棘のようなその鋭い切先を、抜き放たれた刀に当てることは尋常な技ではない。
己の剣技ではとうていかなわないのが、この一合でありありとわかった。
それほどの技である。
背がさきほど、ざわざわ、と騒いだのは、逃げろ、ということだったのかもしれぬ。
斧を手にした賊が低い声を出した。
「どうする?」
「つまらん。好きなようにせえ」
子どもの賊はそれだけ言い、鳶口を器用に使い、とんぼを切って後ろに下がった。
その途端、斧の賊が、みしり、と床を鳴らしながら前に出てきて、
「──アァッ!」
と、気合い一声、斧をこちらへ向かって投げ放った。
狭い廊下で逃げ場はない。
佐武郎はたまらず、土壁にはりつくように難を逃れた。
鼻先を掠めるように、斧が宙を切り裂いていき、すさまじい音を立てて床板を砕く。
賊が鎖を引き、斧が瞬く間にその手に戻っていく速さを見ると、尋常ならぬ膂力であるのが十二分によくわかる。
「勘はよいようだな」
野太い声が響くのを聞きながら、佐武郎は総身に冷や汗をかいていた。
まさに「必死」のこの状況で思うのは新右衛門のことである。
よくはわからぬが、この賊たちの仲間に殺されたのは間違いない。
無念だったに違いない。
新右衛門が日記を渡しに来た時に、その異変に気がついてはいた。
にもかかわらず、止めなかったことは、悔やんでも悔やみきれない。
否、これほどの殺しの手練れ相手には、いずれにしてもなにもできなかっただろう。
賊が再び手斧を振りかぶるのを他人事のように目にしながら、佐武郎は諦めはじめていた。
生き延びるのを。
「さっさとここを出て、女でもかどわかすのはどうじゃ。黒部とやらには妹がいるらしいぞ。それもこいつに罪をかぶせてしまえばよい」
鳶口の賊のしわがれた声がそう言うのを聞いて、佐武郎は冷や水を浴びせられたようになった。
命を諦めている場合ではない。
己だけの話ではないのだ。
唄にも危害が及ぶのである。
斧が投擲された。
刹那、前方に勢いよく転がるように避け、障子を破って居間へと身を躍らせた。
背後で、投げられた手斧が床板を破壊する音がする。
唄を守らねば。
そのために生き延びなければならない。
佐武郎はふらつきながらも立ち上がった。
だがどうやって。
己の剣技と賊の二人の殺しの技には、圧倒的な差があるのだ。
その時である。
たたら師の〈煙〉の声が脳裏をよぎった。
──生き延びるためのすべてにおいて、拍子が肝要なのだ。
拍子。
その拍子を読むための、操るための口神楽を〈煙〉が使うのを、目の前で見てきた。
そのたびに動きの拍子を読まれ、術にかけられたように転ばされたり、頭を叩かれたりしてきた。
しかし、佐武郎自身が実戦で使ったことはない。
燃える炭火や木の葉ずれの立てる音を聞きながら、その拍子を読むが如く〈煙〉の真似事をしていたに過ぎないのだ。
〈煙〉が口神楽の稽古法として教えてくれたやり方である。
しかし、稽古は稽古。
まさに今、鬼のような強さを誇る怪人たちに使って、通用するはずもない。
しかし、そんなことは言っていられない。
他に手がないのだ。
「弱いくせに逃げ足だけは早い。面倒だな」
鎖を引いて斧をつかみとった賊が、居間に入り込んでくる。
反撃はないと見てか、無造作なその挙動を、佐武郎はぼんやりと眺めていた。
──拍子を読むにはしっかり見てはならない。曖昧に見て、肌で感じるのだ。
〈煙〉の声が脳裏に響く。
佐武郎の口から脈動するような呼気がもれ出た。
「──ブン……ブンム……──」
「んん? なんだぁ?」
賊が眉根を寄せると、佐武郎はそれにも応じて舌打ちを重ねた。
「──チチ……ブンム……チチ……──」
自らの呼気で起きる低い音と鋭い舌打ちが拍子を打ちはじめる。
不思議なことが起きた。
賊がさらに一歩、居間へ踏み込んだその動きが、佐武郎の口神楽の拍子に、ぴたり、とあっていたのだ。
「なにをしとるんじゃ。わしはもう飽きた。痛めつけるなら早くやれ……ん?」
廊下に現れた鳶口の賊も佐武郎の口神楽に気づき、眉をひそめた。
それに応ずるように斧の賊が、
「ふん、こやつ、頭がおかしくなったか……おい、貴様、なにをぶつぶつと言っている!」
と怒号をあげて斧を振り上げて前に出た途端である。
佐武郎はふところに手を入れ、口神楽の拍子をはずすように小柄を抜き撃った。
新右衛門のために研いだそれが、たん、と音を立てて足もとに突き立つと、斧の賊は、
「ああっ!」
と、叫びながらつんのめり、そのまま倒れ込んでしまった。
その刹那、もう一人の賊がこちらへ跳ね飛んでくる。
口神楽が通用したことに自分で驚いていた佐武郎は、それを防ぐこともできず、左肩に鳶口の一撃を喰らって倒れ込んでしまった。
「おい、貴様は山の出か?」
鳶口の怪人がしわがれ声で問いつめてくる背後で、斧の賊が起き上がった。
「おい、爺い、そいつからどけ。ぶっ殺してやる」
「さきほども言うたが殺してはいかん。雇い主の依頼は絶対じゃ。しかし、腕は使えぬようにしておけ。こいつは危険じゃ」
鳶口の賊がその子どものような、つるん、とした顔を皺だらけにしている。
「危険? この木端ざむらいがか。爺い、耄碌したか。見たとおりこいつの剣はままごとみたいな道場剣法だろう」
「その木端ざむらいに見事に転ばされたのは誰じゃ」
「ありゃはずみだ。偶然だぜ」
「ふん。そんなことあるかい。こいつが使ったのは山の民のわざじゃ。かしらと一緒じゃよ。いいから腕を砕け。今はお主の足もとをすくうくらいですんでいるが、そのうちに寝首をかかれるぞ」
「ふん。面倒だな。おい、貴様、黒部から渡されたものを出せ。そうすりゃ楽にすませてやる」
賊たちの話を聞きながら、佐武郎はいまだ驚いていた。
「拍子がすべて」という言葉を、己は見誤っていた。
その威力は思った以上であった。
惜しむべくは、それに気がつくのが遅かったことだ。
もしかしたら、この怪人どもを倒せる鍵となっていたのかもしれない。
佐武郎はもう諦めもしていなかった。
こうなればめぐりあわせと、すべてを受け入れるしかあるまい。
しかし、運命の奔流は佐武郎をそのままではいさせなかった。
賊が斧を振り上げるのが見えた、その時である。
外から大声が聞こえてきた。
「藩士、糸原佐武郎! そなたには藩士、黒部新右衛門殺しの嫌疑がかかっておる。神妙に出て参れ!」
続けて、大勢の足音がする。
それを聞くと、斧の賊は舌打ちをし、鳶口の賊は「仕方なし」と言って、二人とも、すうっ、と音もなく姿を消した。
その引き際たるや、やはりこのようなことに慣れた玄人と思わざるを得ない。
「糸原佐武郎! 出て参らぬならこちらから参るぞ!」
外から響く再びの大声に、佐武郎は起き上がった。
鳶口の一撃を喰らった左肩が痛むが、それどころではない。
逃げなければ。
逃げて唄を守らなければ。
佐武郎は左肩を押さえると、音を立てぬよう自室へと駆け込んだ。
そして、天袋の戸を開けて新右衛門の日記をつかみとると、勝手口へ忍びよる。
賊たちはどこから逃げたのだろうか、影も形もない。
ひょっとしたら、屋敷を取り囲む役人たちとも通じていたのかもしれない。
役人たちは屋敷の裏手にも回っているだろう。
しかし、裏はすぐに山だ。
山に入れば逃げ切ることはできる。
だてにたたら場へ入り浸っていないのだ。
佐武郎は勝手口を開け放ち、駆け出した。
「いたぞ! 裏だ! 裏だ!」
声があがり、ばらばらと足音がして何人もの役人が現れた。
それを振り切ろうと走る佐武郎の行く手に現れたのは、またもや利太郎である。
刀ではなく、捕縛術で使う縄を手にした利太郎は仁王のように両手を広げ、立ちはだかった。
佐武郎が、その腕の下をかいくぐろうとした、その時である。
「──えい、おう!」
利太郎の気合いがあたりに響いた。
佐武郎は、怪人との戦いで消耗していたのだろう。
身をかがめた刹那、ふらついてしまった。
そこへ、利太郎が背中から組みついてくる。
太い腕で締め上げられて、声をあげることもできない。
「糸原佐武郎、召し捕ったり!」
利太郎はそう大声をあげると、佐武郎を抱え込むようにした。
まるで自分の身で佐武郎を覆い隠すようにしている。
そのうえ、奇妙なことに、一転して耳元でささやき声を出してきた。
「……おい、佐武郎。お前、本当に新右衛門を殺していないのだな」
そう聞かれ、締め上げられながら佐武郎がうなずくと、利太郎はうなった。
「むう……『天地返し』でおれを投げろ」
佐武郎は耳を疑った。
聞こうとしても、やはり声を出せぬところへ、さらに早口でささやかれた。
「殺すつもりで投げろ」
それを最後に、すさまじい力で締め上げられた。
すでに息もできない。
ばたばたと身をよじると、ふと利太郎の力がゆるんだ。
わけがわからぬが、やるしかない。
佐武郎は貫心自然流柔術の妙技、「天地返し」で利太郎を投げ放った。
腰の下にもぐり込むようにして、相手の脳天を地に打ちつける投げの大技である。
「──ああッ!」
利太郎が叫び声をあげ、見事にその巨体が、杭のように頭のてっぺんから地に打ちつけられた。
そうなってみて、利太郎が抱え込むように自分を締め上げていたわけが、はじめてわかった。
捕えるようにみせかけて。わざと投げやすい姿勢をとっていたのだ。
どうやら利太郎は佐武郎を逃がしてくれようとしているらしい。
刹那のうちにそれを解した佐武郎は、駆け出した。
背後でたちまち怒号が響き、呼子が鳴る。
逃げなければ。
山へ、逃げなければ。
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