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 漆原うるし ばらです、と名乗ったその男性従業員には見覚えがあった。講習の後、応接室まで案内してくれた、あの眼鏡の従業員だ。

 四件目の面談だ。これまで面談した三人は、パワハラに遭ったことも、他人へのそれを見聞きしたこともないと言っていた。泉田部長をはじめとする上司たちの印象についても尋ねたが、彼らを悪く言う者は一人もいなかった。それどころか、泉田部長は皆から尊敬され、憧れられていて、宮本永山両主任も、それぞれの部下から頼られているようだ。

 話を聞いた三人ともが、仕事の内容には満足しており、人間関係にも問題はなく、職場環境に不満はないと言うので、面談はあっというまに終わってしまった。従業員の満足度が高いというのはすばらしいことだが、こんなにも皆が職場大好き、と言っている中では、パワハラに遭ったとはなかなか言い出せないだろう。声をあげられずにいる被害者の気持ちが、少しわかった気がした。

 そんな中、入ってきた漆原は、前の三人と比べるとどこか緊張した様子で、なかなか目が合わなかった。

 お、と思ったが、表情や態度には出さないように気をつけて、「どうぞお座りください」と声をかける。

 漆原は広報部の人間なので、直属の上司は宮本だ。その上に泉田がいる。永山とは直接の上下関係にはないが、フロアが同じで、部署同士も連携をとることが多いようだから、交流はあるだろう。

 彼らについての印象を訊くと、三人とも仕事ができて、尊敬している、と答えたが、そう言いながら漆原は木村を見なかった。居心地悪そうに、自分の腕をさすっている。

 これは、と確信し、表情を観察しながら、慎重に質問した。

 パワハラに遭ったことはあるか、したことはあるか、という質問については明確に否定したが、他人へのそれを見聞きしたことがあるかという質問に対しては、彼は即答できず口ごもる。

 ここで、無理に聞き出そうとしたり、せかしたりすべきではない。

「ちょっと気になる、くらいのことでもかまわないので、教えていただけると助かります。漆原さんから聞いた、ということはもちろん、どこにも漏らしませんので」

 相談においては、まず、プライバシーが確保されていることを相手に伝えて安心させること。相手の言うことには弁護士側から意見を述べたりはせず、事実のみを聞き取ること。

 今日の個別面談を二人で分担することになったときから、高塚に注意するように言われていたことだ。

「実は、パワハラかもしれないやりとりを見聞きした、という投書が複数あったんです。もちろん、調査して何もなければそれでいいのですが、こういうことは、心配しすぎて悪いことはないですから」

「複数の……そうですか」

 漆原の表情が緩んだ。

 ほぼ間違いなく、投書をしたうちの一人は彼だろうが、自分以外にも誰かがパワハラを報告しているとわかり、少し安心したようだ。責任が分散されたように感じているのかもしれない。

 それでもしばらく逡巡する気配を見せてはいたが、やがて、「勘違いかもしれないんですけど」と前置きをして話し始めた。

「先月末の金曜に、忘れ物をして、会社にとりに戻ったんです。もう誰もいないと思っていたのに、執務室に電気がついていて……でも、執務室には人はいませんでした。それで、忘れ物だけとって戻ろうとしたら、小会議室から声が聞こえてきて」

 そこまで話して、一瞬、迷うように視線を泳がせる。

「その、怒鳴り声というか。……罵倒しているような声でした」

 その時のことを思い出したのだろう、また、居心地悪そうに右手で左腕をさする仕草を見せた。

「それが誰か、心当たりはありませんか」

「……いいえ。男性の声だったことくらいしか」

 また目が泳いだ。嘘かもしれない。しかし、言いたくないのなら追及するのは得策ではない。

「もしかしたらこの人かな、というようなこともわかりませんか?」

「……はい」

 疑っている相手がいても、自分が告げ口するようなことはしたくないのだろう。おそらく、間違っていたらその相手に申し訳ない、と思っているのだ。

「そのとき、残っていた従業員が誰かはわかりますか」

「わかりません。誰のデスクに鞄が置いてあるかとか、執務室に入ったときは特に気にしなかったので」

 漆原から、これ以上当事者のヒントを聞き出すことは難しそうだと判断して、質問を変える。

「その罵倒は、仕事の内容について叱るようなことだったんですか?」

「わかりません。でも指導というには、かなり強い調子でした」

「何時頃でしょうか」

「夜の……九時過ぎです。九時半近かったかな」

 そんな時間まで残業をさせて、他に人のいないところで部下を怒鳴りつけていたのだとしたら、それだけでパワハラを疑われても仕方がない。叱っていたほうも残業していたのだろうから、仕事が思うように進まず苛立いら だっていたのかもしれないが。

「どんなことを言っていたか、少しでも、内容を憶えていませんか」

 すぐに立ち去ってしまったのなら、多くは聞いていないだろうが、少しでも内容がわかれば、当事者が営業部か広報部かのヒントにはなるかもしれない。そう思って尋ねる。

 漆原は視線をあげ、言いにくそうに、はっきり聞こえたのはほんの一部ですが、と口を開いた。

「……死ね、とか、そこから飛び降りろ、とか」

 思っていた以上に明確なパワハラだった。

 

 漆原の後、四人と面談し、五人目が代永しろ ながという女性の従業員だった。

 彼女も、漆原と同じ広報部の所属だ。

 椅子に座るなり、正直に話したほうがいいんですよね、と言われ、木村は「もちろん」と答えた。こういう質問が出るということは、話すことがあるということだ。

 前のめりになりそうなのを抑えて、本人の承諾なく話の内容を社内の人間に漏らすことはないと約束する。

 彼女が安心したように頷いたので、まずは三人の管理職たちの印象から尋ねた。

 泉田は仕事ができてかっこいい、憧れる、広報部の宮本は真面目すぎるところがあるが、上司としてはかなりいい、営業部の永山はちょっと苦手なタイプだ、と彼女は回答した。

「それはどうしてですか? 苦手に思うような出来事があったんでしょうか」

「そういうのは特になくて……なんとなくです。いい人だけど、やる気に溢れてて、誰より率先してバリバリ働くタイプだから、下の人間は大変そうだなって。私は部署が違うからあんまり関係ないんですけど」

 体育会系のタイプが苦手、ということだろうか。しかし、永山が部下に無茶な量の業務を強要しているとか、指導に熱が入って怒鳴りつけてしまうとか、そういう具体的なエピソードがあるわけではなさそうだった。私が勝手に苦手なタイプとか言ってるだけで、営業部での評判はいいと思いますよ、と代永もフォローのようなことを言った。

「営業部は、永山主任と似たタイプの社員が多いから、大変だとも思ってないかもしれません。よーし主任があんなに頑張ってるんだから自分たちも頑張るぞ、みたいな感じで……雰囲気もいいですよ」

 泉田は皆に尊敬されているし、宮本と永山も仕事ができるだけでなく同期で仲がいいので、連携もとれていて、七階のフロア全体がうまく回っている。適材適所で、職場環境もよく、人間関係の風通しもいい。

 代永の主観なので鵜呑みにはできないが、概ね、木村が社内の様子を見たり、須藤社長や従業員たちから聴取をして受けた印象と一致する。

「じゃあ、パワハラの気配を感じたことは全然ないですか? ちらっと、もしかして、くらいでも」

 さっきの口ぶりからすると、何かはあるはずだ。そう思って、一歩踏み込んでみる。

 代永は、漆原のように口ごもるのではなく、そうそう、と思い出したかのように言った。

「私は見たことはないんですけど……あ、えっとさっきのアンケートも、『人から聞いた・相談を受けた・目撃したことがある』に〇つけちゃったんですけど、それ、私が見たってことじゃなくて。同僚が、パワハラを見るか聞くかしたらしくて、それで相談されたんです。相談ってほどでもないかな……これってパワハラかな、みたいな感じで訊かれました」

「同僚の方がそう感じたやりとりは、具体的にはどんな内容だったかわかりますか」

「私が直接聞いたわけじゃないから、詳しくはわかりません。でも、仕事ぶりについて叱っているような感じだったそうです。トイレに行く途中で、応接室で話している声を聞いたってことだったと思いますけど」

「日時はわかりませんか」

「さあ……そこまでは聞いていません」

 その、代永の同僚というのが、もう一枚の投書をした従業員かもしれない。しかし、今日回収したアンケートの中に、パワハラを見聞きしたという内容のものは二枚しかなかった。今の話からすると、そのうち一枚は、代永の書いたものだ。もう一枚が漆原の書いたものだとすると、実際にそのやりとりを聞いたという代永の同僚は、アンケートではパワハラを見聞きしたことを書かなかった、ということだ。何か、心境の変化でもあったのだろうか。

 代永が、本人の承諾なく名前は教えられないと言うので、パワハラを聞いたという同僚のことは聞き出せなかった。

 弁護士が話を聞きたがっている、プライバシーは守るから、とその同僚への伝言を頼んで、代永との面談は終わった。

 

「悲鳴だけ聞こえない」は全4回で連日公開予定