」
全然かまいませんよ! とのけぞって恐縮すると、「お前、堅いって」と、肩を掴んで揉まれた。細長いビールグラスがその勢いで倒れそうになり、そっと手で押さえる。
「信州、地元なの?」
「いや全然、縁もゆかりもないんですけど、水がきれいな土地らしくて。色々検索してたら、ちょうど御社の求人情報を見つけたので」
「水? そうなんだ。全然知らない」
「そうっす。山のふもとに、湧き水をタダで分けてもらえるスポットがあるらしいんすよ。で、俺、実はその水を資本に金儲けできないかなって考えてまして。水戦争をご存知ですか」
「知らないけど」
水原は、眠そうなゆっくりした言葉で返した。水原のグラスの中の氷がタイミングを見計らったようにカラン、と音を立てた。
「二〇五〇年には気候変動や人口爆発なんかで地球全体が水不足に陥り、水を奪い合う時代が来るというのが、俺の考えです」
「ふーん。まあでもそれって、昔からよく言われてることだよね? 俺が小さい頃も、石油は三十年後には枯渇するって言われててさ、でも実際はそんなことないじゃん」
違うんすよ、と遮り、YouTubeやセミナーで金を払い得た情報を水原に説明する。石油の代わりとなるエネルギーはいくつかあるが、水の代わりはないんすよ。水原は時々スマホを見ながら、ニシダの話にうなずいていたので、調べてくれているのかなと横目で見ると、ただインスタグラムで温泉に入っている巨乳女を見ているだけだった。
「で、何か具体的なデータとかあるの?」
「今は用意できてないですけど。社長、ペットボトルの水がなぜ売れるかわかりますか?」
「おい、いきなり前のめりになるなよ。俺、水のことそんなに詳しくないからさ、教えてよ。なんで?」
「日本人は皆、国内の水なら産地がどこでもうまいと思ってるからです」
「へえ」
水原は興味を示したようだった。「で、それってエビデンスとかあるの?」
「はい、俺自身です」
ニシダは真顔で答え水原の顔を見た。相手はぽかんとした顔でニシダを見返す。
「俺、いろいろ取り寄せて飲んでみたんですよね。ペットボトルに入った国内の水を。北海道から九州まで。やっぱり全部同じ味で、うまかったっす。だからつまり、日本の水ならなんでも売れるってことです」
バーに沈黙が流れる。
「俺、断言できるよ」
水原はしばらく黙った後に、苦い顔でそう言った。
「お前さ、三カ月後には全然違うことを俺に熱く語ってると思う」
「え……?」
「なぜ水で儲けるか、っていう答えが自分の中でまだ出てないんだよ。考えが浅いまま、思いつきで人にべらべら話してると信用なくすよ」
「なんでですか。信じてくださいよ」
ニシダは前のめりになった。
「俺は水戦争が来るって確信してます。知ってますか? いま、中国人が日本の土地を買い漁って、水戦争が始まった時にその水で儲けようとしてるんですよ。それを食い止めるために俺はいち早く動きたいんです。で、先行投資で俺にまずは百万くらいベットしてください」
「は? なんで俺が」
「だからそれで、鹿泉山の湧き水を会員にだけ分配するシステムを作って……、」
「いい加減にしろって。失礼と思わんの? 初対面の目上の人間に金せびるとかよくできるよね。そもそも、タダの湧き水を売って儲けるって考え、せこくねえか?」
「じゃあ社長は、中国人に土地を買い漁られてもいいんですか?」
「さっきから中国人中国人って全員悪者みたいに言うけどさ、俺も四分の一は中国人だからね」
「そうですか、それは大変失礼しました。じゃあ、社長は自分だけが金持ちになってもいいんですか? 富を独占しているうちに、周りの人間がどんどん貧しくなっていってもいいっていうんですか?」
すると水原は呆れたように吹き出して、やべえやつだな、お前、と言った。
「お前今日は何しに来たの? 面接だよね? マネーの虎やってんじゃないよね?」
「はいそうです、すみません」
「俺も健康食品とか扱ってるからさ、水に付加価値つけて売れるのは知ってるよ。ガンが消えるとか不治の病が治るとかさ、奇跡の水を信じてすがる人は確かにいるよね」
「そもそも、人間の身体の70%は水で……、」
「黙れるか? 水のプレゼンはもうやめろ。じゃあ聞くけどさ、お前が言うように水戦争が来た時にその湧き水が高値で売れるなら、その湧き水を大量に売りさばくシステムを作らないといけないじゃん。だってそういうことでしょ? ビジネスがしたいなら、10ℓとかそれっぽっちじゃ、何もできないじゃん。自力で100ℓとか汲んで、徹底的な衛生管理をしながら保存するようなシステムを作らないと。そもそもお前にはさ、湧き水を毎日100ℓ汲めるくらいの情熱はあるんでしょ?」
「もちろんです」
いいねぇ、と水原が言った。
「うん。じゃあさ、お前はとりあえず毎日湧き水を100ℓ運んで来い。で、瓶か何かに詰める。で、次の日また同じことをやる。シンプルだろ。それがお前のミッションね」
「え? なんすかそれ。賽の河原の石積みじゃないっすか」
「なんだよそれ。定期的な報告待ってるからさ」
「意味あるんすかそれ」
「あるよ。お前の情熱が本物か知りたいし。水ビジネスについてもっと詳しくなったら、俺もお前のサポートとかも考えてあげられるかもしれない」
「まじすか、ありがとうございます。その言葉が聞きたかったっす」
握手を求めて手を差し伸べたが、いや、と鼻で笑いあしらわれた。
「あとさ、いいこと教えてやるよ。人生、金に支配されちゃおしまいだよ。お前にはさ、その、水戦争で中国人に勝つ? みたいな夢があるんだろ。それで大金手にしてどうすんの? 六本木で豪遊とか、かわいい子はべらせるとかさ、別にあんなの半年もやれば飽きちゃうのが普通の人間だからね。それでますます刺激が欲しくなってさ、金払って、女の子の腕とか折ってみたりするやつとかいるんだよ。まあ、それに応じる女もバカだけど」
「わかります」
「本当にわかってんの?」
バーテンダーがニシダにビールのおかわりを差し出す。
「女ってのは基本バカなんすわ。特に社長みたいな金持ちにたかる女は、いかにラクして他の女より優位に立つかしか考えてないんですよ。カバンとか宝石とかそういうのを欲しがるのは結局女同士の見栄の張り合いでしかなくて、だから女は、自分の見栄に金つぎ込んでくれるスポンサー的な男を探してるだけっす」
「そうなの?」
「ですです。基本的に男は、女に搾取されるだけっす」
「お前の考えって一瞬だけ正論だけど、あとは全部めちゃくちゃじゃね? 今までどうやって生きてきたの? てか彼女とかいたことないの?」
「学生の頃はいましたけど、全て後悔の記憶しかないですね。自分を押し殺したうえに、金と時間をつぎ込んでまでそばにいてほしいと思わないですね、女」
「そんなこと考えてんの? 変なやつだな」
「俺は変じゃないです。世の中、女にビビって誰も口にしないけど、それが真理なんですよ」
ふーん、と言って水原は考え込んでいた。こめかみを指でさする。そのしぐさの一つ一つをニシダは目に焼き付けようとした。
「教えてやるけどさ、起業するのなんて簡単だけど、その規模をデカくしていくのが大変なわけよ。時には悪いことだってしないといけないしな。そういうの、お前できる?」
「悪いこと……?」
「そりゃそうでしょ」
「できます。拉致とかそういうことですよね?」
「いや、そこまでじゃないけど」
「いいっすよ別にごまかさなくても。採用の条件で俺の住民票がいるって言いましたけど、それ絶対よくないことに使われるんですよね? 行ったこともない山奥の田舎に誰でもいいから住まわせるなんて、人身売買かマネーロンダリングしか考えられないっすよ。俺は別に、戸籍売られても構わないですけど」
「落ち着けって」
まあ、いくら口で言ってもわからないか。と、水原は、聞いたことのない銘柄のブランデーかウイスキーかを飲み干し、干した鹿肉とセロリをつまんだ。格好いい男の所作だと思った。
急に面接が決まり、ニシダが慌ててメルカリで買ったスーツは「十年前、友達の結婚式で一度だけ着ました」というコメント付きのラルフローレンで、「指定日に届かない場合は運営に通報する」と脅し無理矢理即日発送にしてもらい、何とか面接の前日に届いた。腐ってもラルフローレンだろと自信を持っていたが、社長の横に並ぶと、無理して買ったブランドものに身を包む自分が惨めに感じられた。水原がグラスを持つたびに、ワイシャツとスーツの袖のラインのシャープな美しさにため息が出そうになる。発言も所作もスマートで、金も権力もすべて持ち合わせた完璧な男に見える。まさに自分が目指すべき人物だと思った。
水原と別れ、中野坂上から徒歩十六分のアパートに戻ると、ニシダは引っ越しの準備をはじめる。部屋を見渡しても安っぽいモデルルームのような最低限の家具しかなく、明日にでもすぐに信州の豪邸に引っ越せる。この部屋に未練なんかない。
人生、金に支配されちゃおしまいだよ。
水原のセリフを頭の中で繰り返しながらケトルで湯を沸かした。人生で唯一のぜいたく品であるスタバで買った豆でコーヒーを淹れ、酔いを醒ましながら水原の会社名を検索した。湧き水で有名な鹿泉山の近くで求人があると知り、慌てて応募したせいで何の会社か、ろくに調べてもいなかった。水原のインスタを見つけるが、自身が所有するマセラティやNSXの前に立つ水原は、自身の顔を女児のようにかわいらしく加工しているので驚いて思わずいいねボタンを押してしまう。取り消そうと思ったが、諦めた。
水原が経営するクイーンビューティトーキョーは、ダイエットサプリや美容器具などを販売する会社らしいが、それ以外の情報はなかなか見つからなかった。しかしかなりの数のユーザーはいるようで、通販サイトのダイエットピルの口コミは一〇〇〇件を超えていた。「覚せい剤並に効く」「種馬の興奮剤ですよね?」「本当に国内の基準値を満たしてるとは思えない」「一粒飲んだら三十八日間眠れませんでした」「一カ月で二十五キロ痩せたけど半年入院しました」「違法ドラッグ」「はたまた奇跡」「夫にこっそり飲ませてます」「殺す気か」「食べたものが尻からそのまま全部出てきます」「そりゃ痩せるわな」
悪いことできる? という言葉と覚せい剤という言葉が頭の中で結びつき、自分が新しい世界に足を踏み入れたような、妙な高揚感があった。あの社長はまじですげぇやつなんだな。金と地位を手に入れるためならどんなことでもやる漢気に惚れた。
一週間のうちに東京から離れることになる。ならば最後に中学からの同級生の藤崎を誘って深夜カラオケにでも行こうか。上京してきた仲間で、今でも東京に残ってるのは藤崎だけだった。いやでも、最近の藤崎はマッチングアプリにはまっていたことを思い出す。あいつは自分が年上の女にかなりモテるのだとしつこく自慢していた。
「は? 危なくね? 三十代独身でマチアプやってる女なんか、地雷どころか犯罪の香りしかしないけど、大丈夫なのかそれ?」
そう訊くと「は? 何がだよ」とバカにしたように返された。
「田舎と都会じゃ年齢の捉え方が違うんだよ。それに年いってる方がセックスに貪欲なの、お前そんなことも知らんの?」
「知らねーよそんなこと」
「童貞は知らんか」
「童貞じゃねえ」
「ニシダよ、年上おすすめよ。メンヘラもそんなにおらんしな。普通のことに飽きてる女ばっかで、いろんなプレイ試させてくれるし、ワンナイトっつうの? ヤリ捨てしてもごちゃごちゃ言ってこねーし。ババァにとってみりゃ、俺ら二十代なんかご褒美よ?」
藤崎よ。その芸人風の丸顔で月収二十万も届かない小デブのくせに、自分のことをご褒美とか言っちゃって大丈夫なのか? ニシダは内心震えた。
「藤崎、お前はそんなやつだったっけ? サンエイでパートしてる母ちゃんが泣くぞ」
「ニシダは、東京に来てもなんも変わらねーな」
藤崎は上京しておかしくなったな。安月給でせっせとジムに通い、その帰りに廃棄物をぶち込んだようなラーメンを食うらしい。ハメ撮り見る? と訊かれた時は絶句し、あの時、俺たちの友情は一度完全に終わった。藤崎は闇落ちしてこそ立派な東京人とでもいうように、会えば自分の醜悪な行いを自慢してくる。もう付き合いきれないと思うが、反面教師として手元に残しておきたいとも思い、時々声をかけてやった。藤崎。哀れな男。
まあでも誰にも告げず、黙って東京を去るのもいいかもな。なぜなら俺は社長と約束をしたから。鹿水山で毎日100ℓ水を汲むこと。これは男同士の約束だ。俺が見込みのある人間だから、社長は無理難題を突き付けたに違いない。