*   *   *

 

「死ね、飛び降りろ、か。指導中に熱くなっちゃって、で済む話じゃなさそうだね」

 木村の報告を聞いて、高塚は眉根を寄せる。

 七階の従業員たちの面談を終え、事務所に戻ってから、互いの面談結果を報告しあった。

 高塚が面談した中に、パワハラを受けたり見聞きしたりしたことのある従業員はいなかったそうだ。

 アンケートで、「パワハラを見聞きした」に〇をしたのは二人。漆原・代永の二人で間違いないだろう。

 何か従業員全員の筆跡がわかるものを、と社長に頼んだところ、履歴書の写しをもらえた。確認したところ、漆原の字は、思ったとおり、投書とアンケートと一致した。代永の字は、アンケートとは同じだが、投書のそれとは違う。二枚目の投書についてだけ、誰が書いたのかがわからない状態だった。

「たぶん、代永さんに相談した同僚っていうのが、こっちの投書を書いた人ですよね」

「そうだろうね。面談した中にいなかったってことは、八階で働いてる人か……ああでも、代永さんは同僚って言ったのか。じゃあ彼女と同じ部署の人だろうね。今日休んでた人かな。俺たちが見落としてるんじゃなければ」

 今日休んでいた従業員が誰かは、とっくに確認済らしい。高塚は履歴書の束を木村に渡し、「倉田くら たさつき」という従業員のものを探すように言った。

 めくっていくと、手書きの履歴書はすぐに見つかる。

 その横に投書を並べて見比べた。

「……似てます。投書の字に」

「彼女は代永さんと同じ、広報部の従業員だ。法事で今日と明日は休みだけど、明後日は出勤するらしいから、八階の人たちと合わせて面談できるね」

 高塚は左肘で頬杖をついた姿勢で、「そこで話を聞ければいいけど」と付け足す。

 漆原と同じように、ドアごしにちらっと聞いただけだからよくわからないと言われてしまう可能性は低くない。もしかしたらこの人かな、と思っても、確信もなく上司や同僚を告発するようなことはできないと、口に出すのを躊躇してしまうのは理解できた。

 しかし、パワハラの当事者から話を聞けなければ具体的なことはわからないし、何も判断できない。どうにかして、特定するしかない。

「被害者は、どうして名乗り出ないんでしょう」

 思わず、口からこぼれた。

 漆原の聞き間違いでなければ、被害者は、かなりきついことを言われていたようだ。たまたまそのとき何かあって激昂してしまったが、普段はいい上司だから、騒ぐことでもないと思っているのだろうか。

 一度きりのことだから、と思っているのかもしれない。本当に一度きりのことなら、そして本人が納得しているなら、そっとしておいてもいいのかもしれないが、被害者本人に確かめるまでは手を引くわけにもいかない。

「管理職の三人は上からも下からも評判がいいし、主任同士も、二人と部長も仲がいいらしいから、誰にも相談できないっていうのはあるかもしれません。でも、それなら、外部の弁護士と直接話せる今日はチャンスだったはずなのに」

「倉田さつきが、他人のふりをして投書をした、被害者本人だって可能性はあるけど……そうじゃないとしたら、被害者本人は、匿名のアンケートでさえ被害を訴えていないってことになるからね」

 本人が、それをパワハラだと認識していないか、そうでなければ、何らかの、言い出せない理由があるかだ。

 倉田が被害者でも、通りすがりに立ち聞きしただけの告発者でも、二日後に話は聞ける。被害者や加害者につながる情報を聞き出せればいいが、彼女が何も話してくれなかったら、あるいは、彼女自身も具体的なことを知らなかったら、そこで行き止まりだ。

「当事者たちに名乗り出るつもりがないなら、こっちで調べるしかないよね」

 そう言って高塚は、何かのファイルを開いたままのパソコンの画面に向き直った。

「何ですか、それ?」

「社長にコピーさせてもらった、先月のデジタルタイムカードの記録。社内のパソコンにログインした時間とログアウトした時間が、自動的に打刻されるようになってるんだ」

 画面いっぱいに、従業員たちの出退勤の時間がずらりと並んでいる。高塚が日付を指定して検索すると、シートが切り替わり、別のデータが表示された。

「漆原さんがパワハラらしきやりとりを聞いたのは先月末の金曜、九時過ぎって話だったよね。あの会社は定時が六時で、基本的には残業なし、七時を過ぎると社長も含めてほとんど全員が退勤してるって聞いたから、九時過ぎに会社に残っている従業員は少ないはずだ。その時間に会社を出ていなかった人間を探すだけで、大分絞れるんじゃないかな」

「すごいですね、そんなホワイトな職場あるんだ」

「ね。驚いたけど、自分たちを基準にしちゃいけないよね」

 画面をスクロールしていく。営業部と広報部の従業員のみに絞ってあり、退勤時間だけをチェックすればいいので、確認作業に時間はさほどかからない。

 九時を過ぎてもパソコンからログアウトしていないのは一人だけだった。

 営業部の永山主任だ。

 

*   *   *

 

 一度目の従業員面談から二日。今日も面談は午後からだ。今日は事前の準備が不要なので、木村と高塚は、そろそろ昼休みが終わろうかという時間に株式会社スドウに到着した。

 泉田部長と、宮本主任の面談は高塚が担当する。木村は、八階で勤務する従業員たちの半数と、永山主任、前回の面談時に欠勤していた広報の倉田さつきを面談することになっていた。倉田は一人目の予定だ。少し緊張していた。

 漆原が聞いたという、会議室でのパワハラの加害者は、永山だった可能性が高い。しかし、被害者が誰かはわからない。被害者のほうは、パワハラがあった時間帯にはすでに、パソコンからはログアウトしていたようだ。サービス残業を強いられていたのだろうか。あるいは、漆原のように、一度退勤した後、何か用事があって職場へ戻ってきたところで、永山にミスを咎められたのかもしれない。

 いずれにしろ、被害者が名乗り出ない理由がわからない。さほど大きな会社ではないから、今後働きにくくなることを懸念しているのだろうか。

 廊下を歩きながら考えていると、

「は? ふざけんなよ、まじで」

 どこからか、尖った声が聞こえてきた。

 ドキッとして足を止めてしまう。どこから、と見回して気づいた。トイレの横の、給湯室に人がいる。

 そっと様子をうかがうと、若い男性社員がスマートフォンを耳に当てて通話をしているのが見えた。

(なんだ、電話か)

 びっくりした。

 そのまま通り過ぎる。木村が通る足音に気づいたのか、声のトーンは下がったが、男性はまだ話し続けていた。

 相手は身内だろうか。剣呑な雰囲気だったが、職場の部下相手でなければ、周囲が咎めるようなことでもない。

 そう思って、もしかしたら、漆原が聞いたという声も、電話でのやりとりだったのではないか、と思い当たった。

 電話で誰かと口喧嘩になって、言葉が強くなったのを、たまたま通りかかった漆原が聞いてしまったのではないか。

 面談室として使う予定の会議室の前で足を止め、廊下から向かいの執務室を見やる。

 執務室のデスクの間、ホワイトボードの前で、宮本と永山が、紙の束を片手に、何やら立ち話をしているのが見えた。

 永山に、当日の夜、会議室で電話をしていなかったか訊いてみようか。もしも漆原が聞いたのが電話の声だったとわかったら、漆原も須藤社長もほっとするはずだ。

「あ、ごめんなさい」

 小会議室の隣の応接室のドアが開いて、掃除機を手にした女性が出てきた。

 出てくるなり曲がろうとした彼女は、目の前に木村がいることに気づいてぶつかる前に謝る。

 清掃員のようだが、二日前にラウンジの掃除をしていたのとは別の女性だった。

「会議室のほうは清掃済ですから、どうぞ使ってくださいね」

「あ、はい。ありがとうございます」

 木村が応じると、彼女は周囲を気にするような素振りを見せた後、

「パワハラ相談の弁護士さんでしょ」

 そう言って、一歩分の距離を詰め、声をひそめた。

「先月末なんですけどね、私、夜間清掃のとき、パワハラっぽい怒鳴り声を聞いたんですよ」

 木村は、思わずまじまじと母親ほどの年齢の女性を見返す。彼女は小さく頷いて続けた。

「終業時間は過ぎているのに、会議室に人が入って行くのが見えたんです。先に他の部屋を掃除して様子を見ていたんですけど、その後、会議室から怒鳴り声が聞こえて。隣の部屋の壁越しにも聞こえたんだから相当ですよ」

「具体的に、いつですか」

「えーと……最後の金曜日だから、何日だったか……時間ははっきりはわからないけど、夜間清掃は夜七時から十時だから、その間ですよ。この階に来たのは九時くらいだと思います」

 漆原が怒鳴り声を聞いたと言っていた日時と一致する。

「どんな内容だったか、憶えていますか」

「聞き耳を立てていたわけじゃありませんからね。少ししか聞いていませんけど、きついことを言っていましたよ。死ねとか、その窓から飛び降りろとか」

 内容も一致する。漆原が廊下でやりとりを聞いたとき、彼女は隣の部屋を清掃していたというわけだ。

「社内の人同士の会話じゃなくて、電話で話していただけ……ということはないですか」

「でも、二人で会議室に入って行くのを見ましたからね。ちょうど入るところで、顔が見えたのは一人だけでしたけど」

 彼女はまた、周囲を見回してから、執務室のほうへちらりと目を向けた。

「あの若い主任さんよ」

 ささやくように言った彼女の視線の先では、永山が宮本と、まだ立ち話を続けている。

 

 少し緊張した様子で室内に入ってきた倉田さつきを、木村は、できるだけ自然に見える笑顔を作って出迎えた。

 いよいよ、永山主任によるパワハラの存在は確定的と言っていい。しかし、被害者が誰かがわからないまま永山に対峙して、どこまで具体的な話ができるだろうか。先月末の金曜の夜のこと、と具体的に言ってしまうと、こちらが被害者を特定して接触する前に、口止めをされてしまうおそれがある。

 この後に面談を控えている永山にどう対応すべきか、頭の中はそれでいっぱいになりかかっていたが、まずは倉田さつきだ。彼女もパワハラを見聞きした告発者の一人であり、その発言は重要だ。彼女に被害者の心当たりがあれば、永山と話す前に、被害者に接触して話を聞くこともできる。

 三人の管理職に対する印象を尋ねられ、彼女は「仕事ができる」「尊敬する」と、他の従業員たちと同じことを述べた。泉田にも宮本にも永山にも、悪い印象はないという。実はちょっと苦手、というような人もいないですか、と重ねて質問したが、いないと言われた。無理をしている様子もない。

 彼女自身が被害を受けているわけではなさそうだ。質問を続ける。

「これまでこの職場でパワハラに遭ったり、他人へのパワハラを見聞きしたりしたことはありますか」

 彼女はアンケートには答えていないが、一人しかいないのに匿名アンケートも何もあったものではないので、直接尋ねる。

「私自身は、被害に遭ったことはないです。でも……あの、一度……これはパワハラなんじゃないかな、と思うようなやりとりを、聞いたことはあります」

 倉田が告発を迷うようなら、すでにほかの従業員からも報告があったことを伝えようと思っていたが、彼女はさほど躊躇する様子もなく口を開いた。

「応接室の前を通りかかったとき、聞こえちゃったんです。仕事が甘いとか、考えが甘いとか、いい学校出てたって何の意味もないんだとか、そういう指導とか注意みたいな感じだったんですけど、ねちねち、ずっと同じようなことを言っていて……嫌だな、と思って。思わず足を止めてしまいました」

 木村は黙って頷いて、続けるよう促す。

「いつも言っているでしょうという声も聞こえて、いつもなんだ、とも思いました。聞いていたくなかったし、その場を離れたんですけど、気になって……後で、ラウンジの意見箱が目に入ったので、社長宛に投書をしたんです」

 そして、同僚の代永にも相談したのだ。これで、アンケートと投書の差出人については確認できた。

 告発者が二人。加害者候補が一人。被害者だけが、まだわからない。

「叱っていた人と叱られていた人が、誰だったかはわかりますか?」

「わかりません。部長はあんなこと言う人じゃないし……違う部署の人だったのかもしれません」

「もしかしたら、というような候補も浮かびませんか?」

「すみません。聞いていられなくて、すぐ離れてしまったから」

 その瞬間激昂して声が尖ってしまった、というのとはまた違う。いつも言っている、と加害者側が言っていたのなら、そういったやりとりは日常的に行われていた可能性が高い。

 倉田は日付をはっきりとは憶えていなかったが、やりとりを聞いたのは日中のことだったという。応接室の使用は予約制になっているが、その時間帯は予約が入っていなかった。

 彼女自身も気になって、確認したから確からしい。

 人目につかないところで部下を叱るために、応接室を使ったのだろうか。

 叱っていた側が永山だったのか別の誰かだったのか、叱られていたのが先月末の夜に怒鳴られていたのと同じ人物なのかもわからない。

 まずはそこから確かめる必要があった。

 加害者も被害者も同じだとすると、漆原が聞いた怒鳴り声は一時の激情による例外的なものではなく、被害者は繰り返しパワハラを受けていたことになる。

 もし別の誰かだとすると――被害者が二人いるとすると、その二人ともが何故か被害を訴えずに沈黙しているということになる。

 倉田さつきの次の面談相手は永山だったが、倉田に頼んで、彼に声をかけるのは五分後にしてもらった。

 トイレに行きたいので、という理由をつけた手前、一度小会議室を出て、男子トイレに向かいながら、別室の高塚にテキストメッセージを送る。面談中では確認できないかもしれないが、倉田から聴取した内容を簡単に報告した。詳しい報告は後になるが、二枚目の投書はやはり倉田が書いたものだったこと、彼女自身が被害者というわけではないようだということ、パワハラの加害者と被害者が誰かはわからないと言っていたことだけを簡潔に打ち込む。これから永山主任の面談です、と締めくくって送信したとき、男子トイレの出入り口で、誰かとぶつかりかけた。

 スマートフォンを見ていた自分のミスなので、慌てて避けて頭を下げる。

「すみま……漆原さん」

「……どうも、こんにちは」

 二日前と同じスーツに違うネクタイを締めた漆原は、ぶつかりそうになった拍子にタオルハンカチを落としたようだ。木村が拾おうと腰をかがめると、同じようにしゃがみこんだ彼と、またぶつかりかけた。

 すみません、いえ、と、ぎこちないやりとりの後、意を決して「あの」と声をかけると、漆原は動きを止めて木村を見た。

「先日は、ありがとうございました。今、調査を進めています。先月末の金曜の夜、漆原さんのほかにも例のやりとりを聞いていた人がいて、少し詳しい話を聞けたんです。声を荒らげていたのが誰だったかも、わかりました。まだ、怒鳴られていたのが誰かはわかっていないんですが」

 漆原は、はっとしたような表情になった。

 それから、そうですか、と言ってうつむき、タオルハンカチを両手で握りしめるようにする。

「すみません、確信がなかったので、言えなくて……普段なら絶対に、あんなことを言う人じゃないんです。だから、聞き間違いかもって思いました。何か理由があるんだと思うんですけど、でも、内容が内容だったから、誰にも何も言わないのも気持ち悪くて、それで投書を」

 面談の際、加害者について心当たりがないと答えたことを言っているようだ。急いで、「いえ、いいんです、わかります」ととりなした。確信もなく、同じ職場の人間を告発するのは勇気の要ることだ。調査を担当している弁護士に、無責任に先入観を与えて、後で間違いだったとわかったら……と躊躇したのだろう。

 木村にそう言われても、漆原の気が楽になった様子はない。彼は、すがるような目で木村を見る。

「もし、パワハラがあった、ということになったら……異動とかに、なるんでしょうか」

「それは当事者たちと、社長の判断ですが……」

 一般的な対処法としては、被害者と加害者は部署替えをするなどして引き離すことが多い。本人たちが元の部署で共に働くことに同意すれば別だが、それは特殊なケースだろう。

 はっきりとは言わなかったが、漆原は木村の意図を察したようだ。うなだれて、肩を落とす。

「僕にとっては、本当にいい上司です。理不尽なことをしたり、誰かにきつく当たってるのだって、見たことなくて。だから、ちゃんと両方から話を聞いてください。宮本さんが広報からいなくなったら……いえ、被害者のことを一番に考えなければいけないのは、わかっているんですが」

 このとき、ようやく気がついた。漆原が、もしやと思っても加害者の名前を挙げられなかったのは、それが、彼にとって尊敬すべき直属の上司だったからだ。

 倉田から話を聞く前に清掃員の女性が言っていた「若い主任さん」は、永山ではなく宮本のことなのだ。

 

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