由香の通う都立K高校のダンス部は毎年地区大会に入賞するレベルにあったが、優勝にはいつもあと一歩足りなかった。由香は今年の選抜メンバーに入り、センターを任された。大会に懸けるメンバーのモチベーションはそれぞれ高かったが、全員が将来プロのダンサーを目指しているわけでもないし、技術レベルが同じわけでもない。上級生も含め、どうみんなをまとめていくかを考えると頭が痛い。
大会エントリー曲は由香の選曲だった。大好きなアーティストのエイミー・ワインハウスとシュープリームスの曲のリミックスだ。みんなはもっとメジャーなのがいいと文句を言ったが、曲のインパクトは重要なんだからと根気強く説得したのだ。ブラックミュージック色が強くキャッチーなサウンドは、由香の作り上げたいダンスのイメージにぴったりだった。2分17秒にまとめたこの曲にすべてをぶつけたかった。由香は頭の中で振り付けを何度も反芻した。
授業中だったが、たまらなくその曲が聞きたかった。さすがにイヤフォンをするわけにはいかないので、頭の中でリズムを取り、イメージの中で踊った。授業の音を頭の中でいったん消し去り無音にする。そしてプレイヤーの三角マークを押す。頭の中に音楽が聞こえ始める。由香はそんな作業が自然とできた。
由香は、イメージの中で羽が生えたようにキレのいいダンスを踊った。目を軽くつむると、脳から出された信号が手足の先の先まで瞬時に伝わり、音楽の持つ細かいリズムの振動にまで反応できた。頭の中で繰り返し同じフレーズを正確にループさせて踊った。机の下でみんなにわからないように細かくステップを踏む。小刻みに肩が揺れた。由香の周りに音楽が滲み出し、全身をグルーヴが包み込んでいた。
iPhoneのバイブが短く振動した。彼女はびくっとして、こっそり机の下で画面を見ると、それは武藤修一からのLINEだった。
『いま踊ってたでしょ』
由香は驚いて後ろをちらっと見た。修一と目が合った。素早くLINEを返信した。
『なんでわかった?』
『見てればわかるよ』
由香は小さく微笑みiPhoneをそっとポケットにしまった。
昼休み、弁当箱を開けると白と赤と緑がパッと目に飛び込んだ。
「由香の弁当って、いっつも色がきれいだよね」
河北真由がため息をついた。
「うちのはダーク」
伊藤亜紀が自分の生姜焼きメインの弁当を食べながら笑った。
「でもうまそうじゃん」
由香はそう言いながらブロッコリーを齧った。真由と亜紀の二人は親友だ。同じダンス部の選抜メンバーでもある。
「それよりさ、さっき現国の時思いついたんだけど、4小節目の右手の振り、こうしたらどうかな?」
由香は箸を持ったまま右手を器用にくるくると回して二人に見せた。
「あー、それいいかも」
「でも複雑過ぎて全員で合わなくない?」
「めっちゃ練習すればいけると思うよ」
「やりますか」
「ですね」
真由と亜紀は由香の真似をして右手をくるくると回した。
昼食を終えて昼休みがあと十五分になった頃、由香と修一は屋上にいた。遠くに小田急線の快速急行が新宿方面に向かうのが見えた。
「ハーブティだけど、飲む?」
由香は飲みかけの細いステンレス製の水筒を修一に差し出した。
「薬っぽい」
ひと口飲むと修一は顔をしかめた。
「カモミールだよ。精神が安定してよく眠れる効果があるって、ママが最近凝ってる」
「じゃあ、これで五限はぐっすりだな」
「ホントだね。うちの親も何考えてんだか」
「由香のママ、由香のこと大好きだからな」
由香はそれには答えず、修一から戻ってきた水筒をひと口飲んだ。
「風が気持ちいいね」
由香は雲を見た。
「うん」
「五月が一番好きだな」
「うん」
「なんか始まりそうな気がする。ていうか、始めたくなる」
「出た、前向き発言」
「シュウは何月が好き?」
「五月」
「なんで?」
「なんか始まりそうな気がする」
由香が軽くぶつ真似をすると、修一は笑顔になった。
「今日も踊るの?」
「もちろん」
「明日も踊る」
「そう」
「永遠に踊るの?」
「うん、そうだね」
由香は自信たっぷりに頷いた。
修一は、視線を空に逃がし雲を追いかけた。
「いいな、由香は。確信があって」
「シュウだって」
「自分のレベルくらい、自分でわかるさ」
「自分のことそんな風に決めつけるのって、よくなくない?」
「探す。何か夢中になれるもの。見つかればラッキー。見つからないとそれが一番苦しいけど」
由香は修一の横顔を見つめ、やさしく微笑んだ。
やがて、空から昼休みの終了を告げるチャイムの音が降ってきて、二人は教室に戻った。
放課後になると、すぐに着替えてダンス部の練習が始まる。ある意味、この時間のために、今の由香は学校に来ているようなものだ。
「今日はバレー部が外練だから、ウチらがアリーナ使えるよ」
真由がストレッチしながら由香に話しかけてきた。
「おお。ラッキー」
身体にフィットしたTシャツが、由香の形のいい胸の曲線を強調していた。由香の手脚はすらりとしていて、実際の身長より大きく見える。制服だと周囲に溶け込んでさほど目立たないが、ダンス用の練習着を身に着けると、そのスタイルのよさは際立った。
「いっつもこのデッドスペースじゃ、息が詰まるしね」
「じゃあ中崎、気合い入れんだろうなぁ」
「そーだね」
体育館のスペースを各運動部がどう使うかは常に競争で、強い部のほうに優先権があり、ダンス部はいつも体育館脇のデッドスペースにある大きな鏡の前に押しやられていた。顧問の中崎が若いこともあり、バレー部の顧問との力関係でいつもダンス部が割を食っていたというのもある。アリーナというのは、体育館内にある音響設備も整った、そこそこ広いスペースのことで、ダンス部員はそこをアリーナと勝手に呼んでいた。
「集合ー!!」
中崎の大きな声が響くと、由香たちはきりっとした返事をしてアリーナへ走った。
「えー、地区大会も近くなってきたから、これからちょっと気合い入れて練習するぞ! タラタラやってるとどつくから覚悟しとけよ!」
無駄にテンションの高い中崎に由香は内心笑いたかったが、それを堪えて勢いよく返事をした。
「ストレッチ終わってるかー?」
「はい!」
「じゃ、選抜、前に整列っ!」
一年生が音響室へと走り、曲をセットした。選抜メンバーが素早く整列し、位置に着いた。選抜以外の部員がその周囲に膝を抱えて座った。
「よーし、行くぞ!」
「はいっ!!」
選抜メンバーの声が響いた。中崎の合図でフルボリュームのサウンドがスタートした。イントロの一拍目で由香は音楽の世界観に瞬間的に没入した。本能的に音の先端を捕まえ、ビートに乗って躍動した。身体全体が野生動物のようにしなって弾ける。他の子たちとはワンランク違う動きだった。
由香は曲の持つ世界観だけを無心に表現した。リズムに合わせて踊っているのではなく、由香にリズムが張りついてくるようだった。
センターのポジションで取り憑かれたように踊る由香の前後左右のメンバーが、そのテンションに引っ張られている。いつの間にかメンバー十五人が一体となって踊っていた。
中崎が時々厳しい声がけをしていた。まるで褒めたら伸びないとの信仰があるかのように怒鳴り続けた。
曲が終わり、メンバーは大きく息を弾ませていた。
「だいぶ揃ってきてるが、まだまだ一体感が足りない! 原田! お前がしっかりリードしないとダメだろう! お前が早いんだよ。音をよく聞け! 身体で感じて踊らないで感覚で捕まえるからそうなるんだ!」
中崎の意味のない説教が始まった。
「もう一回行くぞー!!」
それから5セット繰り返し踊った。力みが抜けてハイになってきたみんなの息が徐々に揃い出した。それでも由香の動き出しに、ほんの少しだけメンバーは遅れた。
「早いんだよ! 原田! 考えて踊れ!」
中崎の怒鳴り声が、音楽に混じり次々に飛んできた。
「よーし、給水!」
ばらばらと散ったそれぞれがドリンクを口にした。
「由香が早いんじゃない。ウチらが由香に遅れてるだけ」
息を切らせながら真由が囁いた。
「でもそのせいで、みんなが合わない」
「次はついてく」
「あれ、やってみる?」
「やる?」
「うん」
由香と真由は小さく頷き合って整列に戻った。
「先生、4小節目の入りの振りなんですけど」
「なんだ?」
「ちょっとやってみたいことがあって」
「見せてみろ」
「はい!」
由香が自分でカウントを取りながら器用にやってみせると、おお、とメンバーが声を上げた。セクシーな腰つきで踊るステップは複雑なのに力強さがあり、指先が宙を捉えるほんの短い振りの中にはキラリと光るアクセントがあった。
「いいな、それ」
中崎は口調こそ乱暴だったが、生徒たちが自主的に提案してくることには大抵賛成した。
「よーし、みんな、これ取り入れるぞ! 原田、今日中にみんなに覚えさせろ! ちょっとしたら見に来る。それまでに形にしとけよ!」
そう言い残し、中崎はアリーナから出ていった。
「はい!」
由香は中崎の背中に大きく声を出すと、周りにメンバーを集め、細かく振りをパーツごとに分解して踊ってみせた。
「むずいって」
「由香はいいけど、ウチらはキツいって」
「今のだって、いっぱいいっぱいだし」
メンバーたちが不満の声を上げる。
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