「大丈夫だよ、慣れれば」

「でも、これが頭に入ると全体締まるよね」

 真由と亜紀がみんなに声をかけた。

「だと思うんだ。まずやってみよ」

 由香の言い方は誰かに何かを押しつけるようなところがなかった。無意識のうちにそういうしゃべり方ができるところが、由香が人を惹きつける要因にもなっていた。

「やりますか」

「うん」

 メンバーたちも少し前向きになってきたところで由香が先頭に立って全員で振りをやってみた。

「手拍子お願いします! せーの!」

 由香の合図と共に下級生が手拍子でメンバーを煽っていく。もちろん最初から揃うことはない。何度も繰り返してそのパートを踊った。

 こういう瞬間っていいなと、由香は思う。それがダンスだからなのか、他のものでもそうなのか、由香にはわからない。しかし、何かしらみんなが一つの物事に集中していくプロセスに立ち会えることは、由香の心を熱くする。心の中に芯みたいなものがあるとすれば、そこにポッと着火したような気分だった。

 エイミー・ワインハウスのイントロが響き、由香たちは全身が弾けるように踊っていた。顧問の中崎が戻り、厳しい目つきで観察していた。4小節目から始まる新しい振り付けのところに曲が差し掛かり、由香は大きめにみんなをリードした。それに呼応して全員がそのパートを無難に乗り越えた。

「よーし、いいぞ!」

 中崎の声が響く。床にはみんなの汗が飛び散り、アリーナの空気は熱く湿っていた。

 一瞬、ジャンプして大きく蹴り上げた右足を支えるはずの左足が着地する時にズレた。由香はスリッピーな床に足を取られ、身体が数センチ浮いた。受け身を取る間もなく背中から落ち、後頭部を強く床に打ちつけた。ゴン! と鈍い音がした。

「痛っ!」

 由香は痛みで全身が痺れたような感覚に襲われたが、すぐに立ち上がりそのままダンスに戻った。

「原田ー! 何やってんだ! 試合近いんだぞ。集中力が足りねぇんだよ! 気合い入れてけよ、おらっ!」

 中崎の怒声が飛んだ。

「はいっ!」

 由香は踊りながら返事して激しく頭を前後に振り、長い髪を舞わせるようにして最後まで踊り続けた。

 曲が終わり、メンバーが大きく肩で息をしている。下級生が気を利かせて扉を開けた。風が吹き抜けた。

 由香は息を弾ませながら全身を撫でる風を感じていた。風も気持ちよかったが、踊り切ったあとの感じも最高だった。

 急に後頭部が痺れてきた。

「大丈夫?」

 隣にいた真由が駆け寄った。

「大丈夫。焦ったぁ、まじ滑るし」

「原田、念のため保健室行っとけよ!」

「はい!」

 こんな時は意外とやさしい中崎の声に、由香は大きな声で答えた。駆け寄って来た下級生が凍らせたポカリスエットのボトルを渡してくれた。

「ありがと。あー、まじ気持ちいい」

 由香は冷えたボトルを首の後ろに当て、アリーナの扉から入ってくる風に目を閉じた。

「じゃー、今日はこれで終了! 二年で三者面談あるやつは早く着替えて準備しとけよ!」

「お疲れさまでしたぁ!!」

 部員たちが一斉に挨拶をした。ダンス部という文化系の響きに反して、ノリは体育会系の統率感だ。

「大丈夫?」

 亜紀が由香の後頭部を覗き込んだ。

「あ、コブになってきた」

「えー? ちょっと見せて。ああ、なんかちょっと腫れてるよ。まじ嫌な音したから焦った」

 と真由が笑う。

「後ろから見てて、ちょーびっくりした。由香の身体がスローモーションみたいに倒れてくるんだもん。保健室行く?」

 亜紀が心配そうに言った。

「ちょっとジンジンしてきたかも。でも、大丈夫」

 そう言いながら、由香は今日の三者面談は飛ばしだな、と考えていた。

 

 裕子は少し早めに学校に着くと、駐車場に車を停め、グラウンドのほうに回ってみた。野球部が大きな声を張り上げながらバッティング練習をしていた。みんな埃まみれだった。この高校のレベルでは、甲子園など望めるはずもないのだが、それでも生徒たちは一生懸命だった。

 指定された教室に行くと、何組かの親子が順番を待っていた。由香はまだ来ていなかった。次の次が順番だったので、裕子は近くを軽く捜したが由香は見当たらない。携帯を取り出し、由香に順番が近いことをLINEした。もうすぐ来るだろうと思っていたが、いくら待っても由香は現れなかった。

 担任の林田という教師は憮然とした顔で進路希望調査票を眺めていたが、やがて「他の親御さんを待たせるわけにもいきませんから、またの機会ということで」と席を立つと、次の生徒を呼びに行った。

 裕子は林田に平謝りで、改めてまた三者面談させてくださいと言い残し、教室を出た。

 裕子は舌打ちしながら大股で車に戻り、由香の番号をワンプッシュで押した。留守番電話に切り替わるときつい口調で「至急電話ください」とメッセージを残した。

 

 夕方近くの下北沢は、夕飯の買い物客や無目的な若者たちが入り交じり混雑していた。由香は南口へ向かった。ゲームセンターの騒音がイヤフォンをしていても聞こえてくる。携帯ショップや古着屋の呼び込みやスニーカーショップの店外放送も聞こえてきた。どれも音楽に交じって効果音程度にしか聞こえない。

 由香は慣れた様子で人混みの中を泳ぐように歩いた。

 下北沢駅付近は小田急線複々線化による地下トンネル工事が盛大で、街の混沌に、さらに拍車がかかっていた。

 小さな路地を二つ、ひょいひょいと曲がると、由香のお気に入りの店がある。そこはセレクトされた新譜と中古盤を置いてあるCDショップで、店主とも顔馴染みだ。由香は扉代わりのビニールのシートをくぐり、中に入った。

 店主が顔を上げて「おう」と小さく言うと、由香も「こんにちは」と返した。見る棚の順番は決まっている。ハウス・ヒップホップとR&B。それからワールドミュージック。由香はイヤフォンを外して店主に聞いた。

「なんかいいの入りました?」

「今月は由香ちゃんにお薦めできるのは、まだないかなぁ。でもオレの好きなのなら入った」

「かけてくださいよ」

「もうかけてるよ」

 店内の音楽に耳を傾けると、アコースティックなサウンドの曲がかかっていた。やさしくて悲しい印象がある声だった。

「70年代にハワイで少し活動していたシンガーソングライター。奇跡の一枚」

「へぇ」

「あの頃、一枚はすごくいいアルバム作る人って、けっこういたんだ。でもなぜか後が続かない。二枚目以降はそんなによくない。これは彼女のいい時の一枚」

「そーなんだ」

 なんだかそういうのって切ないな。

 たった一枚でも素晴らしいアルバムができたことをよしとするか、その一枚だけで才能が涸れてしまったことを悲嘆するか、私ならどっちだろう。

 由香は店内のスピーカーから流れる、かつてのハワイの歌姫の声をしばらく聞いていた。メロディもアレンジもシンプルで、声に人の心を惹きつけるウエットな響きがあった。

 この人、好きかも。

「これ、ください。じっくり聞いてみます。奇跡の一枚」

「嬉しいな。由香ちゃんの世代が聞いてくれたら、ハワイの彼女もきっと喜ぶよ」

「生きてるんだぁ」

「当たり前でしょ。音楽活動もまだやってるらしいよ、細々と」

「ふうん」

「人生は続く。厳しいが、美しい」

 由香は店主の格言めいた言葉に笑いながら相槌を打ち、ハワイで老いた彼女が、小さなステージで歌っている姿を想像した。

 白くなった金髪が海からの風に揺れて、もしかしたらバックでギターを弾いているのは旦那さんか息子さんかもしれない。そう考えると、それはむしろ幸せなんじゃないかと思えてきた。

 由香は北口に戻ると、銀行の前に停めた自転車を取り出した。ここは定められた駐輪スペースではないため運が悪いと撤去されてしまうのだが、他に停める場所はないのでいつもここに停めている。

 鍵を外すのに屈んだ瞬間、一瞬目眩がして、さっき練習中に転んだ時にできたコブがピリッと痛んだ。思わず左手で押さえた。

 混雑した駅前の老舗スーパーのピーコック前は避け、西口回りに自転車を走らせた。由香は人混みをうまく避けながら、慣れた道を走った。

 ブレーキをかけずに家まで走り切れたら由香の勝ち。そうでなかったら街の勝ち。

 意味はないが、子供の頃からそんな風に決めていた。勝っても負けてもどちらでもいい、小さな自分との勝負だ。

 イヤフォンから由香たちのエントリー曲がフルボリュームで流れた。由香はすいすいと街を走った。夕方の風が気持ちよかった。

 時計を見ると、今夜、修一と行く予定のライブまで、まだ時間があった。それに、このまま帰って母と鉢合わせするのも気まずい。由香は何かいい時間つぶしはないか考えた。

 そうだ、ちょっと遠回りしよう。この曲を聞きながら「あの坂」を全力で下り、その勢いでノンストップのまま坂を上り切る。そこから環七までブレーキをかけずに走り切れたら地区大会優勝、そう決めた。我ながらいいアイデアとばかりに、由香はスピードを上げて鎌倉通りを右に曲がった。「あの坂」とは由香が小さい頃住んでいた代田六丁目にある、急な坂のことだ。その坂を下り切ったところの細い路地裏にあるアパートで、由香は小学生になるまで暮らしていた。

 鎌倉通りをしばらく走ると昔から行きつけの食料品店と甘味屋がある。その角を左に曲がった。そうすると下北沢にしては広い道に出る。住宅街の上に空が抜けて見える。空は薄暮になりかけていた。

 車が前から来ないことを確認して、由香はギアを一段上げスピードに乗った。すぐに下り坂だ。通りには誰も歩いていなかった。

 ラッキーかも……。由香は音楽に合わせて鼻歌を歌い、自転車を漕いだ。下り坂に差し掛かりスピードがさらに増した。よし、いける、そう思った時、ポケットの中の携帯が着信し、イヤフォンに大きくコール音が響いた。一瞬、気を取られ視線を下げた。その拍子に、痺れたような激痛が由香の後頭部を再び襲った。

「痛っ……」

 反射的に目をつむった。目を開けると十字路のカーブミラーには人影が映っていた。

 由香は環七側からの下り坂を猛スピードで滑ってくるスケボーに乗った若者と、スピードのピークで正面からぶつかった。お互いが一瞬、右に避けようとしたが間に合わなかった。激しい衝突音があり、由香の自転車が四つ角の接骨院の階段まで吹っ飛んで大きな音を立てた。由香はぶつかった衝撃で自転車から斜めに放り出された。そして、車道の縁石に右側頭部をひどく打ちつけた。反動で身体が勝手にバウンドし、左側頭部もカーブミラーの芯棒にぶつけた。鈍い音が頭に響き、由香の意識は途切れた。

 やがて、大きく乱れて広がった由香の髪の下から、鮮血がゆっくり広がっていった。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください