朝起きると彼が部屋の湯沸かし器で、私に紅茶を淹れてくれた。私はその苦味を押しつぶすように飲み込んだ。昨日より少し機嫌が良くなった彼は、フロントでもらったという新聞を読み始め、「よかった、俺たちのことは記事になってない」と言った。「当たり前じゃん」と、私は笑った。部屋には彼が飲んだコーヒーの匂いが広がっていた。ほらね、オカシラ様が私の願いを叶えてくれたんだ。昨日の彼のイライラは、消え去っていて、それがわかると緊張が緩み、体の奥から温かいエネルギーが湧いてきた。

「ねえ、今日は何するの?」

「何するって、もう帰るんだよ。何言ってんの。旅行ごっこはおしまい」

「帰りたくないよ。楽しいこと、まだ何もしてない」

「もう、いい加減にしろって」

 彼は新聞をたたんで私を睨んだ。私は驚いて、口を固く閉じた。私のことが好きで、私を特別だと思ったから、ここまで連れてきてくれたんじゃないの? こんな狭いホテルに閉じ込められているだけじゃ、本当に遠くに来たかどうかもわからない。

「いやだ。今日はお買い物に行きたい。連れて行ってくれないなら、大声で叫んでやるから」

 そう言うと、彼は私の頭を思い切り、ばん、と殴った。衝撃が大きく、視界が揺れ、私は前のめりで膝をついてしまった。

「あのさ、自分が置かれてる立場をもう少し、考えた方がいいよ」

 膝をついたまま、私は大声で泣いた。泣きながら見上げると、彼は黙ったまま私を睨んでいた。私は立ち上がって彼のお腹をグーで叩いた。すると彼が私の肩を押した。足を思い切りあげて押すように蹴ると、彼が私をだき抱えて、ベッドに放り投げた。一瞬息が止まって目の前が真っ白になる。彼が馬乗りになって、私に顔を近づけてじっと見た。きっと何か新しい展開が始まるのだと思った。大人の男をこんなふうに近くで見たことはなかった。すると彼は私の耳元で、殺すこともできるんだからな、と言った。恐怖を感じたけど、それでも私は、彼より自分の方が強いと思っていた。ゆきすかぐらでは、みんなが彼のことを見下していたし、センセイだって時々、「うちの息子よりも、るうこちゃんの方がずっと賢いな」と頭を撫でて褒めてくれていたから。こんな狭いホテルに閉じ込めて、子供の私を脅すなんて、最低なやつ。殺されたって別にいい。だって死ぬっていうのは、ただ明日が来なくなるだけでしょ? ここで怯んだら負けだと、私は思い切り両足をあげて彼の胸を蹴り上げた。

「あんたが私を連れ去ったって、ロリコンのバカ男だって、センセイに言いつけてやる。うちのお父さんは、警察の偉い人と知り合いなんだからね」

 彼は、みるみるうちに青ざめた顔をして、違うだろ、君が。そう言って顔を覆って泣き出した。ほらね、勝った。やっぱり私は強いんだ。そう思ってベッドから飛び降りた瞬間、彼に羽交締めにされ、口を覆われる。

「ガキが。黙れよ。その前にやってやるからな」

 やる、の意味はわかっていたけど、それが恐怖には繋がらなかった。具体的にどんなことが起きるのか、想像できなかったから。私は彼の手を思い切り噛み、部屋から逃げようとしたが、彼に腕を掴まれる。やっと自分が、もういい加減うんざりしていることに気づいた。私はこのおじさんと、空気の薄いホテルの中で何をしているんだろう。まだ何か期待してる自分に恥ずかしくなる。

 もういい、終わり。帰る。だめだ、ここにいろ。どうして? さっきと言ってることが違うじゃん。そんな空虚な押し問答のあと、息を切らして私たちはまた眠った。彼を絶対に許さないと心に誓うと、目に涙が滲んだけど、自分が彼を困らせていることもよくわかっていたし、申し訳ない気持ちもあった。私が思った通りに振り回されて、焦って、泣いてくれて、嬉しかった。大人の男の彼が目の前で泣いた時には、吐きそうな気持ちがしたけど、その奥に嬉しい気持ちがあったことも確かだった。お腹が減って目を覚まし、水道の水を飲んでまた眠った。目を覚ますと、彼がベッドの横に立っていて、「本当にごめん」と、言った。私は横になったまま彼に背を向けて、いいよ、と答えた。今度は、お金持って来ようよ。私が言うと、彼はひとつ間を空けて、まあ、そうだね、と言った。そしてまた朝が来ると彼は部屋にいなかった。一番許せないことをされた、と思う代わりに、理解しようとした。大人がこんな酷いことをするわけがない。そうだ、あいつはゲームを始めたんだ。これはきっと、あいつからのメッセージ。わかった、あんたを捕まえればいいのね。私はすぐにホテルの受付に行き、親に電話したいと頼んだ。それから警察に通報して、彼を捕まえてください、と言った。

 私はまだ子供で、誘拐されて酷い目にあったんです。

 

 釜焼きベーグルを抱えながら車から降りた時、ずっと留守にしていた満先生が玄関から出てきた。相変わらずぼろぼろのバスローブを着て、銀色の痩せた猫を抱えていた。

「この間はお騒がせしてすみませんでした」

 私は近づいて、謝った。お騒がせ? と聞き返されたので、あ、あの大事件です、と言い直した。

「あなたのお母さん。あんなバケモノにたたき起こされて、心臓発作を起こすところだったわよ」

「すみません」

 そう言った後に、母をバケモノだと言った満先生の言葉がおかしくなった。家に帰ったら思い出して笑おうと思って、今は黙って目を閉じた。

「もし、私を殺したら終身刑でも済まないですよ。私がいくつ勲章を持っているかご存知?」

 十個くらいですか? と恐る恐る聞くと、ふたつ、とぴしゃりと返される。

「あなたたちを一生許しません。私の終の住処をうばったのですからね」

 うつむいて黙っていると、満先生は大きなため息をついてこう言った。

「私はね、あなたが哀れでなりません。これが最後の付き合いになるから言いますけどね、若い時くらいは、危ない目に遭ったって平気なんですよ。世界がどれだけ広いか見に行ってみることは、この世に生を享けた限り、しなくちゃいけないことなんだって思いますけどね。私みたいに特別な才能がなくたってね、誰でも冒険する権利はあるんです」

「冒険ですか」

「早く、ここから出て行きなさいってことです」

 ゆきすかぐらに通っていた時期、日本では新興宗教がとても問題視されていたから、誘拐事件は私が想像したよりも遥かに大きく報道されて、あいつには、あれっきり会えなかった。のめり込んでいたセンセイの教えが、あれ以来急にくだらない知識に思えてきた。だってラベリングしたって悪いことは起きるし、何も思い通りにはいかない。

 

 ブログに取り憑かれて、みるみる元気を取り戻した母は、派遣講師の会社にも名前を登録した。講義できるトピックとして挙げていたのは、「逆境に勝つ方法」と、「私の美容健康法」。一ヶ月経ってようやく、沖縄の女性の権利団体から講師依頼があった。まさかの逆境の方の依頼だった。申し訳ありませんが交通費は自腹で、と言われたので、母は腹を立てていた。バカにしてるわ、そんなの断るに決まってるじゃない。

「だけど沖縄なんか、こんな機会でもないと行けないんじゃない? 綺麗な海があるし、暖かくていいところだって」

「そうかもしれないけど、他にも行きたいところはたくさんあるわよ。パリとかハワイとか。外国でたくさんお買い物だってしたい」

 家のものを一トンは捨てたというのに、まだ何か買おうとしている母に私は内心、呆れた。

「でも、竹富島で水牛に乗ってみたいって、昔言ってなかった?」

「そんなこと言ってたかしらね? 一人で水牛に乗る女なんて惨めじゃない? 水牛のほうも気まずいんじゃないかしら。るうこちゃんも一緒に行ってくれるならいいけど」

「お母さんは一人でなんでもできるでしょ。声をかけられたのは、お母さんなんだよ。私は呼ばれてない」

「そりゃそうでしょ」

「満先生も言ってたよ、冒険しなさいって」

「冒険ねえ。あの人はピアノが弾けるっていうだけで、地図も読めなそうだけど」

 母の気持ちは数日間揺れ動いていたが、りさ子も沖縄が好きで別荘を持っているということが分かり、行くと決心したようだった。派手な花柄のワンピースやアクセサリーに水着まで買い込んで、毎日スーツケースに入れたり出したりを繰り返しては、沖縄行きを心待ちにしていた。

 出発の日、満先生の家は静かで、ピアノの音は聞こえなかった。猫の姿も見えない。カーテンは閉まっているけど、もしかしたら、もう猫たちと一緒に引っ越してしまったのかもしれない。寂しい気持ちのまま母を助手席に乗せると、カーステレオに満先生のCDを入れて、私はボルボを走らせた。

「講演会では、どんな話をするんだっけ?」

「これまでの人生で学んだことを、全て話すつもりよ」

 パワーポイントでたくさんスライドを作ったのだと言って、母は新しく買ったノートパソコンを膝の上で開いた。

「悪いこともチャンスと捉えて行動すれば、うまくいくってこと。見た目の美しさに固執したって息苦しいだけだってこと。他にも色々あるわね。全ての情熱を注ぎ込んで、沖縄の皆さんに伝えるつもりよ」

 私は黙って頷いた。ショパンの雨だれが突然途切れて、また頭から再生された。

「お母さん、私のこと怒ってるよね」

「怒ってる? まあ、そうね。だってあんな目に遭った原因は、るうこちゃんにあるんだから。運が悪ければ死んじゃってたわ。それで、あの世で色んな人から笑い物にされるのよ」

「私は本当に、あれはダイエットピルだと思ったんだよ」

 そう言うと母は、あらそう、どっちでもいいわと、鼻で笑った。腕につけていた沢山の金の輪が涼しい音で鳴った。

「私はずっとね、はっきり言って嫌いだったわ。るうこちゃんのことが。可愛く産んであげたのに、うじうじして冴えないところが一番嫌いね」

「お互いに嫌いあってるんだから、一緒にいる必要なんかなかったよね」

 私は、早口で言い返した。

「そうなのよ。初めて意見が一致したわね。家族は一緒にいるべきだって思っていたけど、よく考えたら別に、そんなことないのよね」

 死ぬ前に気づいてよかったわ。母が言った。

「人間、死に直面するといろんなことがはっきりとわかるのね。やりたいことを見つけて、好きに暮らすのが一番よ。私は人から求められる人間でありたいの」

 みなさん、まずは自分を愛することです。母が講演会のスピーチを始めそうになったので、私は慌てて遮る。

「だったら私も、あの家にいる必要はないよね」

「どうかしらね。いまの私は、人のことまで考えてる余裕はないわ」

 お母さんなんか死ねばいいのにと、いつも思っていたけど、本当に死んで目の前から消えてしまったら、全部おしまいなんだ。叶わなかった想いも、誤解も、嘘も、どこにもいけなくなる。私たちは欲しいものすらわからないまま、同じ場所にいて、傷つけあっていた。あの屋敷で長い間、悪い幻覚を見ていたみたいに、何も手にできないまま、苦しんでいた。だけど、私とお母さんはもう、同じ夢を見てはいない。目を開けて、自分の足で前に進もうとしている。

「私は何をしようかな」

 明るい声でそう言うと、「まだ決めてないの?」と返された。

 母を駅まで見送ると、私は久しぶりに図書館に行き、地理や旅行のコーナーを見て回った。隣のホールでは市民サークルの書道展をやっていて、上手いか下手かさっぱりわからなかったけど、もうこれが最後だからと自分に言い聞かせて、ひとつひとつの作品をじっくり鑑賞した。

 母が沖縄からお土産を両手いっぱいに帰ってきても、あの屋敷に私はいない。母は驚くかもしれないけど、それでいい。

 

 そんなふうに生きているうちに、ある日突然、ニシダが照れて笑いながら目の前に現れる気がする。いやいや、あの日以来だねるうこちゃん、なんて言って、相変わらず不思議な演説を勝手に始める。私はそれを聞いて、安心して笑ってしまう。それから、ごめんねって言う。それだけは決めている。

 見慣れた景色の道路を抜けると、また似たような新しい山道が続いていた。海の見える街まで行けば、彼がどこにいるかわかるかもしれない。この道はまるで人生みたいだなと思うと、笑えてきた。私は、彼がいまどこでどんなふうに傷ついているのか、知りたかった。

 車の窓を開ける。冷たい風を感じる。私は大きく息を吸い込んだ。全てが怖いなら、目をつぶったまま前に進めばいい。簡単なことだった。強くアクセルを踏み込むと、私はどうしようもないほどの気持ちのいい瞬間に包まれた。

 

(了)