──佐武郎よ、鉄奉行様に推薦するから、わたしと同じく祐筆のお役目につかないか。
──俺はお主のように字が綺麗でないしな、山に入るのが好きだから徒目付が似合っている。そろそろ山で暮らしてもよいと思っているくらいだぞ。
──なにをふざけたこと言っているのだ。もったいない。お前には能があるのに。
──俺に能があるなどと言うのはお主だけだ。おまけに俺は出世に興味がない。
──ことはそれだけではない。我が広島藩の行く末も、日本の先行きも「鉄」が握っている。お前のような男が能を隠していては藩のためにも日本のためにもならぬのだ。
佐武郎が山から戻ると、いつもそういう小言を言ってくる。
ゆっくりとあたたまって風呂から出ると、どっと疲れを感じてひどく眠くなった。
そうして、夜になったばかりというのに寝床へもぐりこんでしまった。
翌朝起きると身だしなみを整え、鉄紺色の長着に羽織袴をまとって外へ出た。
久しぶりの刀が腰に重い。
「まずは新右衛門の家にでも寄るか。城には遅れてもよかろう」
山中のたたら場を回って検分する徒目付の任についていると、それくらいの融通は利くし、もともとが四角四面の性分ではない。
新右衛門と同じ鉄づくりに関わるお役目についているとはいえ、仕事はずいぶん違う。
鉄奉行のもとで祐筆についている新右衛門は、藩内の鉄に関わる様々なことをよく把握している。
幕府や他藩とのやりとりにも関わる重要な役目であるし、それをなし得る真面目な性格を備えているのだ。
若い同輩たちには頼られ、上役からも一目置かれている才英である。
今日も、きっとすでに登城しているだろうが、新右衛門とはあとで話せばよいこと。
どうせ今夜は黒部家で酒を呑む流れになるだろうが、城に行く前に唄や新右衛門の父母に顔を見せたいのだ。
早くこれを渡したい、というのもある。
佐武郎はふところから布の包みをとりだして眺めた。
山から持ち帰った土産である。
「俺の鉄づくりも研ぎもようやっと形になってきたな。新右衛門や父君に渡す小柄も、唄殿と母君の分の縫い針も」
〈煙〉たちに習い、山で鉄からつくり、研ぎあげたものだ。
黒部家の皆に会うのを楽しみに城下の町を歩いていたが、しかし、どことなしに変である。
否、町が妙なのではない。
佐武郎の背になにか、ざわざわ、としたものが走るような気がするのだ。
「風邪でもひいたかな」
佐武郎は首をかしげた。
「唄殿の機嫌が悪くなければ、卵酒でもつくってもらうか。ことによれば今日のお役目は休まさせてもらうのがよいかもしれぬなあ。病ならば村山様も許してくださるだろう」
上役の村山忠敬は、家老たちの覚えもめでたい敏腕の鉄目付だ。
佐武郎たち配下の者への心配りを忘れぬ人格者でもあるのだ。
城の皆に風邪をうつしてもいかぬ。
そうしているうちに、黒部家の屋敷が見えてきた。
やはり妙だ。
なにかがいけない。
足早に近づくと、ちょうど下男が出てきた。
まだ十五、六ではあるがよく気がつき、愛想もよいので佐武郎は可愛がっていた。
「おお、久方ぶりだな」
そう声をかけて驚いた。
こちらを向いた顔は血色が失せ、真っ白である。
「どうした。具合でも悪いか」
そう聞いても首を振るばかりで、今にも泣きそうだ。
その手元を見ると、すだれを持っている。
「忌中札!……なにかあったのか! おい!」
肩に手をやってゆすると、下男は泣き出してしまった。
「なんの騒ぎですか……ああ、佐武郎様ではないですか!」
琴の音のように高い声が聞こえた。
見やれば、若い女が一人立っている。
天から吊られているような真っ直ぐとした姿勢は兄ゆずりであろうか。
切れ長の大きい目と細い鼻がきれいに顔におさまっている。
誰あろう、新右衛門の妹、唄である。
一見して、そのまわりに花が咲いたかのように華やかだ。
しかし、いつもは牡丹のように派手なそれの、今日は藤のようにたおやかであるのが気になった。
着ているものもいつもと違う。
色のある服ではなく、濃鼠色に染まった半纏をまとっている。
「唄殿……いったいどうされた」
すると唄はするすると近づいてきてすだれを受け取り、下男を屋敷にかえしてしまった。
「佐武郎様……兄が……」
そこまで言ってうつむく。
いかにも耐えきれない、といった風だ。
いつのまにか佐武郎の羽織を手でつかんでいる。
「新右衛門になにかあったのか」
あわててそう問うても、首を振るばかりでなにもこたえない。
何度か同じやりとりをくり返すが、らちがあかない。
そのうちに、今度は屋敷から新右衛門の母、いねがやってきた。
「佐武郎様、すみませぬ。これ、唄、ご迷惑をおかけしてはいけませぬよ」
「これは母君、ご無沙汰しております」
佐武郎が頭を下げる。
唄はやっと羽織から手を離したが、すだれを取り落とした。
そして、今度は両手で顔を覆って泣きはじめてしまう。
「いったいなにが起きたのですか」
佐武郎がそう問いながらいねの顔を見ると、涙の跡が顔についている。
しかし、そんな様子はつゆとも見せてはいない。
いねは、きっ、と厳しい顔をしながら、こちらを見た。
「当家長男、新右衛門が亡くなりましてございます」
「昨夜、新右衛門は戻らなかったのだ」
新右衛門の父、黒部伊右衛門がそう言った。
早々と新右衛門に家督をゆずり、隠居してはいるものの、その卓越した知見を求めて藩の重鎮が相談に来ることが多いという。
落ち着いては見えるが、やはり、顔は蒼白である。
ところは黒部家の居間である。
雨戸を広く開けて、縁側から庭がよく見える。
まだ春先で肌寒いが、こうでもしないとやりきれぬのかもしれない。
同席している唄はもう泣き止み、顔は青いものの、凜としていた。
「お主が山からおりる日だと、新右衛門から聞いていた。だから、はじめは一緒に酒でも呑んでいるのかと思っていた」
「たしかにうちには来てくれて、俺も酒にさそったのです。が、急ぎの用がある、とすぐに出ていってしまって」
途端、唄が身じろぎをした。
それを目でおさえて、伊右衛門は腕を組んだ。
「知ってのとおり、あやつはきちんとしすぎるほどの性分でな、帰宅が遅くなる時は文でも人でもよこして伝えることを欠かさなかった。それで夜が更けてから捜すことにした」
「知らせてくだされば俺も捜しに出ましたのに」
「そうしようとしたのだ。わたしが下男を連れて番屋へ届け、捜しながらお主の屋敷に行こうとしたその時だ……ちょうど知らせが入った」
伊右衛門は耐えるように目をつむった。
しばらく誰も話さなかったが、沈黙を破ったのはいねであった。
「新右衛門は町はずれの竹藪で亡くなっていたそうです」
いねの声は静かであったが、怒りを秘めていた。
それを覆い隠すように、伊右衛門が口を開く。
「新右衛門は、ひどい有様であった……」
「ひどい?」
「……うむ……いや、新右衛門の受けた刀傷が……いや、あれは刀ではないのか……」
伊右衛門が口をにごすと、それまで黙っていた唄が、耐えきれぬように声をあげた。
「父上、わたしは大丈夫です。兄上の無念を佐武郎様にお伝えください」
「むう……いや、刀よりももっと薄い、鋭利な刃の……剃刀でそいだような傷が……」
「剃刀のような刃?」
「それだけではない。他にも服ごと肌を鋭く切り裂くひどい傷跡が……そう、まるで鋸でひかれたような……しかも、不審な死ゆえ、亡骸をこの屋敷に戻すことすらできず……」
そこまで話して、伊右衛門は口をつぐんだ。
唄がうつむいている。
涙を見せたくないのだろう。
不意に、佐武郎はのどのかわきを覚えた。
背筋にも、ざわざわ、としたものが走る。
仕方なく、「御免」と、立ち上がった。
黒部家の居間は茶の間もかねていて、水屋がついているのだ。
勝手知ったる様子でその戸を開いて立ち入ると、裏木戸が開いている。
小さくて目立たぬが、使い勝手がよいので、佐武郎は、そこからこの屋敷に入り込むことが多かった。
そのたびに新右衛門が言っていた「きちんと玄関から入ってこい」という、苦笑まじりの小言はもう聞けないのだ。
かめのふたを開けて、ひしゃくで水を飲んでいると、にわかに居間が騒がしい。
なにかと思いながら戻ると、何人かの武家が居間へと入り込んできた。
役人たちである。
新右衛門が死を遂げ、黒部家がひっくり返ったような騒ぎとなったが、ただちにこの役人たちが屋敷にやってきたらしい。
死に方が不審であったことから、とくに新右衛門の部屋は書棚からなにからひっくり返すようにして、まるで家探しするようにとことん調べているようだ。
いねが声をあげた。
「門野様、なにか御用でも」
「その方、鉄目付村山忠敬様配下、徒目付の糸原佐武郎だな」
その場で一番の上役であろう、羽織袴を身につけた武家がこちらをさしてくる。
藩士の品行を見張る大目付配下のなかでも、その厳しさで有名な下目付、門野鷲蔵その人である。
佐武郎はあわてて頭を下げた。
「おっしゃるとおりでございます」
「お主、亡くなった黒部新右衛門の友だったそうだな」
「たしかに。昨日も夕方頃に新右衛門が屋敷にやってきて会いました」
「なんと! 夕方というならば黒部新右衛門が殺されたらしき時分であるぞ。その時お主の屋敷には他に誰かいたか」
「誰もおりませんでした。父も母も亡くしましたうえ、お役目で山に入ることが多く、下男下女も使っておりません。一人で暮らしております」
「うむ。なるほど。あとは番所で聞こう。皆の者、この糸原とやらを引ったてい!」
門野がそう言い放つやいなや、縁側の向こうに、どこからともなく四人の役人がやってくるのが見えた。
急な話である。
佐武郎が泡を食って立ち上がると、伊右衛門が鋭い声を発した。
「門野様、それはあまりにご無体。この糸原佐武郎が新右衛門のいちばんの友であるのは間違いありませぬ。それに新右衛門の体についていた傷からすると、賊が使ったのがまっとうな刃物ではないことは明らか。そのようなものを糸原が使うとは思えませぬ」
「伊右衛門殿はそうおっしゃるが、この糸原が山に入り浸ってたたら場の民たちと交わっていることは、すでに調べがついている次第。山の民たちの持つ鉈や手斧は武家の持つ刀と斬り口が違うゆえ、そのようなこともふくめて嫌疑がかかっておりまする。お控えくだされ!」
おかしい。
話ができすぎている。
たとえ疑いがかけられているとしてもだ。
その時、新右衛門の言葉が脳裏をよぎった。
──決して誰にも渡さないでくれ。よいか、誰にもだぞ。
あの「誰にも」とはもしかしたら、役人や藩の上役にも、という意味なのか。
もしや、新右衛門が殺されたのが、藩や城中を巻き込んだ話なのだとしたら。
このまま番所へと連れていかれ、新右衛門殺しの罪をかぶせられるかもしれない。
そうすると、あの日記には。
佐武郎の口から小さな掠すれ声がもれた。
「あれに……書かれているのか」
新右衛門が殺された理由が。
ひょっとすると、役人たちが新右衛門の部屋を荒らすように調べているのは、あの日記を探しているのかもしれない。
いや、きっとそうに違いない。
あれを守らなければ。
門野と伊右衛門が揉み合うようにして言いあらそっている。
佐武郎はその隙をつき、御免、とだけ呟くと、畳に据えた己の太刀だけをつかみ、立ち上がって縁側へ走り出した。
武家たちが身構えたその時、佐武郎は、ぴたり、と足を止め、だしぬけに身を転じた。
居間にいる者、皆が呆気にとられた顔をするなか、佐武郎は水屋の戸を開け放ち、裏木戸から外へと飛び出した。
「逃げたぞ! 追え! 追え!」
背後で怒号が聞こえるのをそのままに、佐武郎は駆け出した。
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