花泥棒の娘の方が、昨日と同じ喪服を着て、菓子折りを持ってやってきた。手渡された紙袋を覗くと「紅茶のゼリー」と言われた。住居侵入や窃盗未遂、警察沙汰になった詫びにダイエットサプリを全部買うという。「入ってもいい?」と言い、返事も待たずに廊下の奥まで進んだ。正直なところ、ニシダはここに引っ越してきて三カ月、まともに人と喋っていなかったから、この機会を貴重なものに感じた。

「全部買うとか、別にそこまでしなくてもいいけど。金あんの?」

「お金のことは心配しなくても大丈夫です」

「は? ふざけんなよ。心配なんかしてねーよ。犯罪者のことを心配する暇はない。ぶっちゃけあんたらってどうやって稼いで暮らしてんだよ」

 見下して言ったが、るうこは深刻そうに答えた。

「仕事はしたい。カフェの接客とか本屋さんとかやってみたいと思うんだけど、母が許さなくて。私がやりたいことはなんでも気に食わないの。理由は私がやりたいと思ったから」

「あーはいはい、なんかわかるわ」

 気に入らないことがあると、暴れたり奇声をあげたりして、相手のエネルギーを消耗させることで自分の意見を通すタイプだろう。昨日の騒ぎでまともに議論できない女だということはわかっている。どこの母親も似たようなもんだな。ニシダは小学四年生の頃、浮気がバレて父親と口論になり、自殺未遂を起こし、事をうやむやにした母親のことを思い出した。酒に酔った母親は「ここにいたら私の心が死んじゃう」などと抜かして暴れ、そのまま車に乗るとニシダが通っていた小学校の校門に突っ込んだ。青のデイズは廃車になったが母は無傷だった。あの女は心も体も軽自動車よりは強靱なのだった。卒業するまで校門は修理されずニシダは、神風ニシダという無駄にかっこいいあだ名がついた。結局、一連の事件にビビり、まともな判断を失った親父はあの女を許したが、ニシダはまったく許せなかった。よその男とヤリまくり、それを正当化するために狂言自殺を図り周囲に迷惑かけるような人間を許す理由がどこにある。

「あんたの母ちゃんてさ、痛いよね。昨日も警官に色目使って甲高い声出してたじゃん? 気味悪いっつーか、ぜってー関わりたくない人種よね」

「昔は本当にきれいだったの。短大の頃にミスコンで優勝したこともあるし」

「いつの話だよそれ」

「三十年以上前だけど」

「ふざけんなよ、そんなもん無効だろ。赤ちゃんの頃はかわいかったわね、って言ってるのと同じだからな。気をつけろよ」

 赤ちゃんだって。そう言ってるうこが手を叩いて笑った。全くかわいくはなかったが、久しぶりの人間との触れあいのせいで、つい見とれてしまった。小さい頃に会ったことのある、歳の離れた従姉妹を思い出した。正月に家に行くと、従姉妹はニシダ一家を疎ましいような、気にかけてくれているような、そんなそぶりで時々ニシダに「学校はどう?」「お腹は空いてない?」と立ったまま話しかけてくるから、ニシダはどうしたらいいかわからずにこたつに座っておとなしくしていた。

「まあいいや。うちの会社のダイエットサプリを全部買いたいっていうなら、なんとかしてやる」

 本来は何ヶ月も待たないと手に入らないんだけどな。自然とそんな嘘が出て、我ながら商売上手だと、ニシダは満足する。

「ニシダは何の仕事をしてるの? ここで」

「もろもろ。極秘情報も複数取り扱ってるから、お前には漏らさない」

 そう言うと、るうこは苦笑して肩をすくめた。立派になったもんだわ、と聞こえたような気がした。ニシダはまた従姉妹のことを思い出し、目の前にいるるうこの顔を見たが、知らない女だった。

「本社に注文したら一週間くらいで届くはずだから、水汲みのついでにあんたの家に持って行ってやる」

「水汲みって?」

「あ、俺、毎日鹿泉山の湧き水を100ℓ汲んでんの」

 玄関に並べたポリタンクを指さした。錆びた軽トラはジモティーで十万円で買ったやつで、ドアの端が二股に割れており、閉めるたびにパラパラと塗料が落ち、いつ道路の真ん中で止まってもおかしくなかった。

「100ℓも? すごいね。なんでそんなことしてるの?」

「それは言えない」

「あそこの水でアトピーが治った子を知ってるよ。私も時々通りかかった時はペットボトルに入れて持って帰ることもあるけど。あ、コーヒーに使うとすごくおいしいんだよね」

「はいはい、その程度の解像度なんですね。ありがとうございます」

「でも100ℓも汲んでる人、見たことない。まるで業者だね」

「そりゃそうでしょ。カッペ人間には思いつかないようなことを、俺は日々考えて実行してるんだからさ。言っても凡人にはどうせ理解できないだろう」

「ニシダはどうして東京からはるばるこんなところに来たんだろう。冬は寒くて雪でどこにも行けないし、灯油を地下室に三トンも常備しないといけないんだよ。酸素は薄いし、ここの標高は安達太良山より高いのに」

「智恵子か」

「それに映画館は十年前に潰れたしゲームセンターもない」

「どうせ花屋もないんだろ? だから花泥棒してんだろ」

 ニシダは嫌味を言えて満足だったが、るうこは意に介さずに話し続けた。

「それでも、東京にいるのはいやだったんだね。毎日水汲みさせられるほうがましだと思うほど、東京がいやだったんでしょ。辛いよね、それは」

「はい残念ハズレ。解答権は一回限りだった。俺がそんなに惨めな男に見えるかよ? 俺はどんな場所でも教祖になってしまう男なんだよ」

 教祖? と、るうこは少し笑ったように見えたので、ニシダはムッとした。

「あんたはもっと世の中の仕組みを知った方がいいよ。そうじゃなきゃ腑抜けに見えるぞ。水がタダみたいに蛇口からじゃーじゃー出てくるのもあと十年。これから中国の富裕層が日本の山を買い占めて水を独占しようとしてくる。日本が中国の植民地になる可能性もある。これから水が石油並に価値があがる」

「そうなの? 日本が中国の植民地に?」

「当たり前だろ。まだピンときてないのかよ。頭悪いな。現に今戦争が起きてる理由を考えてみなって。いい加減に目を覚ませよ。世の中が怪しいって思ったら常識を捨てて自分で行動してみなって」

「そうなったらどうしよう」

「知るか。俺はいつか鹿泉山をまるごと買う。買って水を独占する。そうすればひとまずは安心できる。お前のような平和ボケしてるやつらは野垂れ死ぬ」

「待って。山って買えるものなの? 山って地球の一部でしょ? 地球をお金で買えるの?」

「お前さ、俺の話聞いてた?」

「集中して聞いてたけど、理解が追いついてないと思う」

「俺は初対面の人間にすべてを伝えるほどお人よしではないからな。タダでやれる情報は残念ながらここまでしかない。都会では情報は金で買う」

「だけど水戦争が来ることと、毎日100ℓ汲む理由が繋がらない」

 ニシダは大きなため息をついてるうこを牽制した。

「ダルい。バカと話すと疲れるな。人間ていうのはな、慣れが大事なの。俺はさ、今から水のない不便さに慣れるために訓練してるわけ。そうすればいざという時にパニックにならずに済む。政府は情報をすぐに隠すから、たいてい初動が遅れて混乱が生じる。この間の震災の時だって……」

「水戦争って、現実に起きることなの?」

「あ、やっと理解が追いついてきた?」

 一気にまくし立てたから、ニシダは声が嗄れてきた。座っていた回転いすを軽く揺らしながら、るうこを見た。

「ああ、よかった。早く戦争が来てほしいよ。水戦争でも植民地でもいい。だってこんな生活終わらせたいもん。何か大きなことに巻き込まれて人生を変えたい」

 るうこは胸に手を当て、笑顔を見せた。

「おい、平和ボケすんなよ。戦争が来てほしいなんて、戦禍に惑うガザの子供たちの前でも同じこと言えんの?」

「それは言えない。撤回させてほしい」

「だよな」

 コーヒーが飲みたい、とるうこが言った。キッチンカウンターに置いてある、コーヒーメーカーを指差した。鹿泉山の水の、おいしいコーヒーが飲みたい。話の流れからして当然のような、自然な要求であるような言い方だった。何をリクエストしてんだよ、わがままな女だなと思ったが、せっかく運んだ水を有効活用したくもあり、なぜかるうこを無視したり悲しませたりしたくないという気持ちにもなっていた。この土地で唯一の話し相手のことを、無駄に攻撃したくはない。るうこと話すと遠い記憶の中にある優しいぬくもりを取り返そうな気がするのだった。ニシダは「うぜえな」と言って立ち上がる。孤独には十分すぎるほど耐性があるはずだった。家族や友人に心を開いた記憶はないし、それこそが自分自身を強くしていると信じていた。考えを話すことは情報を漏らすこと、つまり弱みを握られることと同じだ。それに、大切なものが増えるほど動きが鈍くなる。自分と全く同じ考えのやつなんか存在しないんだから、理解し合うなんて絵空事でしかない。みんな自分勝手なんだよ。自分だけが一番大事。俺だってそう。だから新しい土地で誰にも会わずに暮らすこの環境に不満はないはずなのに、なぜか今はるうこにもう少しここにいてもらいたくて、ニシダは玄関に並ぶポリタンクをキッチンまで運び、湯を沸かし始めた。

「もし水戦争が来たら、私はどうすればいいの?」

 リビングの長椅子に座っている、るうこが声を張り上げて聞いた。買い物リストでも作っているような、緊迫感のない喋り方だった。東京から持ってきたスタバのコーヒー豆をミルで砕く。ガリガリした音と共に甘く焦げた匂いが広がった。

「さあな」

 ニシダも声を張り上げた。

「私も明日から一緒に水汲みに行ってもいい?」

「なんで?」

「だって……、水戦争が起きた時、今日のニシダの話をきっと思い出すと思うんだよね。あの時信じてればよかったって後悔すると思う」

「そうだろうな。でも俺はルーティンを変えたくない。勝ちに行くってのはそういうこと。小さなルールも守れないやつが成功するわけがねえの。お前のような変人と共に行動をすることにメリットを一切感じない」

「メリットならあるよ」

 ニシダは鼻で笑った。お前なんかにあんのかよ、言ってみな。

「うちにはね給水車があるよ」

「給水車?」

「そう。震災の時におじいちゃんが買って、でもすぐ死んじゃったから一度も使ってないけど。町内会で使えるようにしたかったんじゃないかな。三トンくらい貯められたはず。防災訓練の時に町内会の人が点検するだけで、ずっと車庫にあるよ。給水車があればもっと効率よく水を汲めるんじゃない?」

 ニシダは考えるふりをしたが、本当はすぐにでも飛びつきたい提案だった。平静を装うのが苦痛なほど、武者震いが止まらなくなる。スズキの軽トラは実は車検が切れていて、使い続けるのはいろいろと厄介なのだった。

「嘘じゃないだろうな」

 女は平気で嘘をつく。それを責めればモラハラだの言葉の暴力だの自分のことを棚に上げ騒ぎ、挙句の果てには母親みたいに狂言自殺をする。それが女だ。

「嘘じゃないよ。見に来てもいい」

「山奥までのこのこついて行ったら、あっさり殺されるかもしれない。あんたが情緒不安定で妄想に取り憑かれた女である可能性を俺はまだ捨てていない」

 るうこは黙ってため息をついたが、そうだ、と言ってスマホで画像を見せてきた。

「町内会のブログがある。ここに防災訓練のことが書いてあったよ。松波家の給水車。ほら」

 確かにそこには銀色に輝く給水車があった。町内会のジジイたちが車を囲み、無表情のまま曇天の下で写真を撮られていた。

 毎日100ℓの水を汲むのがこれほどまでに大変だとは思わなかった。早朝に行かないと行列ができ、水汲み場を独占するなと常連のジジイに怒られる。ポリタンク10ℓすなわち10キロの水を十回、軽トラの後ろに載せて運ぶのは地味に腰に来た。下ろすときも同様に。雨の日はなおさら大変で、こんなことして何になるんだ? という大きな疑問に負けそうになる日もあった。全ては社長との男の約束だ。やり続けていれば必ずいい結果に結び付く。そう信じて頑張っていたが腰の方は一心に悲鳴を上げていた。でも給水車さえあれば。赤ん坊がハイハイする横を新幹線で追い抜くくらいの進化でやり遂げられる。

「すべて俺が仕切り、俺の利益のために行動する」

「いいよ」

「毎日五時に迎えに行く。例外はない。軍隊に入った気持ちでやれ」

 

 翌朝、ニシダは五時に軽トラに乗ってるうこの家に向かった。母親に見つからないように、屋敷から離れた指定の場所に車を停めてほしいと昨日何度も頼まれた。いやいや。だからさ、俺が仕切るって一分前に言ったよな? 速攻あれこれ口出ししてくんな。と言うと、それはそれ、これはこれだから。そう言ってるうこは帰って行った。

 クラクションを軽く二回鳴らす。喪服姿のるうこが玄関から忍者のように走って出てくるのが見えた。何であいつは毎日喪服を着ているんだろう。聞いてもどうせ要領を得ない答えが返ってくるか、興味があると勘違いされて厄介になるだけだろう。軽トラを降りると、丘の上の白い家、その二階の出窓から大きな双眼鏡を持った人物が身を乗り出してニシダを見ていた。双眼鏡とは不自然で大げさに見えた。挨拶のつもりで片手を上げてみると双眼鏡を外し、じっとこちらを見た後で、出窓のレースのカーテンがシャッと閉まる。しばらくすると、かすかにピアノの音色が聴こえてきた。クラシックに疎いニシダでもわかる、みずみずしいピアノの生音。夏みかんの粒を口の中で弾いたような心地よさがあった。ニシダは全ての動きを制止して耳をすませた。

「何だよあいつ」

「ピアニストの東谷満先生」

「へえ」

「満先生は世界的なピアニストだけど気難しいおじいちゃんなの。あ、今弾いてるのはブラームスのピアノ三番だよ。今日は機嫌がいいのかもね」

「そうは見えなかったけどな。刑事みたいに監視してた」

「変わった人なの。先生はね、ニューヨークとパリとここに家があったんだよ。何十年も、三拠点生活。それぞれの立派な家で猫を飼ってて、ちゃんとそれぞれの国に猫のお世話をする人がいてね、若くてイケメンの外国人の恋人が……」

「三ヶ国に家? すげえ金持ちじゃん。ピアニストって金稼げるんだな」

「多分ね。でもあの人はどこでもトラブルメーカーだと思う。人間ぎらいで芸術と猫とイケメンを愛してる偏屈な人。いろいろあっても結局は独りぼっちで、ここで余生を過ごしてる」

「人とうまくやれないからこそ本物の芸術家になれるんだろ。社交的な芸術家なんて存在しない。それはな、アートを売ってるただのビジネスマンなんだよ」

「どうしてそんなに詳しいの?」

「は? あんたは何も知らないんだな。俺は本で読んだりしたけどね。バブルの時にそういうやつがいたの、知らんの? もうちょっと年齢に見合った知識を持ち合わせた方がいいんじゃない? あんたが何歳か知らないけど、若くはないだろ」

 るうこは黙っていたが、大きくため息をついて、やっぱりね、と言った。

「本をたくさん読んだ方がいいってことは、昔も言ってたよね」

「は? さっきから何なんだよ。知人みたいに話しかけてくんなって。俺は都会の人間なの。そういう馴れ馴れしさは無理。わかった?」

 ちょっと、ここで大きな声を出さないで、とるうこに遮られる。ニシダは舌打ちをして窓を閉め、車を降りる。るうこに車庫まで案内され給水車に乗り換えると、車高の高い座席が心地よく、ニシダは一気にテンションが上がる。新車はいかなる時も、運転すると気持ちがいいのだった。鹿泉山までは片道三十分ほどで、山道を走る時、いつもは爆音で軍歌のカセットを流して士気を高めていたが、るうこがいるのでやめた。

「ニシダはあれから何してたの?」

 るうこが小さく窓を開けた。冷たく軽い風が絶え間なく車内に入ってくる。この街をよく知る人間が隣にいると、自分も慣れ親しんだ道を運転している気がした。眠気覚ましのようなタイミングで、対向車の軽トラが時々通り過ぎる。

「あれから? なんのこと? 昨日の話?」

「違うよ、ニシダのこと。その名前は嘘でしょ」

「あのさ、しつこいって言ってるのがわかんない?」

 噛み合わない会話に付き合わされ、疲れを感じた。相手のペースに乗せられたら、自分をコントロールできなくなる。気づいたら余計なものを買わされたり、契約させられたりすることになる。冷静になれ、俺。そう自分に念じた。

「とぼけなくていいよ。わかってるからね」

 そう言って、るうこはサイドブレーキに乗せているニシダの手の上に自分の手を重ねた。

「おい、さっきから何言ってんの? 頭大丈夫? 車降りる?」

 すぐに冷静さを失い、車を停めてキーを回す。車内に一気に静寂が広がる。るうこは黙ってニヤニヤしながらこっちを見てくるだけなので、ニシダは怖くなった。早朝で良かった。夜だったら完全に詰んでた。わ、わかってるって何がだよ? お前いい加減にしろよ。弱々しく反論し、考えを巡らせたが、わからなかった。わからない。こいつは何を言っているんだ? 俺はもう少し相手をよく知るべきだったか。おかしな女だから大丈夫だと軽く考えていたが、何が大丈夫だったのか。むしろ、おかしいと思った時点で警戒すべきではなかったのか。年上がおすすめよ、と言っていた同郷の藤崎の言葉を思い出す。あいつも東京で年上と付き合うようになって自分を見失い、落ちぶれてしまった。こいつは今、喪服を着て、俺をずっと監視していたことを仄めかしている。あのカバンには何が入っているんだ? 自作の釘爆弾が入っていてもおかしくはない。水に毒を混入するつもりなのか? ありえなくはない。

「お前、もしかしてコロナのワクチンとか打った?」

 とりあえず、落ち着いてそう聞いてみた。

「打ってない、だってここは人口密度低いから必要ないって、回覧板で回ってきたし」

 そう返ってきたので、ますます訳が分からなくなる。

「ずっと黙ってたんだよ。いろんな人からしつこく聞かれたけどね。私たちだけの秘密のこと」

「何が、だよ。俺を監視してたのか? 社長に言われて?」

 俺が鹿泉山に来たことを知っているのは、水原社長しかいない。あれ以来大した連絡も来ないが、俺の水汲みを監視する人物を雇っていたとしてもおかしくはない。

「ずっと私のこと気にしてくれてたんでしょ。知ってるよ。私だってあんたが何してるかずっと気になってたよ」

 ニシダは急におかしくなって吹き出した。なんだよこの設定は。謎解きゲームのキャラか? 社長は地元の劇団員でも雇ったのか? セリフじみた会話も、妙に馴れ馴れしい態度も、演技だと思うと笑えてくる。

「正義感出して、あんたのことを探し出そうとする男もいた。聞いて、中学生の時に初めて付き合った男の子。浜口弘臣。あんたのことロリコンだって騒いで、名前とか住んでる場所とか聞いて、ネットにばらまいてやるって言ってきて」

「人違いだろ。俺は童貞でもロリコンでもねえよ。残念だったな」

「あなたは、可能WEEK&Co,なんでしょ?」

「なに? 聞き取れなかった」

 かのう、ウィーク、エンド、コー。るうこがゆっくりと一文字ずつ発音した。

「は?」

 ニシダはそう言って吹き出した。なんだこいつ。まじで、一人でずっと高度なお笑いやってんじゃないだろうな? 深夜の過激なお笑い番組に出ていた、独特な雰囲気とボキャブラリーセンスで笑わせていたピン芸人の姿と重なる。給水車を所有していることすら笑いのためのような気がしてきて、ニシダは笑いを堪えて肩を震わせた。

「私は信じてたよ。あんたが戻ってきてくれるってこと。いっぱい話したいことがあったんだよ。あんた本当はニシダなんて名前じゃないよね。中身は全然違うんでしょ」

「そうだよ。俺の本当の名前は、可能う……、」

 だめだ、ちょ、無理無理。笑いすぎて最後まで言えない。耐えきれずにぶわっはは、ひぃひぃ、と笑ってしまう。こいつはただの、おもしれー女。警戒する必要なんかない。

 

「ねえ、るうこじゃない?」

 鹿泉山のふもとの水汲みスポットに乗り付けホースを出していると、女に声を掛けられているのをニシダは後ろから見た。のそのそと動いていたるうこの動きが固まった。

「覚えてる? 棚橋中学校で一緒だった千穂だよ。前川千穂」

「前川……」

 夢から醒めたような頼りない声を出して、後ずさりしている。前川千穂はそれには気づかずに、ぐいぐいと距離を詰めているのが見えた。

「米屋の前川だよ。ほら。今は林だけどね。え、てか本当にるうこだよね? 人違いじゃないよね? 中学校以来じゃない? 久しぶりだねえ」

「久しぶり」

「今日は何? お葬式とか?」

「いや、違う……」

 違うんだ、と前川千穂は少しがっかりした顔で言った。

「私はさ、うちのお父さんが肺炎をこじらせちゃって入院したんだよね。ここの水が身体にいいって同じ部屋の患者さんから聞いたらしくてさ、だから今日チビたちを連れて、朝から来てみたんだけど」

 頭の悪そうな湿っぽいおかっぱの子供が二人、鼻水を垂らしながら給水車の周りをうろちょろしていた。砂利道に土埃があがる。カーブする時に子供が車体に手を当てたので「触んなガキ」、と蝿を払うように手で追いやるが、全く聞いちゃいなかった。

 るうこが助け舟を求めてこっちを見ていたが、関係ない。そう思って給水車に寄りかかり、タバコを取り出し優雅な一服を決めた。

「で、るうこはなんなの? え、待って。まさかその給水車いっぱいにここの水を持ってくつもりじゃないよね」

 さすがにウケる、と前川千穂が言った。年季の入ったギャル、派手だが手入れが行き届いていないせいで、長い明るい色の髪やスパンコールのついたシャツが貧相に見える。真冬だがガキにサンダルを履かせているし、常識はずれなやつだとニシダは思った。悪いやつには見えないが、るうこが逃げ腰なせいでまるでいじめているように見えなくもない。るうこはまだ期待して、必死にこちらを見てアイコンタクトを取ろうとしていたが、無残にも無視してやった。その姿が滑稽で朝のタバコがいつもよりうまく感じた。

「違う、その、あれはただ乗ってきただけで」

「給水車に乗ってここまで来たの? すごいけどなんで? シンプルな疑問」

「車の調子が悪くて」

「そうなんだ。で、あの坊主の方は?」

「あ、この人はニシダでえっとあの」

 るうこは早口で口ごもる。ふーんまあ別にいいんだけど、と言って前川千穂がニシダを見た。ニシダはさりげなく車の後ろに身を隠した。向こうから黒い長靴を履いたジジイが近づいて来て、ニシダに給水車の目的を聞いてきた。あんた最近よく来るね。よその人でしょ? タバコとコーヒーの匂いが混ざった強烈な口臭に耐えつつ、のらりくらりと答えていると、「ここは日本一の湧出量を誇る湧き水だから、あんたがそれでいくら吸い取ったって、なくなりゃせんのよ」と言い、勝ち誇った顔で去っていった。

「実は卒業後もよくみんなで会ってるんだよね。しょっちゅうつぼ八で飲んでさ、るうこのことも話題に出たよ。何してるんだろうねって。やっぱりさ、るうこといえばあの事件でしょ。私も子供がいるからさ改めて思い出したりするんだよね。怖かったでしょ? 子を持つと事件の捉え方も変わるっていうか。でも無事に生きて帰ってこれたんだからすごいよね。てかさ、事件に関して教訓とかある?」

「教訓……。どうかな」

「あ、てかマッチングアプリとかやってないよね? つぼ八で誰かが言ってたんだけどさ、るうこをマチアプで見たって……、」

「それは絶対にやってない」

「別にいいんだよ? 誰でもやってるし。で、なんで今日はここにいるのかもう一度聞いてもいい?」

 聞き耳を立てていると、るうこが意を決したように言った。

「千穂ちゃん、水戦争って知ってる?」

「え? 何? 昼弁当?」

「違う。水戦争だよ」

 ニシダはるうこと目が合った。二人だけの世界に迷い込んだような、時間が一瞬だけ逆行したような、奇妙な間だった。

「千穂ちゃんも子供がいるなら気を付けた方がいいよ。誘拐よりも水戦争の方が危ないんだから。だってね、十年後に日本は水を奪い合うことになるんだよ。つぼ八で飲んでる場合じゃないでしょ」

「えー、そうなの?」

 私そういうの全然知らない。国際情勢的なやつ? と前川千穂が笑った。

「全部は伝えられないけど、とにかく危ないんだよ、平和ボケしないで。水は石油と同じくらいの価値になって、水の奪い合いで人殺しが始まっちゃうんだよ」

 どうせ聞く耳を持たないだろうと思っていたが、前川千穂はうんうん、と頷いた。

「政府は真実を隠してるんだよ。だからその……、」

「るうこって、見ない間にそういう感じになってたんだ、びっくり」

「そういう感じって何?」

「だからその、陰謀論っていうか」

「陰謀論じゃねーよ。これは現実」

 たまらずニシダが会話に割って入った。ニシダは再び、水戦争が来ることについて短く説明をした。前川千穂は素直に話を聞いた。

「私もこの間の震災でさ、日本政府に対しては何か裏があるんじゃないかなって思ったんだよね」

「それは正しい感覚だね」

「あとトランプもなんか怪しいよね。ああ見えて実はめっちゃいいやつってこともあり得るの? うちはなるべく自給自足で暮らせるようにしたいなって、子供と一緒に畑もやってるし、電磁波もさ、あれどうなの実際。少子化と関係あるでしょ絶対」

 話題が自分以外に移ったからか、るうこはホッとした顔でうなずいた。緊張感から解放されたるうこを見て、前川千穂がなによもう、うちら仲間じゃんと笑った。

「で、あなたはるうこの旦那なの?」

「違う。俺は部外者。東京から来た人間で」

「へえ、すごいね」

「サプリや健康食品を扱う新進気鋭のスタートアップ企業の信州地区のリーダーをしてて」

「それはそれは」

 それ以上会話が続かず、全員が黙った。その時前川千穂が言った。

「ここで会ったのも何かのご縁だと思うんだけど、実は今度うちで妹のベビーシャワーするんだよね。もしよかったら、来週来てくれない? るうこも知ってるでしょ? 舞花。三つ下の妹。あんたたち仲良かったよね?」

「そうだっけ」

「二人で一緒にいるとこ、何回か見たよ。図書室か公園かどこかで」

「そんな些細なことを今でも覚えてるの?」

「うん。るうこのパートナーさんの東京から来たあなたも大歓迎だよ。地元の人と交流した方がビジネスもやりやすいんじゃない? マルチ勧誘はお断りだけど、違うんだよね?」

「絶対に違う」

「了解。おいしいごはんも用意するって。ジビエとか地元野菜のキッシュとかさ。二人が来たらきっとみんな喜ぶよ。急な話だからプレゼントとか無理しないでいいからね。会費はひとり三五〇〇円取るけどさ。あとは、ここの水をたくさん持ってきてよ」

 

 ピアニストの家の裏庭でるうこを降ろし、給水車を車庫に戻す。

「明日も来てくれる?」

 両手にペットボトルを持ったるうこが心配そうに聞くので、ぶっきらぼうに「甘えんな。俺は一度決めたルーティンは変えない」と答えた。

「ベビーシャワーも行くよね?」

 ニシダは少し考えたが、ビジネスにおいて人脈づくりは何よりも大切だと思いうなずいた。鹿泉山以外にも湧き水の山を持っているやつがいるかもしれないし、俺に投資してくれるやつが現れるかもしれない。

「その時、ニシダは私の恋人ってことでいい?」

「は? 何言ってんの? 調子に乗るなよ」

「じゃあ誰かに聞かれたらなんて説明したらいいの?」

「知らねえよ。さっきみたいにオドオドしてればいいじゃん。そうすりゃ誰も相手しなくなるだろう」

 パジャマの上に厚手の英国紳士のようなコートを羽織ったピアニストが家から出てきて「ちょっと」と呼び止められた。

「お嬢さんたち、うちの庭を逢瀬の場に使わないでいただきたい!」

「逢瀬?」

 ニシダは初めてピアニストを間近で見た。背が低くしわしわで、年のせいで声が震えていた。ゲイだと聞いてはいたが、男にも女にも見えたし、どちらにも属してたまるかというような、人間に対する拒絶も感じた。

「汚らわしい情欲を、私の神殿に持ち込まないでいただけるかしら」

「満先生、お久しぶりです。すみません、私たちは水を汲みに行ってきただけで。この時間は母がまだ寝てるので少し離れたところで降ろしてもらおうと思って」

 るうこが言い訳をした。

「水を汲みに? 何のためにそんなこと。それって何かの隠語じゃないだろうね」

 そう言うと返事も聞かずにピアニストは踵を返して家に戻った。猫が何匹かこっちを見ていて、ニシダは気にせず自分の軽トラに戻ったが、るうこはいつまでも猫を見ていた。

 

(つづく)