るうこ三十五歳、私はさらわれたお姫様
十二歳で誘拐された元・美少女である私が、その後まともに生きられるわけがない。この過去を背負って人生を歩んでいくしかないのだ。いやいやるうこちゃん。人生ってのは長いんだからさ、気持ち変えてこ? そこはなんとか成長とともに、意識的なものを前向きに変えていこうよって? いやいや誘拐されたことのない皆さんにはわからないですよ。努力なんて言葉、叶わない夢を見続けるためのまやかしでしかないってこと。だって過去が変わらないのなら未来だって変わるわけがない。私はあの日からとっくにみっともなくて汚らわしいのだから、今さらまともぶったってきっとボロが出てしまう。ルーツというものはそういうもの。たどってきた道は、表情やしぐさや言葉の奥からかすかににじみ出てしまう。それならば私は気高く自分の過去を受け入れたい。人生のささやかな抵抗として。
とりあえず今は、母をどうにかしないとと思っている。殺す、とまではいかないけれど、この世からふっと消えてくれないかな、とか。それくらいのことはいつも心の真ん中にある。
駅の隣に真っ白な壁の図書館ができたので、私は毎日車で山を下り、図書館に通うことにした。母を攻略すべく「毒親」について書かれている本を借りて読んでみたけど、心底がっかりしてしまった。カルト宗教の生贄に我が子を捧げちゃう親とか、娘の顔面にタトゥを入れる親とか。世界にはとんでもないモンスターマザーたちがいて、それに比べたらうちなんか全然大したことないじゃんって思った。あの人は単にわがままで夢見がちな変人ってだけで、私の顔にタトゥを入れるなんて、そんなこと思いつきもしない。
借りた本をトートバッグに入れると、隣接している市民センターの休憩コーナーでアルフォートを食べながら、スマホのアラームが鳴るまでせっせと読書に励んだ。陽が落ちる前に帰らないと、また母がうるさく心配する。「夜遅くまでうろうろしてると、また悪い人にさらわれちゃうわよ!」って。事件をジョークにする親がどこにいるっていうんだろう。ニュースになるくらいの大事件だったのに。それに私はもう三十五歳で、時代だってかなり変わった。こんな田舎でも駅には監視カメラがついてるし、スマホのあらゆる機能で悪に立ち向かえる。でも、三十五歳の私がまた、WEEK&Co,にさらわれたら? また世間はあの時みたいに大騒ぎするのかな。しかもそれが、大昔のあの事件の二人だと知ったら。世間はどんなドラマを思い描くのだろう。
事件の年、あいつは二十八歳だったから、いまもどこかで生きていれば五十そこそこのおじさんになっているはず。え? あいつがおじさんになっているなんて、想像もできない。背が高くがっしりした体格で、舌足らずのくせに早口だったWEEK&Co,ちゃん。家族全員東大京大の医者家系なのに一人だけ三浪して三流大卒のポンコツだってね、初めて会った日、勉強会でセンセイがそう言っていた。私がひとりで部屋にいるのを見つけると、子犬がおやつを見つけた時みたいに、嬉しそうに鼻を膨らませて挨拶してきたよね。いつも着ていたラルフローレンの大きなポロシャツ。あのピンクの硬い生地や、私を盗み見る時の蛇みたいなにゅるにゅるした細い目のことを、いつまでも覚えている。今の私ならあいつのことを「童貞ロリコン野郎」とか呼べるけど、あの時はそんな単語を一つも知らなかった。それでも。私はあいつのことを子供心に「使えそうなやつ」だと観察していた。なんかすごく、自分の言いなりになってくれそうで、行動してくれそうな——。おっと、あいつについて考えてもよい時間は一日十分までと決めていたんだ。時計を確認すると読みかけの本をトートバッグに戻して、市民センターの小ホールでやっている公募写真展を見ることにした。
薄暗く乾燥したホールには、拡大された虫や電車や孫の写真が並べて展示してあり、退屈しのぎにそれを見た。
「投票していきませんか? お好きな写真にぜひ一票」
けばけばしい手作りニット帽をかぶった女性に声を掛けられる。いかにもこの地元によくいるハンドメイド大好きなアクティブおばちゃんって感じ。じろじろ見ていると、向こうも私の喪服を一瞥した。あごをあげて目を細め、あらお葬式ですか? というふうに。まんまとこちらの策にはまってくれて嬉しくなる。ええ、そうなんです、ちょっと身内に不幸が。そんなアンサーを込めて私も軽く一礼する。だけどそんなのは嘘。私が毎日喪服を着ているのには理由がある。
理由その一、重要な予定があると思われるから。誰からも必要されないというのは、とても悲しいこと。孤独をこじらせてしまうと母みたいな、とってもやばいおばさんになってしまう。逆に予定がある人は、社会に存在してもいい人だから、毅然としていられる。そう、まさに今この瞬間みたいに。
「森山大道とか土門拳の良さなら、すぐにわかるんですけどね。あとはロバート・キャパとか?」
写真の知識をさりげなく披露し、相手をけん制する。なんのために私が毎日たくさん本を読んでいると思っているのだ、こういうカラフルニットのおばちゃんに勝つためでしょう。
「まあ! 詳しいんですね。でも巨匠だって最初は私たちと同じような初心者ですよね」
おばちゃんに、ほほ笑んでやり返された。くそ、まさか反撃されるとは思わなかった。それから私は二十分もかけて暴走するルンバのごとくホール内をぐるぐる歩き、すごく悩んだふりをしてからオリーブ色の鳥の写真に一票を投じた。悲しい気持ちを蹴散らすように速足で会場を出ながら思った。才能ない同士で集まって、投票なんかで内輪で盛り上がっちゃってさ。ばっかみたい。本当にみっともない。やっと自動ドアが開いて、私は大きなため息をつく。
私が喪服を着る理由その二。母にいちいち洋服のことで文句を言われなくて済むから。
短大も大学も、遠くて危ないという理由で進学させてもらえなかったけど、その代わり、車の免許を取ったら駅前の英会話やお茶の教室には通えることになった。十九歳の時、近所のリサイクルショップで見つけた桜色のワンピースを着た日のこと。
「あら、るうこちゃんったらそんな服を着てみっともない」
母は玄関までついてきて、背後から服をぐいぐい引っ張りしつこく言ってくるのだった。母だってしょっちゅうピンクや白のワンピースを着ているのに。同世代の、かつて人気だったアイドルやモデルが好きな母。彼女たちの中でも特に倉田りさ子のファンで、りさ子がテレビに出ていると、着ている服やアクセサリーを私にネットで調べさせ、同じものを手に入れようとした。短大時代にモデル事務所に入っていた母は彼女に会ったことがあるらしい。何かのパーティーで一緒になり、明け方、六本木でタクシーを待っている時、りさ子に目薬を貸してあげたのだと言う。
「すっごく優しかったのよね、りさ子ちゃんは。明け方で、みんな疲れてるのに一人だけニコニコして元気なの。聞いたらヨーロッパ旅行から帰ってきたばかりで時差ボケだったんですって。目薬のお礼に何かくれようとしたんだけど、本当に何も持ってなくて。そうしたらりさ子ちゃんのボーイフレンドが寄ってきて、くしゃくしゃのハンカチを差し出してね。『何もないりさ子の代わりに、これあげるよ』って。その人、ゴルフプレイヤーの太田悟だったのよ」
たった一つの些細なエピソードを、一生の宝物として使い続けるつもりでいる。輝かしい青春の思い出。ハンカチの中に電話番号が書かれた紙きれが入っていたんでしょ。それでそのあと、電話したの? 私が聞くと、そこからのエピソードは、毎回違うのだった。
「なによそのふしだらな洋服は。まるで場末のホステスみたいじゃない。本当にただの英語のレッスンに行くのよね? 外国の血が入った孫なんかいやよ私」
あの桜色のワンピースは、試着室で着てみると、肩から腰までぴったり収まって、私のために作られた服だと思って興奮した。タグを見たらほぼ新品で千五百円。安かったから買ったと言えば、それが正当な理由になる。レジで支払う時も興奮でまだ指先が震えていた。「天女の羽衣だ……」そうつぶやき、若い店員に不思議そうに見つめられながら買った上品なワンピース。みっともなくなんかない。
「安かったんだもん。激安だよ? 千円くらいかな」
嘘偽りない反論のはずなのに、母の顔を見るのが怖くてうつむいた。
「安いからってそんなものを選ぶなんて。るうこちゃんは天然の、あれはなんて言うのかしらね? 淫乱、淫奔。そうだわ、あなたって汚らわしいのよ。だってあなたは昔、」
何よお母さん。言ってもいいよ。私は、さらわれたお姫様だったってこと。本当は羨ましいくせに。誰かに退屈な山の中から連れだしてもらったこと。そんなドラマチックな事件が、お母さんの人生にはないもんね。
心の中で言い返し、黙っていると母は私がショックを受けているのだと勘違いしたのか、勝ち誇ったように踵を返し部屋に引っ込んだ。しばらくあとに、洗濯して干していたら、そのワンピースは跡形もなく消えていた。
コロナが流行しだして教室が閉鎖されるまで、メンバーが入れ替わり高齢化しながら減っていく中で、頑張って私だけが三十歳までレッスンを続けた。それなのにこの間、冷蔵庫の前でふと思ったのだ。冷蔵庫って英語でなんていうんだっけ? 五分近くそのまま考えたけどアルファベットの最初の一文字さえ出てこなくて、私は十年間一体何を習っていたのだろうと、自分のことが怖くなった。
「私の車でセックスしませんか?」
マッチングアプリからメッセージを送ると、大抵その提案は受け入れられた。
私は働いていないし、誘拐事件の示談金は母に管理されていて自由に使えるお金はほとんどないし、初対面の人とホテルに入るのも物騒だし、唯一の安らげる空間は、私の紺のボルボの中だけだった。防犯のため、フロントミラーの裏には剃刀の刃を、ダッシュボードの中には自家製催涙スプレーとゴキジェットをしのばせている。
待ち合わせの十分前には着くように家を出て、今はもう使われていない古い醤油工場まで車を走らせる。入り口を封鎖するボロボロのロープを外して中に入り、駐車場の真ん中に車を停めた。山のふもとにあるのに、窓を少し開けるといつも潮風の匂いがした。わざと危険な場所に身を置くことは、人生において必要なことだと思う。本でそんなことを読んだのかもしれない。誰だって刺激を求めているし、冒険しないと人は成長しないらしい。でも実際私は無職だし、母に監視されているから遠くへはいけない。こうして母の目を盗んで、時々男を誘うことくらいしかできない人生。
空が高く、時々小動物や鳥が枝を踏む乾いた音がする。
不真面目に生きていくということは、私にふさわしい気がした。私という人間の生き様として。だって私は──。あいつはどうだろう。あの日のことをどう受け止めているのだろうか。セックスするときに相手の女の顔を見て、それから十二歳の少女と過ごした日のことをふと思い出したりするのかな。念願だったんでしょ、人生で最高の七十時間だったんでしょう。
駐車場の隅で大きく深呼吸してサングラスをずらすと、私は相手の顔をよく見た。
二十代、やせ型、マクドナルドのマスタードソースの匂い、顎にほくろ。惣一朗、という名前だった。お惣菜の惣にイチローの一朗。フリーランスのエンジニアで、クラフトビールとキャンプとサウナとお笑いが好きだとプロフィールに書いてあり、共通点はただの一つもない。私は無職だし、ひらがなの名前だし、クラフトビールとキャンプとサウナとお笑いが特に嫌いなのだった。「ボルボ、渋いね」乗り込むなり、惣一朗は言った。
喪服と下着を脱ぎ、後部座席に放り投げると、惣一朗もそれにならった。ねえヘアジェルがつくから、あんまりそこに頭をつけないで。早口で注意する。それから私は滑らかに忙しく動き回りセックスをした。足と腰をうねらせ、相手の身体の下に潜り込む。男の体重が肩に重くのしかかり、それを逃がすためにシートを倒した。車体が大きく揺れると、その振動でお互いに興奮して呼吸がますます荒くなった。瞳の奥を覗き込みたくて、私は噛みつくように惣一朗の顔を掴む。この人の過去の過ちが知りたい。もしかしたらこの男が、WEEK&Co,かもしれないから。姿や形を変えて、また私のことをさらいに来たのかもしれない。あの時できなかったことを、今こうして。
「るうこちゃん、こんな狭いところでさ、よくそんなに動けるよね」
なんつーか活きのいい鯉のぼりみたいだったよ。惣一朗にそう言われて私はうなずく。
「鯉のぼりね、覚えとく。この間はパフォーマンス書道みたいだって言われたけどね」
うんざりしながら私は答える。彼はスマホでその言葉を検索して大きな声で「まじだわ」と笑ったので、びくっと肩を震わせてしまった。ダッシュボードに入っている催涙スプレーは、開けて二秒で発射できる。目をつぶって相手の目を狙えば、致命傷を負わせられる。手元が不安なら、ゴキジェットの方を使えばいい。
「長渕剛のパフォーマンス書道も見てみて、すごいから」
惣一朗はオケ、と文字を打ち、また爆笑した。あっはっは、親父が好きなんだよね、長渕。すげえな、こりゃ。私はうなずき、彼が動画を観終えるまでフロントガラスをじっと見ていた。
「るうこちゃんは、いつもこの駐車場に来るの?」
「個人情報は教えたくない」
「え? 個人情報? 男と会う場所って個人情報に当たるの? よくわからんね。穴場だと思っただけなんだけどさ」
「悪いことを考える人は、どんな些細な情報でも利用しようとするからね」
「まぁ確かに。アイドルの住所特定するやつとか、すごい執念だもんな」
アイドルの話なんかしてないんだけど。そう言うと、彼はごめんと謝った。
「別にいいよ。いつも場所は変えてる。ここに来たのは初めて」
嘘だった。私が私らしくいられる場所は、ここしか知らない。高く伸びた草に覆われた、コンクリートの地面もペンキの文字も野生化し荒れ果てたこの駐車場。
「惣一朗さん。言っとくけどあんたがここで私を何時間待ち伏せしても、タヌキとサルしか通らないからね。これは親切心で教えてあげてるだけだよ。害獣が好きなら別だけど」
「いや、俺だってそんなに暇じゃないし」
彼の顔を盗み見ると、笑った目の奥に小さくほんの少しだけWEEK&Co,がいる気がした。あいつが私の成長を、この男の身体を借りて監視しているのだろうか? それならもっとわかりやすいサインを送ってよ。一瞬だけ全力で念を送るが、太陽の白い光が車の中まで入り、寂しく揺れるだけだった。
頭から服をかぶり帰り支度を始めていると、「葬式帰りだったの? なんかエロいね」と言い、でこぼこ道を飛び跳ねる車みたいな動きで灰色のスウェットパンツを穿いた。私はがっかりして、ほんの少しだけ惣一朗に好意を抱いた自分を恥じ、こいつをこのまま黒いストッキングで締め殺してやろうかとため息をついた。惣一朗は私のことを、何ひとつとして理解できていなかった。脳みそは性欲以外まったく機能していない。ただの、そこらへんによくいる男なのだった。だってあいつなら、そんな興ざめな動きはしないはず。何が鯉のぼりだよ、もういやだ、何で私はこんな男とやってしまったんだろう。だんだん息ができなくなってきた気がする。死ぬかも。
私が喪服を着る理由その三、毎日死について考えているから。
鏡に映る自分を見るたびに自分自身に問う。死んだらどうなるんだろうって。死って自分にとっていいことなの? それとも悪いことなのかな? 全然わからない。何もかも終わらせたい時、どうしても答えにたどり着けない時、死にたいって思うのは幼稚な考えなのかな。小学生の図工の時間を思い出す。粘土で作った動物の足が全然うまくいかなくて、だけど一からやり直す時間もなくて、焦って頭の方から直したけど、土台が細いせいでぐらぐらして、直せば直すほど崩れて時間だけが過ぎていき、目に涙が滲んだ。それでやっと気づいた。これは最初からやり直さないと意味がないんだって。残り時間三分のところで体重をかけて上から潰して、全部なかったことにした。こんなものと向き合うよりは、作ってないですと言って怒られた方が全然ましだった。死について考えるとそんなことを思い出す。自分なんかいなくなった方が、この私自身がすっきりするんじゃないかな。どうせ、私一人死んだって誰も困ったりしない。お母さん以外はね。だからいま死んじゃってもいいんだけど、死ぬことは私の人生に残された最後のドラマチックなイベントだから、やっぱりまだ手元に残しておきたいんだ。
門限の五時までに帰ることはできなかったが、気まぐれな母に問い詰められることはなかった。母は一日中、家の離れにあるアトリエでリースを作っていたらしい。
「夢中になってたから、五時を過ぎてるなんてちっとも気づかなかったわ」
木造の狭いアトリエの中で、両手いっぱいに植物のリースを抱えた母は上機嫌でそう言い、気持ちよさそうに緑の中に顔をうずめた。
夢中だったの、いつの間にか、気づいたら。
母は、小さな女の子のような言い訳をよく使った。あの日もそうだった。五時になっても母が帰ってこないからアトリエを覗き、きっとまた街へ出かけたのだとひとり納得した。あれは六月の重たい湿気の中に、初夏のきらめきを感じる夕方だった。割ったトマトのような青い匂いがひんやりとして、名前も知らない白い虫たちが顔の周りを勢いよく飛んでいく。
「デパートでパパに頼まれたお中元の手配をして、修理に出していた腕時計を受け取って。それから店を出た時に、短大時代の友達にばったり会ったの。それからカフェで二人で話し込んでしまって、それで、それで……」
七十時間ぶりに再会した母は警官に肩を抱かれながら、嘘を声の中に押し込むような早口で、私の目を見てそう言って涙を流して許しを乞うた。久しぶりに化粧をしていない母の顔を見た。私はどうして母がそんなに泣いているのか理解できなかった。怒られるとばかり思っていたから。
「るうこちゃんって、誘拐犯に変なことされたの?」
母に命じられ二週間も学校を休むことになり、久しぶりに登校した日、全然仲良くなかったクラスメイトの女の子に行く手を阻まれそう聞かれた。家に漫画図書館があると吹聴していた子で、振り切ることもできたけど、私はとぼけてゆっくりと答えた。
「変なことって何? 例えば?」
「だから例えばさー、だからキスとか?」
自分はハニワの馬みたいな顔のくせに、クラスで一番かっこいい男の子に夢中で、宿題を忘れた理由として「恋愛以外興味ないので」と言い放ち、先生に怒られていたことを思い出した。ませていて、すぐに大声ではしゃぐから、うっとおしいとずっと思っていた。その日の私は久しぶりの学校だからと言って、母が気合いを入れて髪をお姫様みたいな縦巻きロールにしてくれていて、教室に入るとみんながかわいいと言ってくれた。その髪の毛を指でくるくる引っ張りながらこう私は答えた。
「キスねえ。秘密。だって何があったか、誰にも言っちゃだめだって。警察の人にもそう言われてるから」
「ええ!? じゃあキスだけじゃないってこと? いやらしいこと、いっぱいされたりした?」
クラスメイトの瞳が光る。
「だから秘密だってば。言っちゃだめなんだもん」
もったいぶって答えると、とても気持ちがよかった。この子にはない秘密が、私にあるのだということが。
「お願いお願いお願い一生のお願い。何があったか教えて。いや、教えてください」
クラスメイトは私の前で両手を広げそれから頭を深く下げると、大きな土下座をした。
〈お久しぶりです。
今度はパフォーマンス書道じゃなくて(笑)食事でもしながらゆっくり話しませんか? 鹿泉山の近くにブルワリーができて、そこクラフトビールも飲めるらしいっす〉
あれから四日後の夕方に惣一朗から連絡が来て、私は絶句した。クラフトビール? ふざけるな。いらいらして、ダイニングテーブルの椅子を引き、座ったり立ったりを繰り返した。天井に近い窓から夕陽の長い影が入るのを久しぶりに見た。母はまだ、アトリエにいるに違いない。私は男にメールを送る。
〈私のことが好きですか?〉
夕陽が小さくゆっくりと沈んでいくのを凝視した。
〈え。直球だな
でも、この間会っておもろいなって〉
〈へー。そうですか〉
〈なので、もっと会ってゆっくり話せたらと思って〉
〈私、十二歳の頃に誘拐されたんですよね〉
やっと椅子に座ってテーブルにスマホを置き、そろばんの大会のような速さで、私は文字を打ち込む。少し時間が経って、〈いろんな経験してるんですね……〉と返ってきた。
〈だから、一方的にデートプランを考えられたり、気安く過去の発言を引用されたりするの、すごく怖いんですよ。どうしてかわかります?〉
ラリーが遅くなる。〈どうしてか、わかります?〉 追い打ちをかけるようにもう一度メッセージを送る。口の端が怒りで震えているのがわかる。温かいお茶でも飲みたい。私が何をしたっていうの? 惣一朗。早く返事をしてよ、さっきまでの前のめりな態度はどうしたの?
〈あの、なんか無神経ですみませんでした〉
夜に返信がきた。彼に送ったメールや会話。与えた情報のすべてが惜しくなった。あんなやつに、何ひとつ打ち明けちゃいけなかったんだ。だってこうして私を避けたから。私のルーツに理解を示さず、返信の文字の一つ一つに嫌悪感を漂わせてきた。さようなら。あんたなんか、私の相手はかなわないんだから。