佐武郎は森へと続くやぶ道に飛び込んで、ひた走った。
うっそうとした森の中を通らねばならぬが、しかし、佐武郎の屋敷へは、こちらの方がずいぶんと近道なのだ。
そのうえ、この道を知っている者はほとんどいない。
森に入ってもどちらへ行けばわからぬだろうから、追っ手をまくにはよいはずだ。
今となっては新右衛門がなにを思い考えていたのかを知るには、あの日記を読むしかない。
おそらく、己の死を予感していたであろう親友が自分に託したのだ。
そこには深い意味があるのだろう。
読めば佐武郎に無実の罪がかぶせられるわけもわかるかもしれない。
木の葉に遮られて日がかげってからしばらく、後ろから呼びとめられた。
「佐武郎! 待て! 待つのだ!」
聞き慣れたその声に、佐武郎は足を止め、ゆっくりと振り向いた。
息を切らせ、筋骨たくましい巨体をゆらしながら、武家が一人、立っていた。
剣術道場で同門の堀利太郎である。
「利太郎……なにをしている、こんなところで」
「なにをしている、ではない。まったくお前はこんな時までおどけるのか。おれが下目付の門野様に仕えているのは知っているだろうに」
「おどけているわけではない。この道をよく追いついたな」
「お前の考えることなど、おれにはわかる。新右衛門やおれにこの藪道を何度もつきあわせたのは当のお前だしな」
「他の者も追ってくるのか」
「知らん。だが、こんな道を追ってくることもないだろう。おれはお前を追うので精一杯で、皆に知らせる暇もなく走ってきたのだ」
そう言って、濃い眉毛を八の字にした。
それを見れば、根が鷹揚で、気がやさしいのが誰にでもわかろう。
藩士たちの多くが通う城下の貫心自然流剣術道場の若い門人たちの間で、利太郎は新右衛門、佐武郎とともに「三羽がらす」などと呼ばれるほどであった。
「間合いの新右衛門」
「力の利太郎」
「さばきの佐武郎」
などと称されることもあったが、佐武郎としては打ち合うのがきらいで、ひたすらによけていただけだから、そのように言われるのは心外であった。
だから、門人の一人がやっかんで、
「逃げ回っているだけだから『逃げの佐武郎』だ」
などと陰口を叩いているのを聞いても、佐武郎は、
「そのとおりだ。うまいことを言う」
と感心するばかりで、新右衛門や利太郎にはさんざんあきれられた。
「佐武郎よ。なぜ逃げるのだ」
利太郎がゆっくりと近づきながらそう問いかけてきた。
「俺は……新右衛門を殺してなどいない」
「ならば逃げるな。おれもお前が新右衛門を殺したとは信じられないのだ……なあ、佐武郎。一緒に門野様のところへ行こう。お調べを受け、身の証をたてた方がよい」
「それは、できん」
「なぜだ!」
「それも……言えん」
日記のことを言うわけにはいかない。
利太郎が、ずい、と前に出た。
あと少しで、初撃の間合いに入ってしまう。
その巨体で扱う剣が長大であるから、利太郎の一撃は遠くから届く。
「わけも言えぬのなら、お前をつかまえて門野様のところへ連れていかねばならぬ」
利太郎は残念そうに太い眉毛の間に皺を寄せると、意を決したように剣を抜いた。
佐武郎も、ため息をつきながらだらりと両腕をたらし、うつむいた。
その途端である。
「──おう!」
仁王の一撃のような豪剣が、風を切り裂きながら襲いかかってきた。
刹那、佐武郎は、その剣筋にあわせて刀を抜きながら、跳ねるように身をかわす。
──ぎゃるりん……。
と、鋼のこすれる音が森に響いた時には、佐武郎の刀は鞘さやにおさまっている。
神速の抜刀をしながら、刀のしのぎに相手の刃をそわせて剣筋をずらす、佐武郎独特のさばき技である。
「相変わらずとらえどころのない、うなぎのような剣を使う……佐武郎よ、これも役目だ。容赦できんぞ」
利太郎はそう言うがいなや、眉毛が逆八の字にはねあがった。
みるみるうちに顔に血の気がのぼり、まさに仁王のようである。
こうなった利太郎の剛力は、手がつけられない。
さきほどの初撃はうまくよけたとはいえ、間一髪であった。
わずかでも相手の力を受け間違うと、剣が折れてしまう佐武郎の技は、すさまじい剣圧を誇る利太郎相手には分が悪い。
佐武郎の背筋に冷たいものが走った。
途端、利太郎が振りかぶって二の剣、三の剣、とつづけざまに撃ってくる。
佐武郎は木のまわりを逃げ回り、苦しくもかわしつづける。
「なぜ抜かぬ! 新右衛門も舌を巻いたあの技でも出さねば、お前におれは斬れぬぞ」
「俺はお主を斬りたくないのだ」
「おれもなめられたものだな……御免!」
利太郎の眉毛がさらにはねあがり、怪力のこもった四の剣がふりおろされてきたその刹那、佐武郎は抜刀し、その斬撃をすりあげた。
たまらず利太郎が重心を崩したところへ、間髪いれず足払いを飛ばすと、仁王のような巨体がもんどりうつように転がった。
「むうっ……」
「すまん、利太郎」
佐武郎は叫ぶようにそう言って、逃げ出した。
速く走らねば。
利太郎は追ってはこなかったが、油断はできない。
気が焦るばかりなので、たたら師たちに教えられたとおりに呼吸を整えた。
彼ら彼女らは、山の道なき道を驚くほど速く走る。
静かに、そして足をとられることのないその足運びに、佐武郎は度肝を抜かれたものだった。
走りつづけるその体力ももちろん、町の者、里の者であればすぐに転んでしまうような足場であっても、風のように進むのだ。
──すべては拍子だ。
佐武郎がともに走ろうとする時も、〈煙〉はくり返した。
──自分の身をなんとかしようとするな。
──力を抜き、重さを感じれば拍子が出てくるものだ。
佐武郎は〈煙〉たち山の民に追いつくことはできなかったが、それでもこうやって走っていると以前よりも息が乱れず、疲れず、速く走ることができるようになっている。
時を待たず、己の屋敷が見えてきた。
背にざわざわと感じるものがある。
おそらくは、何者かが入り込んでいる。
佐武郎は足をゆるめながら、今度は音をさせず歩むようにした。
これもたたら師たちから習った、山の獣に気づかれぬための歩法だ。
さらに呼吸を静かに、まわりに溶け込むようにしつつ、目を半眼にする。
そのまま己の屋敷へ忍び込み、自室へと近づくと、物を投げるような音にまぎれ、話し声が聞こえてきた。
低いしわがれ声と野太い声である。
「……なんじゃ、お主はまたふられたのか」
「ふん。黒部をやる時に助太刀しようとしたら気に食わなかったようで、にべもなく断られたわ」
「せっかく江戸からやってきたのだ。まぶと一緒にやりたかったのよ」
「わしもかしらを相手に張り合う気ぁないわい」
「それでどうしたのじゃ」
「仕事があるとかで、そそくさと江戸に帰りおった。この屋敷の主の糸原とやらは罪を着せるために生かしておく、とわかった途端に興が覚めたらしい」
「女の身で大変なことよの。召集がかかったとはいえ、江戸とここを行き来するのは尋常なことではない」
「なあに、あの女にかかりゃ関所破りなど造作もない……しかし黒部とやらは死ぬ前にここになにを届けたのか。一向に見つからん。面倒だからすべて焼き払ってしまおうぜ」
「それはいかん。依頼主が小心者だからのう。黒部が隠した証をしっかりと目にしたいらしい」
「いささか面倒だな」
「仕方ない。金の出どころの言うことは聞かねばな。地獄の沙汰も金次第じゃ」
息をひそめ、耳をそばだてていた佐武郎の肌が粟立った。
障子越しに響くその声は、まるでこの世のものではない。
そのうえ新右衛門殺しについて、いかにも朝飯を食べるかのように、平然としゃべっている。
しかも、自分はやはり無実の罪を着せられるようなのだ。
虫の知らせを感じてはいたが、このような言葉を聞くと心が乱れる。
つい、息を荒く吸い込んでしまった。
途端に背筋が、ぞわり、とした。
あわてて床に落下するように、這いつくばる。
その刹那である。
「──おう!」
小さな叫び声とともに、ものすごい勢いで障子を突き破ってなにかが飛び出してきて、柱に突き立った。
見上げれば、さきほどまで佐武郎の肩があった高さに小ぶりの手斧が刺さっている。
その柄の頭には鎖がつけられ、破られた障子をこえて部屋の中へと続いている。
と思えば、障子を蹴破って賊が飛び出してきた。
あわてて佐武郎が床を転がって距離をとると、そのあとを追うように床に刃物が突き立てられる。
間一髪でそれをよけ、
「──ハッ!」
と気合い一声、低い姿勢のまま太刀を抜き放った。
まばたきひとつの間に鞘におさまる電光石火の抜刀術を、賊はこともなくかわす。
次の抜刀に備えて佐武郎が身から力を脱ぬき、うなだれるように背骨をたわませたところに、部屋からもう一人の賊が出てきた。
背は低いが、強靱そうな太い体躯をして、紅殻に染めた派手な着物をまとっている。
齢は三十がらみであろうか。
鎖を鋭く引いて飛んでくる斧を、器用に宙でつかみとり、そのまま構えをとる。
妙な得物である。
両手に構えた二本の手斧が鎖でつながっている。
一方、先に出てきた賊が手にしているのは鳶口だろうか。
杖ほどの柄の先に鳥の嘴のような、鉄の棘のような鋭い刃物がついた得物を手に片足で立っているその姿、まるで軽業師である。
ことに奇妙なのは、子どものような、つるん、とした顔をして、小さい体に縞模様の半纏をひっかけているが、
「そこもとが糸原とやらか」
と、問うてくるその声が老人のようにしわがれていることだ。
「お主ら、何者だ」
その佐武郎の問いかけが聞こえぬかのように、怪人二人は向き合った。
「聞いたとおりの痩身、くせ毛よのう。此奴が糸原だとしたら殺してはいかぬのか」
「いかんいかん。まずは黒部の残した証の場所を吐かせねばならない。が、手足が動かぬようにするくらいは問題なかろう。楽しむとしようか」
野太い声としわがれ声が、身の毛のよだつようなことを話している。
それを聞くたびに佐武郎の背に走るもの が、ざわざわ、と波立った。
こいつらはまずい。
生かしておいては世のためにならない。
あたかも、そうささやいてくるようである。
佐武郎は抜刀に備えた姿勢のまま、ほんの半歩、間を詰めた。
瞬く間に、佐武郎のまわりの空気が粘り気を増し、泥のように身にまとわりつくように思える。
その感覚が、怪人二人の危うさを物語っている。
先手必勝。
「──エィ!」
佐武郎は、鳶口をたずさえた子ども姿の賊へ向かって大きく踏み込み、抜く手も見せず抜刀した。
剣術道場で師範代さえも凌駕した新右衛門が、唯一、舌を巻いた佐武郎の剣技である。
下方から斜に鈍い刃光がひらめいた時には刀はすでに鞘におさまっており、その寸前に返す刀で袈裟に斬り落とすのは目に映らぬ、貫心自然流抜刀術「うつろ手」である。
しかし、その剣は鞘におさまることはなかった。
かわりに、
──がらん……。
と小さな鉦が鳴るような音がして、佐武郎の手から刀がはじけ飛んだ。
子どもの姿をした賊が、片足で立つ姿勢を変えぬまま、振るった鳶口をこちらへ向けている。
「遅いのう。まるでなめくじじゃ」
しわがれ声でつまらなそうにそう言っている。
目で追えば、己の持っていた刀は中ほどで折られ、無惨に床に転がっている。
佐武郎は目を見開いた。
見てしまったのだ。
賊の持つ鳶口が己の刀を見事に割り砕くのを。
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