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第一章  左腕

 

 

《防犯カメラに不審人物なし 北千住主婦殺害》

《巣鴨宝石店強盗 足取り途絶える》

《女子大生殺害から一年 手がかりなく 立川》

 コーヒーチェーンで買ってきたベーグルサンドを食べながら、城戸葉月き ど は づきは新聞に目を落としていた。今日も紙面にはさまざまな事件の続報が載っている。カフェラテを一口飲むと、葉月はカッターを手に取り、気になった記事をスクラップし始めた。

 警視庁刑事部捜査第一課の大部屋には、空席が目立っていた。ほとんどの捜査員は、所轄署に設置された特別捜査本部に出向いている。殺人犯捜査第六係に所属する葉月も、普段は所轄署に泊まり込んでいることが多かった。

 その葉月が今、桜田門の警視庁本部でゆっくりしていられるのは、先日ひとつの事件が解決したからだった。今週、六係は待機番を命じられている。重大な事件が起こるまでは、ここで事務処理をして過ごすことになっていた。

 廊下のほうから話し声が聞こえてきた。腕時計に目をやると、まもなく午後一時になるところだ。同僚たちが昼食から戻ってきたようだった。

「なんだ城戸、またひとりで『お洒落ランチ』か?」

 太い声でそう言ったのは、肩幅の広い、身長百八十センチほどの男性だ。無精ひげを生やし、遠慮のない目でこちらを見ている。先輩の別所毅べつ しよ たけしだった。この人の顔を見るたび、葉月は時代劇に出てくる用心棒を思い出してしまう。

「ああ、お帰りなさい」屈託のない調子で葉月は言った。「このお店のベーグル、美味しいんですよ。中でも私のお勧めはこれ、スモークサーモンとクリームチーズですね」

 葉月は食べかけのベーグルを掲げてみせる。別所は唇の右端を上げて、人をからかうような表情になった。

「そんなものでよく足りるなあ。まあ、おまえにはそういうお洒落な食い物が似合っているけどさ」

「城戸はキドってる、とおっしゃりたいんですか?」

 葉月が笑いながら言うと、別所は顔をしかめてみせた。

「面白くねえよ」

「すみません、まだエンジンがかかっていなくて。これを食べ終わったら、調子が出てくると思うんですけど」

 別所と葉月はともに警部補で、主任と呼ばれる立場だった。ただし年齢には差があって、葉月は三十三、別所は三十七だ。先輩に対して、葉月は常に敬意を表すべき立場にある。

「また切り抜きをしてたのか。熱心だな」

 別所はスクラップ帳を覗き込んできた。彼の巨体が近づいてきたので、葉月は椅子の位置を少し左へずらした。

「立川の事件から、もう一年か」別所は腕組みをした。「あれは七係だったっけ? うちが担当してたら、解決していたかもしれねえな」

「どうでしょうね。難しい事件だったと聞いていますけど」

「そういえばおまえ、捜査をしているとき、たまにおっかない顔をするだろう? 普段は女子アナみたいな雰囲気なのに」

「私、メリハリが大切だと思うんですよ。やるときは仕事の鬼になるし、そうでないときは力を溜めておく。ずっと鬼の形相でいたら身が持たないでしょう。皺も出来るし」

 そんな冗談を口にして、葉月は微笑する。

 別所はひとつため息をつくと、芝居がかった動きで腕組みをした。こういうところも侍っぽいな、と葉月は思ってしまう。

「メリハリもいいけど、おまえさ、黙っていればそう悪くはねえんだぞ」

 真顔で彼がそんなことを言うので、葉月はまばたきをした。

「どういう意味です?」

「落差があるんだよ。捜査の成績はいいし、そこそこ見た目もいい……と俺は思う」

 いえ、そんな、と葉月は首を振ってみせた。しかしそう言ってもらえるのはありがたいことだ。葉月は身長百七十センチ、無駄な脂肪もなく、今も若いころのスタイルを維持できている。お世辞だろうが、以前宝塚歌劇団にいた女優に似ている、と言われることもある。

「それなのに捜査中、急に強引になることがあるよな。係長もそのへんは見てるはずだぞ」

「でも、これが私のやり方ですから」

「捜査は大事だが、あまり突っ走らないほうがいいと思うんだよなあ……」

 ぶつぶつ言いながら、別所は自分の机に戻っていった。

 葉月はひとり、机に頬杖をついた。いろいろアドバイスしてくれるのは嬉しいが、今の自分にはこの方法が似合っている。じつを言うとオン、オフ、どちらの状態も葉月本来の姿ではなかった。自然な姿は今のようにニュートラルなのだが、男性中心の警察組織では女性らしさが要求される場面もあるし、そうかと思うとがむしゃらに進むべきときもある。そのへんが別所にはわからないのだろう。

 葉月はスクラップ作業の続きに戻った。こうして事件の概要を保存していくことが、将来の捜査に役立つこともあるはずだ。

 十分ほどたったころ、大部屋の一角が騒がしくなった。席を外していた波多野博司は た の ひろ し係長が、足早にやってきた。波多野は四十八歳の警部だ。所轄にいたころから多くの部下を使っていたため、捜査指揮には長けている。身だしなみにはこだわりがあるようで、三つ揃いの背広を着込み、長めの髪をオールバックにしていた。

 六係の島に戻ると、波多野は部下を呼び集めた。

「葛西駅近くのコインロッカーから、女性の左腕が出た。臨場だ」

 一斉に、捜査員たちの表情が引き締まった。

「切断された腕……」

 思わず葉月は眉をひそめた。冷水を浴びせかけられたように鳥肌が立った。

 これまでスクラップしてきた数多くの事件について記憶をたどっていく。過去に類似した犯行形態はあっただろうか。スーツケースから遺体が見つかった事件はあったはずだ。だが、コインロッカーから腕が出たというのは聞いたことがない。これは前例のない、特殊な切断事件ではないだろうか。

 ──この犯人は私が検挙しなくちゃいけない。

 葉月は自分にそう言い聞かせた。

 ほかの誰かに先を越されたくはない。その理由が、葉月にはあった。

 

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