遠くへ行くのに、地図はいらない
真夜中だった。瞳孔が開き、不気味にきらきらと輝く目をした母が、満先生の家の玄関を何度も叩いて「殺される!」と叫んだ。殺される! 殺される! 殺される!!! それで、満先生が警察と救急車を呼んでくれた。たくさんの人が来て、そんな騒動の時、私は何をしていたかって? ぐっすり眠っていた。妊娠お祝いパーティでたくさんの人に会って、世界一周旅行をしたくらいに疲れたから。砂埃にまみれた軽食も、子供のうるさい声も、取り合ってくれないニシダのことも、私の神経を随分とすり減らしてしまった。救急隊員に激しくチャイムを鳴らされてやっと目を覚ますと、母が担架に縛り付けられて、運ばれていくところだった。驚いて近寄り、まず目に飛び込んできたのは、汗びっしょりで白目を剥き、泡を噴いていた母だった。パジャマの胸元が開いていて、右側のしぼんだ胸が少しだけ見えた。あ、もうだめだ、お母さんは死んでしまうんだ。そう観念すると腰が抜けてしまった。印鑑、お財布、保険証、鍵……。地面に手をついてそう呟いていると、救急隊員に抱きかかえられ、私も救急車に乗せられた。死ねばいいとは思っていましたが、こんなふうに苦しんでもらいたいわけじゃないです。わかってください。両手を合わせて祈っているうちに、救急病院に着いた。お母さんはもう助からない気がする。お葬式には誰を呼べばいいんだろう。父親にも連絡したほうがいいのかな。いや、きっとお母さんは嫌がるに決まってる。だけど嫌がっている人はもう死んでいるんだから、それを私が聞き入れることはできないし。そんなことを悶々と考えながら、廊下の椅子に座り待っていると、医師に呼ばれ、二ヶ月ほど入院が必要ですね、と言われた。え、死なないんですか? と思わず聞いてしまった。だってあんなにグロテスクな発作を起こしたのに。それでたったの二ヶ月で治るなんて、人間の身体は強いんだなと感心してしまった。
「叫んで、暴れて、追い詰められた猫みたいな顔をしてうちの玄関のドアを叩いて壊して。こっちが殺されると思いました。あの時は」
テレビの取材では、満先生はいつものバスローブではなく山吹色の粋な着物を着て、黒い手袋にベレー帽までかぶって、取材陣の前で淡々と語った。私はそれを、警察署の受付にあるテレビで見た。画面の中で見ると満先生は気品が漂っていて、カメラをまっすぐ見据えて堂々と喋っているから、やっぱりこの人は、すごい人なんだなと思った。
「世間しらずのお嬢さんが、都会から来た若い男に引っかかって、男と共謀して母親を殺そうとしたんでしょう? 罪深い事件だこと」
満先生がそう言うと、マイクを差し出した若い女の記者が神妙に頷いた。もっと非難されるかと覚悟を決めたけど、そこで映像は切り替わり、次は、行列のできる天然酵母のパン屋の情報ですと、アナウンサーが笑顔で伝えた。限定十五個のムチムチした釜焼きベーグルを買って帰ろう。そう思ってメモ代わりにテレビにスマホを向けて立ち上がると、受付の警察官に睨まれた。そういうことじゃないんです。あれは満先生の誤解で、私はただ警察官に、あの日のことを弁解しようとしたけど、そういうシナリオも悪くないと思い直した。男と共謀して母を殺そうとした女。そう思われた方がやりやすいことだってあるんじゃない? 危険な女、何をするかわからない女。だからみんなが道を開けてくれる。
ほんの少しの間だけど、母のいない暮らしは快適だった。広い屋敷で、好きな時間にご飯を食べて眠る。皿洗いも洗濯ものもどんどん溜まっていったが、気にしなかった。母がせっせとゴミ箱に捨てていた色とりどりの服を引っ張り出して着てみると、なんだかやっと自分の人生が始まったような、そんな明るい気持ちになった。鏡の前で、バブル時代の巨大なイヤリングやネックレスをつけて、自分の顔を観察して、もっとやりようがあるのではないかとあれこれ組み合わせているだけで、一日があっという間に終わった。よく考えたら、こんなに広い屋敷で暮らしているのだから、いちいち片付けたり掃除したりする必要なんかなかったのだ。やりたいことはたくさんあった。働いて、いろんな人と話して、自分のお金で好きなものを買って暮らしたい。切実に思い描いていた夢だった。だけど実際、そうできる時が来ても私はここにいて、ただなんとなく時間だけが過ぎていくだけだった。檻の中で思い描いていた夢は、眠ったときに見る夢と何も変わりがない。私はまた鏡の前に立ち、自分を目一杯着飾って、いつかここから出たいと願うだけなのだ。
母は一時期、時の人となった。退院して家に帰ると、片っ端からテレビ局に電話して自分を売り込み、夕方のローカル情報番組に出演できることになった。
「まさかあれが違法薬物くらい危険なものだなんて、夢にも思いませんでした。私はただ、一日中天国にいて、ビリーズブートキャンプをしていたんです。虹色のマシュマロでできたキラキラした空間で、壁が天井になったり、天井が壁になったりして。目は回るんだけど、別に気持ちが悪いってわけではないんです。ビリー隊長が喋るたびに音が響いて、まるで大きなクマの遠吠えを聞いてるみたいな感じね。それで気持ちよくなってうっとりするんです」
堂々と幻覚症状について語れるキャラがウケたのか、母はその後、十本近く、YouTubeやPodcastに出演した。犯罪をテーマにした番組から、ヒップホップのインタビュー番組まで。母はとにかくしゃべりまくった。美容詐欺の被害者として、幻覚幻聴や後遺症について、それからバブル期のミスコン事情について。数千円の謝礼と、番組オリジナルグッズを持ち帰る母は、今まで見たことないくらいに嬉しそうだった。母でなければ今頃どうなっていたのだろう。あのまま泡を噴いて死んでいたかもしれないし、体調を崩したまま落ち込んで、家から出られなくなっていたかもしれない。母が、あの件で私のことを一度も責めたりしなかったのが意外だった。
退院の日に車に乗ると、後ろの席に置いていたお祝いの花束を見て、ふん、と言っただけで、いつものようにスーパーに行きたいだの、花屋に行きたいだの言った。その顔がふっくらしていて、安心した。規則正しい食生活と環境のおかげで、毒が抜けたような穏やかな顔をしている。母は、ニシダのこともダイエットピルのことも聞いてこなかった。あれくらいの大事件でも起きないと、人生は変えられない。テレビに出られたのも、私がそのきっかけを作ってあげたのだから結果オーライで、わざわざ謝る必要もないように思えた。
母は、入院中から構想を練っていたのだと言って、りさ子と同じサイトでブログを立ち上げた。「覚せい剤で人生大逆転」というタイトルで、生い立ちから現在までを書くつもりらしい。私が図書館に行こうが、門限を過ぎて帰宅しようがおかまいなしで、老眼鏡をかけて眉間に皺を寄せながら、コーヒー片手にひたすら文字を打ちまくっていた。体重は戻ってきて、しばらくするとブログの運営会社から、ブログのタイトルを変えるようにと注意を受けたようで、いくつか出した中から私の案が通り、「美魔女ブートキャンプ」に変えた。
私が帰宅すると腕を強く引っ張られ、アトリエに連行された。どうしたの? どうしたもこうしたもないわよ。これを見て。
「おげんきですか?
六本木で踊った日が昨日のことみたいに思えます。
くれぐれも体には気をつけて、お互い長生きしようネ」
ブログのコメント欄には、なんとりさ子からのメッセージがあった。嬉しくて母は泣いていた。よかったね、と言うと、声も出さずにうんうんと頷いた。母は本当にりさ子と知り合いだったんだ。私も感激して、もらい泣きしそうになった。六本木の夜の話は、作り話なんかじゃなかったんだ。嘘じゃないことに驚いて、私も嬉しくなった。そして、母は、徹夜でアトリエにある材料だけで急いでリースを作ると、速達でりさ子の事務所に送った。
ニシダはあの日、私が病院から電話をかけて状況を知ると、すぐに駅前のビジネスホテルに逃げ隠れたらしい。だけど、それからたったの五時間で捕まった。警察が踏み込んだ時、ユニットバスのカーテンレールにネクタイを引っ掛けて、首をくくって死のうとしたところを、捜査員二人がかりで押さえ込まれたらしい。シングルルームの部屋中に、鹿泉山の水が入ったポリタンクが並べられていた。そんなに慌てて逃げることなかったのに。だって私たちは本当に知らなかったんだから、堂々としていればよかったんだよ。確かに、りさ子の写真を使って画像編集アプリで勝手にダイエットサプリの広告を作ったのは、詐欺行為だと警察からしつこく言われたけど、母にわかりやすく説明するために作った、お手製のプレゼン資料というだけ。そういうことは過去に何度もしてきた。話の通じない人を説得するのって、すごく大変なんですよ? そう言って私は無実を証明しようとした。
それにしても母が毎日飲んでいたあのサプリに覚醒剤が入っていたなんて、大仰天した。覚醒剤なんてヤクザの世界か映画の世界にしか存在しないもので、一般市民からしたらファンタジーなアイテムだったから。知らなかった以上は反省のしようがない。謝るって誰に謝ればいいの? 母に謝るの? だって私、知らなかったんですよ、本当に。
そうやって主張を崩さなかったら警察も弁護士も終始呆れて、時々怒ってもいた。だけど私は別に、薬物を飲ませて母を殺そうだなんて思ったことは一度もない。そんなことを思いつくほど私の人生の中で、薬物は市民権を得ていない。綺麗になりたいっていうから、知人を介してサプリを紹介しただけです。強情なやつだと言われても、それ以外に説明のしようがなかった。
それで、ニシダとはいったい何者だったのか?
毎日鹿泉山に水汲みに行き、車に乗っている間に少しだけいろいろな話をしたけれど、ニシダの下の名前も年齢も、どこで生まれてどんな学校に通っていたのかも、なに一つ知らなかった。それは二人にとってべつに重要なことじゃない。あの時間は私にとって必要だったから。私たちは理解しあっていた。それなのに私と母のせいで、大変なことに巻き込んでしまってごめんね。会って、そう謝りたかった。
私はニシダのことが心配で、勾留中は毎日警察に行った。受付で十何回目かの門前払いをされたあと、ロビーからトイレに続く暗い廊下を歩いていると、待ち構えていたように立っている男に、突然声をかけられた。
「あいつは不起訴になったよ」
よく見ると見覚えのある男だった。マッチングアプリで知り合った男、彼はお惣菜の惣にイチローの……。
「喪服やめたんだね。そっちの方が似合ってる」
桜色のワンピースを指さして、彼は言った。
「どうしてここにいるの?」
それ以上声が出ず、頭の中で彼の自己紹介画面を思い出していた。
「あんたは何かのエンジニアだって、フリーランスで自宅で働いてるって、プロフィールにも書いてたし、私の車の中でもそう言ってたよ」
「ごめん、あれは嘘」
「嘘? どうして嘘なんかつくの?」
私は激しく動揺する。落とし穴に気づかなかった自分のバカさに絶句する。アプリのプロフィールに嘘を書くような人間が警察官? そんなことがあっていいのだろうか。
「警察官って書くとさ、身バレしちゃうかなと思って」
「身バレ? 素性がバレて、何か困ることでもあるの?」
「そうじゃないけど、警察って縦社会だし部活のノリみたいなところもあるからさ。マチアプなんかやって、先輩に色々いじられたりするのが面倒なんだよ」
ほら、と手際よく警察手帳を見せてきたけど、私は目を背けた。暗い廊下の壁には、覚醒剤や飲酒運転の、一昔前の色褪せた啓発ポスターが貼ってあった。「断る勇気」と黄色い文字で強く書かれている。午後の光が壁沿いに細く差し込んで、行ったことのない、テレビか映画で見ただけの、ヨーロッパの美術館を思い出した。
「ごめん。でも俺、職業以外は嘘ついてないから。それに経歴もさ、よく考えてみなよ。別に、よく見せようとして盛ったわけじゃないじゃん?」
「他にどんな嘘をついてるのか、私はわからない。あんたのことを調べようがないし、人を騙すような人とは喋りたくない」
惣一朗は、困った顔をした。
「嘘ついたお詫びに、知ってること教えてあげるからさ」
少しでもいいからニシダの情報が欲しかったし、もし、ここで何か事件があっても、大声を出せばそのときは本物の警官が駆けつけてくれる。私たちは廊下の小さなソファに座った。
「てかさ、あいつとLINE交換とかしてないの?」
「LINE送っても既読にならない。ブロックされてるのかも」
「そっか。それもあり得るかもね。今はそっとしておいて欲しいんじゃないの?」
「そんなわけない。向こうは今こそ、私を必要としてる。会って今の気持ちを聞きたい。どうしてそれが叶わないんだろう」
「まあ落ち着きなって」
今だからいうけどさ、あんたちょっと面倒くさい女だよ。惣一朗が苦笑しながら言った。彼の、先がボロボロになった革靴を見た。
「面倒くさい?」
「そう、付き合ったら束縛したり依存してきそうっていうかさ、重たい女の典型的な」
「ちょっと。勝手に私と付き合うことを妄想しないでもらえる? そんな未来は存在しないからね」
「はいはい」
惣一朗は笑った。笑顔が爽やかで人懐っこくて、賢い警察犬みたい。あの日、駐車場に来た時も、警官の制服を着てきてくれたらよかったのに。そしたらセックスはもっと楽しかった。いや違う、私と惣一朗の間に、そんな未来も過去も存在しない。
「あいつさ、すごく反省してたよ。『心を入れ替えて真面目に生きます』って、涙を流して誰彼構わず、土下座して謝ってたらしくてさ、面白がって俺らも覗きに行ったりして」
「かわいそうに」
「そう? 俺は信じないけどね。そんなのはパフォーマンスでしかないからさ。真面目に生きるってのは、日々の小さな積み重ねなんだよ。改心したことを周囲に理解してもらうには、時間がかかる。土下座しときゃ許されると思ってること自体が、甘えた考えなの。反省してない証拠でしょ」
私が黙っていると惣一朗が立ち上がってどこかへ行った。戻ってきて、おごり、と、紙コップを差し出された。薄くて甘すぎる紙コップのコーヒー。表面には脂が浮いている。それでも私はお礼を言った。
「小悪党ってのはさ、しょっちゅう居場所を変えるから、あんまり心配しなくてもいいんじゃない?」
「ここよりも、もっと綺麗な水がたくさんある土地に行ったのかもしれない」
「なんだよそれ」
「わからないけど、そんな気がする」
「まあ不起訴じゃ、その後のことはわからないよな」
可能WEEK&Co,もそうだった。見つけたのに、逃がす。それじゃあ、なかったことと同じじゃないの。関わった人に対して、何か言うことはないの? 残されたほうの気持ちはどうなるっていうの。
「まだ好きなんだろ。あの詐欺師の手下みたいなニシダのことがさ」
惣一朗が言った。
「そんなんじゃない。好きとか嫌いとかじゃないよ。そんな簡単な話じゃない。私たちは一緒にいないといけないっていうだけ。あんたみたいな最低野郎とは全然違う。ニシダは私の話を聞いてくれたし、私を守ってくれたし、計画とか秘密を打ち明けてくれたんだよ」
「待ってよ。俺って君の中では、そんなに悪いやつなの?」
「うん。あんたは悪いやつだし、私にとってはどうでもいい人間だよ」
惣一朗が呆れた顔をして、コーヒーを啜った。何を言っても伝わらないのに、正直な気持ちを口にすれば傷つけてしまう。どうしていいかわからず、私はため息をついた。毎朝給水車で水を汲みに行った時の、ニシダの隣に座った時のあの優しい高揚感とか、ずっとこの時間が続けばいいと思ったあのときめきを、どうやってこの人に伝えればいいのだろう。
背の低い年寄りの警官が、書類を両手に抱えて私たちの前を通り、惣一朗が軽く頭を下げた。靴音が長く聞こえた。
「ニシダはね、いろんなことを私に教えてくれたんだよ。近い将来、水戦争が起きるんだって。その時に備えて二人で行動してる時、すごく、なんていうか幸せだったんだ。わかる? 未来があるってことを、ニシダは教えてくれた」
「いや、わかんない。バカじゃん。滑稽だよ。爆弾に竹槍で応戦しようとしてる昔の日本人と何も変わらないって」
「バカにするならそれでも全然いいよ。むしろ、せいせいした。私とニシダの関係が、あんたみたいな、軽薄な嘘つき男に理解されなくてよかったって思う。ニシダよりもあんたの方が遥かに嘘つきなのに、どうして捕まらないの? もし私とあんたが結婚してたら、あんたは経歴詐称の結婚詐欺師になるとこだったんじゃないの?」
あーもう、ごめんって。惣一朗が謝った。俺ってさ、なんかいつも女の人と会話が噛み合わないんだよな、とつぶやく。
「あんたは人生が変わっちゃうくらいの人に、会ったことはないの?」
「なんだよ、それ。そんなドラマみたいなこと、普通なかなかないでしょ。子供の頃に誘拐されたり、大人になってもこんな事件に巻き込まれたりして、あんたも大変な人生だと思うけどさ、相手のことをとことん信じちゃうその感じがさ、危ないドラマを生み出してるんじゃないの」
まあほんの少しだけ、そういう人間のことが羨ましい気もするけどね。惣一朗が私の肩を優しく叩いた。
警察署を出ると、飛行機の音がした。空を見上げたけど、目が眩んだだけで飛行機は見えなかった。ニシダのことがもっと知りたい。今、どこにいて、これからどこに行くのか。私も一緒に行ければいいと思うんだけど。
クイーンビューティートーキョーのビルの周りは、黄色いテープが張られていたけど、誰もそれを剥がさないまま忘れられ、この街らしく風化していった。私は、ポリタンクに入っていた水で、ビルの周りにある植物に水をやった。もしかしたら、ニシダがこのビルに隠れているかもしれない。私は入り口の施錠されていない窓から中に入り、部屋の隅から隅まで探した。ニシダが小さな男の子になって、柱時計の下に隠れている子ヤギみたいに、小さく震えているかも。ニシダ、いる? と小さな声で名前を呼んでも、返事は返ってこない。昔はこの部屋の確かこの辺りで、みんなで正座をして、センセイの話を聞いていた。ラベリングをしてもらうと頭が良くなったり、心が軽くなると言ってみんなありがたがっていたし、私だってもちろん信じていた。ニシダのデスクの中で見つけた、蛍光色の付箋を、デスクの端から端まで貼っていく。慌てて私物を持ち出したのか、空っぽのファイルやパソコンのマウスだけが残っていて、私はその上にも付箋を貼った。風が吹いて、蛍光ピンクの付箋が舞い上がって足元に落ちる。ラベリングって一体、何だったんだろう。勉強会では、みんなが理解したような顔で聞いていたけど。なんだかおかしくなってくる。あんなものを真面目に信じていた子供の自分に。ははは、と笑ってみると、それが正解だとでもいうように、また風が強く長く吹いた。
母はブログに取り憑かれていて、私がいなくても平気そうだし、もういっそのこと、ここに住んでしまおうか。ここがいつか森になればいい。植物がビルを覆い、外からは何も見えないくらいに隠れてしまえばいいのに。ビルの外に出て、あたりを見渡す。もうすでにここまでは長い草で覆われ道がなくなっている。葉がきらめく。虫が鳴く。明るいところと暗いところの差がはっきりしていて、気持ちがいい。このまま私も自然に還りたいと思った。誰にも気づかれることなく、蔦が絡まり風化して色彩を失うように、ひっそりと生きていきたい。考えること、思い出したいことはいくらでもある。そんな記憶だけを養分にして存在する、悲しい幽霊になりたい。
森と海の違いって何? 頭の中に大きく言葉が浮かんで響き渡った。
息ができるかできないか。
ニシダの声で、たしかにそう聞こえた。
可能WEEK&Co,と一緒に過ごしたのは七十時間。あずさで東京に向かい、東京タワーを見に行った。お腹は減ってなかったけど、ジョナサンに行ってオムライスを食べた。明るい店内に、おしゃれな若者たちが楽しそうに喋っている席を見て、私はときめいた。ゆきすかぐらでは、「レストランで出てくる卵料理は、すべて偽物の卵を使っている」と教わっていたのに、そんなのいいから食べてみなよ、と笑いながら彼が言った。
「勉強会の内容なんかさ、鵜呑みにしない方がいいよ」
「どうして?」
「あそこで教えてることは、なんていうか極端なんだよね。俺はほとんどが嘘だと思ってる」
「そうかな? 私、ゆきすかぐらの教えのおかげで全然風邪ひかなくなったし、ラベリングのおかげで頭も良くなった気がする」
「じゃあ、偽物の卵って何でできてるか、知ってる?」
「石油と黄色い着色料」
「そんなもん食ったら、即死じゃん」
「まあそうかも」
パフェとかもあるけど? うん。食べたい。メニューを見ずに私は答えた。
「私もセンセイみたいな魔法使いになりたいんだ。自分でなんでもできる人。オカシラ様のパワーをもらって、もっと植物のこととか、病気のこととか、勉強したい」
そう言うと彼は小さくため息をついて、笑った。
「もっと大きくなったら、センセイがおかしな人間だってことがわかるよ。るうこちゃんはまだ子供だからわかんないだろうけど。本当に医学の知識を持ってたら、医者になれるはずでしょ? だけどセンセイは田舎の小さな村で年寄り集めて、胡散臭い講義をして金取ってるだけじゃない」
「どうして、センセイのことを悪く言うの?」
「どうしてかって? だって俺のことを馬鹿にするんだもん。舐めてるんだよ。期待通りの人間にならなかったからって見下してさ、今でも愚痴ばっか言ってくるしな。もういい加減、諦めてほしいよ」
「大学のこと? いつもセンセイが言ってるよね」
「そう。あんなこと、全部忘れていいからね。視野の狭い人間が、適当なこと言ってるだけで」
「私は気にしないよ」
「ありがとう。アニメだって、大人の男が見たって別におかしなことじゃないだろ? それを精神的な病気だって言ったりして、思い込みが激しいんだよな。俺は気にしてないけどさ、だけどやっぱり腹は立つんだわ」
るうこちゃんは、あれに似てるよね。小声の早口でアニメの登場人物の名を言われたけど、初めて聞く名前で聞き取れなかった。その瞬間、センセイと同じように彼のことを内心で馬鹿にした。子供っぽくて不潔で、添加物まみれの食べ物ばかり食べているから、ニキビばっかりで太っているんだ。それにアニメばっかり見ているせいで、脳みそも電磁波で乱れているに違いない。センセイの言うことをちゃんと聞かないから、ダメなんだよ。本当に子供なんだから。私は、ふふんと小さく笑った。店員がパフェを運んできた。真っ赤なチェリーがてっぺんにあり、チョコレートソースが下まで流れている大きなパフェ。店員が私の顔を見て、「まあ、かわいいお嬢さんですね。さあどうぞ」と言ってくれた。
「お母さんに電話しなくていいの?」
分け合っていた一つのパフェをスプーンでつつきながら、彼が言った。私が笑っているのを見て、彼も笑った。
「大丈夫だよ、誰も心配してないから」
「俺と一緒にいることは、言ってあるんだよね? それで、よく許してくれたな」
本当は彼と東京に行くことを、誰にも言わなかった。別に大したことだと思っていなかった。これまでも、親に内緒でしたことはたくさんあったし、それがバレたこともなかった。本屋さんで漫画を盗んだり、友達の靴を隠したり。誰にも気づかれないで、ひとりで悪いことをするのは得意だった。
「お母さんもお父さんも、あんまり家にいたくないみたいだから。いつも用事を作って、どこかに出掛けていくしね」
「そうなんだ。こんなにかわいい娘がいるのに、家族は誰も興味がないのかな」
「うん」
「じゃあ、るうこちゃんは今、俺と一緒にいたい感じ?」
「うん、まあそうかな」
私は、彼が言って欲しい答えを選んでいる気がした。本当はそうじゃない、もっといろいろ聞いてくれないと、続きが話せない。それなのに決めつけられて、私は黙るしかなかった。どろどろになったパフェを見て、笑顔のままで目を伏せた。
「俺が子供の時はさ、よく知らない人と東京に行くなんて絶対に許されなかったけどね。厳しい家庭だったから。ましてや男だよ、俺。うちってすげー過保護だったんだよな。まあ、そうやって育てられた結果がこれなんだけど」
彼が自虐的に笑った。自分の話にすり替えられて、私はきゅうに嫌な気持ちがした。
「あんたって変なやつ。男のくせに弱虫で、いつも心配ばっかりしてる」
私と二人きりで東京に行けて、嬉しいんじゃないの? かわいい少女を連れて、みんなに見せびらかしたいんじゃないの? そう聞きたかったけど、口にはできなかった。東京に行きたいって言ったら、行こうかってすぐに願いを叶えてくれたのに、この人はそれでもう満足みたい。もっと二人でいろんなことをするんじゃないの? 大人のくせに、その先のことは何も考えてないの? 彼と一緒に東京に出てきたことが、少しだけ不安になった。
「食ったら、本屋に行こうぜ」
「本屋なんかに行きたいの?」
「東京の本屋はすごいんだよ。地元じゃ、なかなか手に入らない漫画がいっぱい売ってる」
勝手に行き先を決められて、がっかりした。原宿とかディズニーランドに行ってみたかった。キーホルダーやペンをたくさん買って、学校や、ゆきすかぐらに持っていきたいと思っていたのに。膨れっ面でため息をつくと、「かっわいい」と、彼がふざけて頬をつついてきた。
店を出て山手線のホームに並んで立っていると、女子高生のグループが私をチラチラと見ては、「かわいい」と口々に言った。彼の方が真っ赤になってうつむいているのを見上げて、もう早く帰りたいと思った。夕日が彼の頭の上を長く差していた。だけど帰ったらまた、退屈で息苦しい毎日に戻ってしまう。家の中では、いつも誰かが誰かを攻撃していて、広い屋敷に住んでいるのに、どこにも逃げ場がない。屋敷の窓から見える、襲い掛かってきそうなほど大きな夕焼けを思い出して、小さく震えた。
帰りたくないと言い張って、私たちはビジネスホテルに泊まることになった。しどろもどろで、フロントで部屋を取ろうとする彼の横で、勝った、と私はほくそ笑んだ。
「妹で、あ、間違えた。姪っ子で」
フロントの男からは特に問い質されないまま、彼は鍵を受け取った。
「夕飯は、どこで食べるの?」
そう聞くと、え、もう金ないよ。と返された。じゃあどうするの? そう聞いたけど無視された。彼はダブルベッドで横になり、壁に背を向けて黙ったままで、眠ったようだった。テレビをつけてバスルームに入り、水道の水をグラスに入れて飲んだ。土と金属の匂いがして、慌てて全部吐き出す。匂いがする水なんて、水じゃない。東京の水は、悪い水なんだ。彼に伝えようと大声で「ねえ、こっちに来て。大変なことがあったよ」と叫んだが、返事はなかった。
彼が起きるまで一時間くらい窓の外にある灰色のビルを見て待っていたけど、しびれを切らして枕でばしばし彼を叩いて起こした。「お腹減った」そう言うと彼はムッとした顔で目を開けて、え、君、金持ってるでしょ? と言って、また私に背を向けた。
「お金、そんなに持ってきてない」
「嘘だぁ。金持ちだろ、君んち。俺知ってるよ。金があれば何か買ってきてやるよ」
リュックサックの中から財布を出すと、三千円入っていたから、彼に渡した。
「じゃあ、コンビニで何か買ってきてやるわ」
そう言われて、ホテルの部屋で一人きりにされた。時計を見ると、彼が出て行ってからもう二時間が経とうとしている。心臓がドキドキしてテレビをつけると、お笑い芸人がたくさん出て、騒いでいた。そのうちの一人の男が何か言うたびに激しい笑いに包まれて周りから叩かれていた。あの人がここに来て助けに来てくれたらいいのに。すごくバカっぽく見えるけど、本当は世界を救うヒーローなのかもしれない。みんな彼から目が離せなくて、彼が何か言うたびに、みんながあんなに笑い転げるんだから、絶対に悪い人じゃない。私を見て、私に気づいて。テレビに向かってそう念力を送る。
午前〇時、このまま、あいつが帰ってこなかったらどうしよう。一度フロントまで降りてみようか。そう思いながらテレビを消すといっきに静寂が襲ってきた。絨毯の模様が浮かび上がるほどの静けさだった。怖くて立ち上がることもできない。目に涙が滲んできた頃に、彼が帰ってきた。ベーコンサンドイッチと、リンゴジュース。ベッドの上に放り出されたものを見て、ショックを受ける。体に悪いから絶対に食べちゃいけないと言われていた、白い食パンに、冷たい加工食品。だけど、私は黙って泣きながらそれを食べた。
「心配してるんじゃないの? 親とか」
彼がそう言ったけど、私は無視した。
「あのさ、俺の話、聞こえてる? 本当に俺と東京に行くって親に言ったの? 泊まりとかさ、想定外なんだけど」
「なんであんたは大人なのに、何もしてくれないの? どこに行ってたの? 映画を観たり、ゲームセンターに行ったり、そういうところに連れて行ってほしい」
「無理無理。まだそんなこと言ってんの? 行きたいなら勝手に行けばいいだろ」
「もうお金がないよ。あんたに全部渡したから」
「じゃあ、もうおしまいだよ」
ダブルベッドの端と端で背を向けて眠った。こんなことになってしまったけど、オカシラ様が私たちのことを守ってくれるはずだった。センセイの教えは破ってしまったけど、私たちのそばにはいつもオカシラ様がいる。目が覚めたらきっと全部仕切り直して、楽しい東京旅行になっているはず。明日になればきっと。
途中で暗闇の中で天井をじっと見つめていると、彼のいびきが、規則正しく聞こえた。