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大会議室での講習が終わると、眼鏡をかけた若い従業員が応接室へと案内してくれた。
ガラスのローテーブルの上に、ペットボトルの緑茶と、明らかにコンビニやスーパーで売っているものとは違う上等そうな仕出し弁当が二人分用意してある。
午後からは従業員面談が控えていた。プライバシーを確保するため、面談には、七階と八階に一つずつある小会議室を使うらしい。時間になったらご案内しますと言い残して、眼鏡の従業員は去って行く。
「お疲れ様でした」
「うん。木村くんのプレゼン資料、わかりやすくてよかったよ」
ソファに腰を下ろした高塚に、ペットボトルを渡した。高塚は礼を言って受け取り、キャップを開けて口をつける。
高塚による講習はとどこおりなく終わった。普段は七階と八階の各フロアに分かれている五十人ほどの従業員全員を七階の大会議室に詰め込んだので、かなりの人口密度になったが、皆、真剣に聞いていた。講習後に回収したアンケートも、さっと目を通しただけだが、しっかり記入してくれているようだ。
「挙動不審な人とかいた?」
「いえ、全然。ちょっとくらい、居心地悪そうにする人がいるかもと思って見てたんですけど」
「まあ、加害者側には、そもそも自分がパワハラをしている自覚がない可能性もあるしねえ。あからさまに不機嫌になるとか、そういうことはないか」
人数が多かったので、全員をくまなく観察できたわけでもない。具体的なパワハラの加害者あるいは被害者になっている従業員については、この後の個別面談で見極めることになるだろう。
その前に、まずは腹ごしらえだ。
木村はテーブル上に積まれた仕出し弁当を高塚と自分の前へ移動させ、「とりあえず食べましょう」と一声かけて割り箸を割った。
「今日だけで、従業員の半分を二人で面談するんですから。高塚さんは午前中さんざんしゃべった後ですし、ちゃんと食べておかないともたないですよ」
美食家の高塚は、お弁当ってごはんが冷たいからあんまり好きじゃないんだよねなどと言いながらも、割り箸を横に倒して二つに割る。片方だけが細くなってしまったことに不満げな表情をしていたが、左手で、さっき従業員たちから回収したばかりのアンケートをぱらぱらとめくりながら食べ始めた。面談開始までに五十人分すべてにきちんと目を通すのは難しそうだ。
株式会社スドウはここ二、三年で大きく業績を伸ばし、規模を拡大している。
最近になって勤怠管理システムなども扱うようになり、業務効率化などのオフィスマネジメントに関する部署ができて、社員も大分増えたようだ。現在は賃貸ビルの二フロア、七階と八階をオフィスとして使っている。
講習の前、須藤社長じきじきの案内で、社内を見せてもらった。社長が客を連れて社内を歩き回っていても、従業員たちに萎縮した様子はなかったから、彼の言っていたとおり、もともと風通しのいい会社なのだろう。
主に見て回った七階には、フロアの半分をぶち抜いて作られた広々とした執務室のほか、大小二つの会議室、応接室があり、エレベーターホールと反対側の端に設けられた、社員の休憩用の小さなラウンジには、飲み物の自販機とテーブルに椅子、それから、例の意見箱が設置されていた。
意見箱は七階と八階に一つずつあるラウンジにそれぞれ設置されているそうだが、二通の投書がされたのは七階のラウンジに置かれていたほうだ。
そのことを考えると、おそらくパワハラがあったとされるのも七階でのことだろうが、講習は全員に受けてもらったし、面談も全員に対してすることになっている。
人数が多いので、面談は二日に分け、今日は七階に入っている営業部と広報部の、管理職以外の従業員たちだけだ。管理職はその時間、会議があるので、二日後に、八階の部署の従業員たちとまとめて面談する予定だった。
上品な昆布出汁の湯葉巻きや卵焼きを堪能して、空になった弁当の容器に手を合わせる。
弁護士は食べるのが速い。基本的に忙しく、仕事の合間に急いで食べるからで、木村も修習生のとき、弁護士事務所で修習してから早食いが習い性となっていた。
容器に蓋をしながら目を向けると、高塚の弁当はまだ半分ほどが残っている。彼は弁護士にしては時間をかけて食べるほうだが、それにしても今日はゆっくりだな、と思ったら、
「はい、この二枚、『パワハラを人から聞いた・相談を受けた・目撃した』の項目に〇がついてる」
アンケートの束の中から、二枚を差し出された。
弁当の陰になって見えていなかったが、高塚は、食べながら、従業員から回収したアンケートの内容をチェックして選り分けていたらしい。
「この項目に〇がついてるのはこの二枚だけだね。自分がパワハラをされた、した、っていう項目に〇をつけた人はゼロ。こっちの束は七階の従業員たちから集めたやつだから、やっぱりパワハラがあるのは七階に入ってる部署ってことだろうね。えーと、広報と営業か」
急いで、渡された二枚に目を通す。
『パワハラをされた・そう感じたことはありますか』いいえ。
『パワハラをした・したかもしれないと思ったことはありますか』いいえ。
『パワハラを人から聞いた・相談を受けた・目撃したことはありますか』はい。
『具体的な内容をお聞かせください』廊下で、ドアごしに怒鳴り声を聞いた。応接室から、仕事ぶりや性格について批判している声を聞いた。
社長への投書の内容とも一致する。この二枚のアンケートを書いた人が、投書をした二人、ということだろうか。
「自分がパワハラをされた、って項目に〇をつけた人はいなかったんですよね。目撃したって人は少なくとも二人いるのに」
「うん。自分のことは言いにくい、っていう心理があるのかもしれないね。匿名のアンケートなら答えてくれるかと思ったんだけどな」
パワハラに遭っているのなら、それを会社に訴えるまたとない機会だというのに。匿名でさえそれを言わないことに、どんな理由があるのかわからない。
パワハラを見聞きしたという声が二件もある以上、パワハラ自体が存在しないとは思えなかった。
「被害者はすでに退職済とか?」
「社長に聞いた限りでは、最近辞めた従業員はいないそうだよ。長期休職中の人も」
「じゃあ……本人は、相談する気がない? 気にしてないとか……聞いた人が心配しすぎているだけで、熱の入った指導にすぎなかったとか。叱られた側も、パワハラだとは思っていないのかも」
「本当に本人が気にしていないならいいけどね、苦痛は感じているのに言えない理由があるんだとしたら放ってはおけない。でも匿名のアンケートでも書けないなら、面談でも自分から積極的に話してくれることは期待できないかもね」
そうなると、話を引き出せるかどうかは、聞き役の自分たちにかかっているわけだ。しかし、今日一日で一人につき十五人ほどの話を聞かなければいけないのに、一件にじっくり時間をかけてもいられない。
「告発者のほうだけでも特定して、話を聞いておきたいところだね。木村くん、食べ終わったなら例の投書出して。持ってきてるでしょ」
「あ、はい」
慌てて鞄から、ファイルに挟んだ投書を取り出してテーブルの上に置く。
弁当の容器を脇に寄せ、二枚のアンケート用紙と並べた。
「内容もだけどさ、このアンケートの字、投書の字と似てるよね。夜に忘れ物をとりに来て……ってほう。多分この人が投書したんだよ。でも、こっちのアンケートはちょっと筆跡が違うかな。わざわざ筆跡を変えてるってこともないだろうし……」
高塚はたけのこの煮物を口に放り込んで箸を置き、指先でアンケートの自由記載欄を示す。
こっち、と彼が指したアンケート用紙の文字は、確かに、投書の文字とは筆跡が違う気がする。
しかし、もう一枚のアンケート用紙は、投書のうちの一枚と筆跡がよく似ている。専門家ではないから断言はできないが、同じ人間が書いたものに見えた。ということは、パワハラを認識している社員は少なくとも三人いるのか。
「でもどっちも匿名だから、これだけじゃ誰かは特定できませんね」
「だね。社長に頼んで、従業員の筆跡がわかるものを持ってきてもらうしかないかな。今日の面談で目星がつけられればいいんだけど、最悪、一人ずつチェックしていくことになるね」
まあでも七階の従業員に絞れるだろうから、実質的に三十人分かそこらだよ、と言って、高塚は食事を再開する。
全従業員分よりはましだが、それなら楽ですね、とは言えない数だ。そして、間違いなく、確認作業は木村に回ってくる。高塚の言うとおり、今日の面談で、できる限り候補を絞り込みたいところだった。
「食後にコーヒー飲みますよね。買ってきますんで、食べててください」
財布をポケットに突っ込んで立ち上がる。高塚は「気がきくね」と笑顔になった。
「俺は微糖で」
「了解です」
こんな、業務とは無関係な雑用も、強要されればパワハラになり得るのか、とふと思った。
今は頼まれもしないのに自分から申し出たのだが、たとえば、高塚にコーヒーを買ってこいと言われたら、自分はそれを不快に思うだろうか。
思わないな、とすぐに答えは出た。しかし、誰もが同じ考えではないだろう。
木村は、弁護士としての高塚を尊敬していて、彼が気持ちよく仕事をする手伝いをしたい。そのためにコーヒーを買ってくるくらい何でもない。高塚が先輩ではなかったとしても、おそらくそれは変わらない。
難しい仕事や大変な仕事を回されれば、プレッシャーも感じるが、期待されているような気がして嬉しい。それは、高塚に悪意がない――善意まであるかどうかはさておき――のがわかっているのと、木村にも、彼の役に立ちたい、認められたいという思いがあるからだ。
結局のところ、本人同士の性格と関係性によるのだろう。逆に言えば、親しい関係だからかまわないと思っていたことが、実は一方的な思い込みだったということもあり得る。
同じ行為でも、人によってパワハラだと感じたり感じなかったりもする。被害者によって感じ方が違う、というのは当然として、問題は、Aさんにされるなら嫌ではないがBさんにされると苦痛、という場合だ。そういうとき、Bさんに、それはパワハラですと言ったとしても、「Aさんも同じことをしているじゃないか」「それは差別的扱いではないか」と言われてしまうことがある。
そうではない。そうではないのだが、理解してもらうのには苦労する。
今回の件でも、加害者にはパワハラの自覚がないかもしれない。被害者だけでなく、加害者への対応も、慎重に行う必要がある。
ドアに手をかけたところで、あ、木村くん待って、と呼びとめられる。
振り向くと、ブランドものの財布を差し出された。
「はい財布。木村くんも好きなの買っていいからね」
「ありがとうございます……」
小銭とか入ってるのかなこの財布、と思いながら受け取った。薄さから考えても、万札とカードだけで構成されていそうだ。小銭がなかったら自分が出そう、とポケットに入れた自分の財布はそのままにして部屋を出た。
昼休みはもう終わる時間だが、須藤社長がスケジュールに余裕を持たせてくれたので、面談の開始まではまだ十分ほど時間がある。
自販機に、缶コーヒーも売っていたはずだ。
ラウンジへ行くと、従業員たちはすでに昼食を終えて執務室へ戻ったようだったが、水色のユニフォームを着た若い女性の清掃員が、丸テーブルを拭いていた。木村が入ってきたのを見て小さく会釈をすると、作業を中断して出て行ってしまう。「コーヒーを買いに来ただけなので、気にしないでください」と声をかける間もなかった。従業員がラウンジで仕事の話をすることに配慮して、人がいないときに作業をするように言われているのだろう。
昼と夜に清掃業者が入っていると、須藤社長から聞いていた。その甲斐あって、オフィス内はどこも清潔で、きちんと片付いている。作業を中断させてしまったが、ラウンジも、特に掃除が必要なようには見えなかった。
投書がされていたという意見箱は、ラウンジの隅、自販機の傍らに置かれていた。設置場所としては悪くない。従業員が近づいても自販機のそばだから怪しまれないし、廊下からは見えない位置だから、人がいないときを見はからって投書できる。
高塚の財布に小銭はほとんど入っていなかったので、自分の財布から小銭を足して、缶コーヒーを二本買った。千円札を崩してもよかったのだが、財布が重いと高塚に文句を言われそうだ。
腰をかがめて取り出し口に手を伸ばしながら、ひっそりと置かれた意見箱を横目で見る。
誰かがこっそりここに来て、この中に投書をしたのだ。偶然パワハラらしいやりとりを耳にしてしまい、放っておくのは忍びなくて?
もしかしたら告発者は、自分自身のことを書いたのかもしれない。誰かに気づいてほしくて、第三者からの投書という体にして助けを求めたのかも。
だとしたら社外の弁護士との個人面談は、被害を訴える絶好の機会だ。
しかし、投書でもアンケートでもはっきりとパワハラの内容を書かなかった告発者は、面談でも、自分から進んでは具体的なことを話さない可能性もある。小さなサインも見逃さないようにしなくては、と気持ちを引き締めた。
両手に缶コーヒーを持って廊下に出ると、スーツを着た三人が執務室から出てくるのが見えた。
ぴしっとパンツスーツを着こなした四十代くらいの女性と、三十代くらいに見える男性が二人だ。朝、須藤社長に社内を案内されたときに紹介され、一度挨拶を交わしていた。確か、女性がこのフロアの統括部長の泉田で、男性二人はそれぞれ、営業部と広報部の主任だったはずだ。名前は、と記憶を呼び起こす。そうだ、宮本と永山だ。眼鏡をかけた細身のほうが広報部主任の宮本で、スポーツマンタイプの短髪が営業部主任の永山。
このフロアの管理職三人だ。パワハラの加害者である可能性が一番高い三人、ということになる。
彼らは午後からは会議だと聞いている。会議室へ向かうところだろう。木村と高塚が小会議室を使うので、今日の会議は大会議室を使うらしい。
「先生。お疲れ様です。講習、ありがとうございました。これから面談ですか」
先頭にいた泉田部長と目が合って、挨拶をされた。講習をしたのは高塚で、木村はPCでスライドを操作したり、資料を用意したり、助手として動いていただけだが、その場にいたことには気づかれていたらしい。
「あ、はい。まだ準備中ですが」
「私たちの面談は後日ですが、よろしくお願いします」
一歩後ろにいる二人も、「よろしくお願いします」と言って頭を下げる。姿勢がよく、爽やかで感じがよかった。
誰も、パワハラをするようには見えない。
会議室へ向かって歩きながら、何やら話している様子を見ると、三人の関係もよさそうだった。
だからこそ、あの中の誰かにパワハラをされても、被害者は周囲に相談しにくいというのはあるかもしれない。
塵一つない、傷もない完璧な職場に見えても、投書があった以上、誰かが傷ついているのだ。
その事実に社長である須藤が気づいて、従業員全員との面談の機会を設けてくれて本当によかった。
まだ被害者の声は聞こえない。
声をあげられずにいるのなら、どうにかして自分たちが拾いあげなければならない。
「悲鳴だけ聞こえない」は全4回で連日公開予定