最初から読む

 

「そういえば、旦那さんのお名前ってなんていうの?」

 櫻が中トロを頬張りながら尋ねる。洋子は口の中のイカをゆっくりと咀嚼すると、ごくりと飲み込み、ぬるくなった味噌汁を一口含んで言った。

「カズマ」

「カズマさんか。カズマさんとは普段どうやって過ごしてたの?」

 洋子がもう一度茶碗に口をつける。そしてこめかみに指を押し当てると、ふうと小さく息を吐いた。

「どうやって過ごしていたのかしらね。よく思い出せなくて。死ぬ直前まで飲み歩いてて、全然会話もしなかったから」

「昔は?」

「昔は……そうね。よく一緒に散歩とかしてた。お店だったり道端の花だったりを見ながら、どうでもいいことをぽつぽつ話したりしてた」

「散歩! いいねー。今から行こうよ!」

「えっ。い、一緒に?」

 思わず洋子は言い淀む。自分が若い男と歩いている姿を想像する。着飾らず化粧をほとんどしていない還暦過ぎの女と、若くて美しい青年。自分に子供などいないことは、近所には周知の事実だ。きっと奇異の目で見られるに違いない。

 黙り込んでしまった洋子に、櫻がへらっと笑みを浮かべる。

「まあでも、今日はやめとこっか! おうちデートにしよー」

 きっと櫻は、その沈黙の意味をすぐに悟ったのだろう。洋子は自らを恥じる。この年齢になっても、世間からの目というのは畏怖の対象だ。歳を重ねればきっと周りなど気にならなくなる強さを持てると思っていたのに、それどころかどんどんと脆くなっていっている気がしていた。

「洋子さんは、日中とか普段何してるの?」

「大体夕方か夜まで仕事ね。近くのお弁当屋さんで働いてる」

「へー、そうなんだ。ずっとその仕事?」

「いえ、去年までは会社員だったの。経理の仕事してた」

 乾き気味の寿司をつまみながら、二人はぽつぽつと話す。けれどその雨垂れのような会話に挟まる静寂はだんだんと長くなり、話題をどうにか探そうとする櫻の表情が、洋子には心苦しかった。

 何度目かの静寂が訪れて、洋子は立ち上がった。櫻が長い睫毛越しに見上げてくる。

「ちょっと、お手洗いに。テレビでも見て待ってて」

 テレビの電源を点け、そのまま部屋を出て後ろ手で襖を閉める。思わず長い溜息が出た。

 そのままトイレへは行かず、階段の電気を点け、二階へ上がる。ふと、櫻を一人部屋に残して大丈夫だろうかという疑心がよぎったが、貴重品類は全て鍵のかかった部屋に入っているし問題ないだろう、と止めた足をまた動かす。

 薄暗い廊下を抜け、洋子はドアを開ける。電気を点けると、慣れ親しんだ部屋が橙の光で照らされた。

 ベージュのカーテン、グレーのラグマット。押し入れの中には布団と洋服と、あとは何が入っているのか自分でも分からない。本棚の中には雑誌や写真集、DVDがずらりと並んでいる。ここは、洋子が生まれてからずっと住んでいる家だ。

 幼い頃からほとんど変わらないその景色を、洋子は壁にもたれながらぼんやりと眺める。櫻に払った代金は、当然安い額ではない。退職金がまだ残っているとはいえ、細々とパートをしているだけの洋子にとっては手痛い金額だ。ただでさえ、毎月の出費は多いというのに。

 にもかかわらず、今自分はその金で買った男を放置して、自室に籠っている。洋子は自らの情けなさに両手で顔を覆う。

 洋子は幼い頃から他人と話すことが苦手だった。特に、異性相手だと緊張が生まれその傾向は顕著になった。相手を楽しませることができない。気の利いたことが言えない。年齢を重ねるごとにぶよぶよとした脂肪のような自尊心がまとわりついて、物言いは傲岸になり、更に周りの人を遠ざける。六十年以上も生きているのに、ちっとも生きることがうまくならない。

 どれくらいぼんやりとしていただろう。さすがに、これ以上櫻を放っておくわけにもいかない。自分を奮い立たせ、洋子は立ち上がる。電気を消して階段を降り、居間の襖を開けた。

 櫻はテレビを見ていた。頬杖をつき、画面をじっと眺めている。洋子はついその横顔に見惚れる。

 本当に綺麗な顔立ちだ。どうしてこんな仕事をしているのだろうと、やはり思ってしまう。見目麗しく健康体で人懐っこい性格。老人相手に体を売ったりなどしなくても、充分に食っていけそうだ。

 白い頬に落ちた睫毛の影を見つめていると、気配を感じたのか櫻がこちらを向いた。慌てて視線を落とす。「おかえりー」と櫻の能天気な声が聞こえてきた。曖昧に頷き返して、座布団の上に腰を下ろす。テレビではバラエティ番組が流れていた。

「あ、ねえねえ、この人知ってる⁉」

 急に櫻が腰を浮かせ、画面を指差した。その先には五人組のアイドルグループがおり、そのうちの一人が芸人からコメントを振られ、笑いを取っていた。

「なんだっけ、やっとんだっけ? 俺、この人に似てるって結構言われる!」

 洋子は画面の中の彼をちらりと一瞥すると、すぐにテーブルに視線を落とす。

「この歳になると、若い子はみんな同じ顔に見えるのよね」

「えー。まじかあ」

 そしてすぐに興味を失くしたかのように、「そういえばこの芸人さんさー」と話題を変える。

 間違いなく成人はしているのだろうが、言動が随分と幼稚だ、と洋子は櫻を心中で評する。もう少し年相応の落ち着きと振る舞いを、というフレーズが頭を過ぎって、自分が嫌になる。いかにも老人然とした考え方だ。そして、その稚拙さに助けられているのも確かだった。まるで子供を相手にしているようで、櫻から男性性を感じない。

 もしかして、とはたと気付く。櫻はわざと幼く振る舞っているのではないだろうか。自分に男性らしさを感じさせないために。

 その考えは、芸能人のゴシップを楽しそうに話す櫻を見ているうちにあっという間に消えてなくなる。そんな器用なことをできるようには、とてもではないが見えなかった。

 

 来訪してからきっかり三時間後に、櫻は帰って行った。それじゃあ良かったらまた、とにこにこと笑って去る彼の後ろ姿を眺めながら、洋子は首をぐるりと回した。ぱきり、と骨が小さく砕けるような音が耳元で響く。ドアの鍵を閉める。

 洋子は居間へと戻り、壁に掛かった時計を見上げる。午後三時。冷蔵庫には中途半端に残った食材しかない。洋子は息を吐きながら座椅子に腰掛ける。そうしてしまったら、次に立ち上がるときは自らを相当奮い立たせるしかないと分かっていながらも。

 きちんと自炊をしなければと思いながら、だらだらと時間は過ぎ、日は暮れ夜になり、結局作る時間が取れずフードデリバリーを頼む。そんな少し先の未来が洋子には見えるようだった。それでも洋子の尻は座椅子から離れてくれず、体を倦怠感がじっとりと覆っている。

 食事を共にし、テレビを見て、雑談する。たったそれだけの行為にもかかわらず疲労感に包まれている。洋子がこんなに長い間、他人と一緒の時間を過ごすことは相当に久しいことだった。しかも、相手は異性で若者だ。体は常に強張り続けていた。

 それと同時に、虚無感のようなものも抱いていた。寂寥感とは違う、と洋子は思う。誰かが傍にいたせいで、この無駄に広い家に、自分一人しかいないという事実をかえって思い知らされてしまった。

 この家は、一階と二階それぞれに、風呂とキッチンとトイレが設備されている。冷蔵庫や洗濯機などの家財道具も二つずつある。脚の悪くなった洋子の祖母のために、一階の設備を整えたときのものだ。リノベーションしたり電化製品を買い替えたりはしたものの、家具などは当時のまま残っている。

 幼い頃、一階はまるで地下牢のようだと洋子は思っていた。二階と比べて窓が少ないため薄暗く、老人特有の匂いが常に漂っていた。祖母は母や自分たち兄弟と食事を摂ることはめったになく、この一階で独りの時間をずっと過ごしていた。ほとんど外出することもなく、祖母は息を引き取った。

 次に一階の住人になったのは母だった。祖母よりは活発に過ごしていたものの、賑やかな余生を過ごしたとはとても言えなかった。

 そしていずれは自分も祖母や母と同じ道を辿るのだろう、と確信に似た想像を洋子は巡らせている。二階の部屋は以前自室として使っていた場所だったが、階段の上り下りが億劫になり、今は物を置くだけになっている。寝るときは、居間の隣にある、祖母や母が使っていた寝室を同じように使っている。いずれ二階に上がることもなくなるのだろう。そして、この一階で独りで死んでいく。

 洋子は身震いする。怖かった。孤独な死そのものよりも、この老婆は孤独のまま死んだのだと思われることが恐怖だった。同時に、死ぬときすら周りの目を気にしている自分が、情けなく恥ずかしかった。

 そして、自分の人生がこのまま何もなければ二十年以上は続くであろうことを考えて、洋子は絶望する。

 

「枯れ枝に桜」は全4回で連日公開予定