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第一章  左腕

 

 

 腕の痛みで目が覚めた。

 おかしな姿勢で横たわっていたらしく、左腕が痺れていた。

 折口聡子おり ぐち さと こはそっと体を起こした。左腕をさすりながら辺りを見回す。そこは八畳ぐらいの洋室だった。壁には奇妙な模様の入ったブルーのクロスが貼ってある。

 ──どこなんだろう?

 ゆっくりと青い部屋の中を観察してみた。正面の壁際にシングルベッドが置かれている。左側の壁には机と椅子、天井まで届く大きな書棚、そして赤く塗装されたドア。一方、右側の壁には白いドアがあった。

 うしろを振り返るとダイニングキッチンが見えた。四人掛けのテーブル、その向こうに流し台と換気扇、電気式のコンロ、電子レンジ、冷蔵庫が並んでいる。流しの隣には靴脱ぎがあり、聡子のパンプスが揃えてあった。その先には鉄製らしい灰色のドアがひとつ。

 玄関だ、と聡子は思った。あそこから外に出られるのではないか。

 立ち上がろうとした。だが自分の体をコントロールできず、よろめいて床に腰を落としてしまった。おそらく注射された薬のせいだ。

 のろのろと玄関まで這っていった。壁に体を預けて立ち上がり、ドアにもたれかかってノブに手をかける。硬く、冷たい感触。がちゃがちゃと動かしてみたが、ドアは開かなかった。

 よく見るとノブの近くに鍵穴がある。普通なら室内側にサムターンがあるのに、ここにはなかった。どうやら特殊な構造で、内側と外側、両方から鍵でから施錠するようになっているらしい。鍵がなくては、内側からも解錠できない仕組みのようだ。

 外を覗くためのドアスコープは付いていない。ただ、膝下の辺りに縦十センチ、横三十センチほどの四角い窓があった。郵便受けにしては位置が低すぎる。窓の奥の鉄板を押してみたが、開かなかった。

 聡子は深いため息をついた。駄目だ。このドアからは出られない。

 体の向きを変え、右手の壁伝いに移動した。白いドアに近づき、ノブを回してみる。意外なことに、今度は簡単に開いた。

 中は暗い。壁のスイッチを押すと蛍光灯が点き、そこはユニットバスだとわかった。

 トイレで用を足してから壁の鏡を見ると、思い詰めたような表情の自分が映っていた。ヘアゴムを使って、うしろでひとつにまとめた髪。卵形の顔は血色が悪く、額も頬もやけに白っぽく見えた。

 ふと化粧道具のことが頭に浮かんだ。そうだ、自分のバッグはどこにあるのだろう?

 バスルームを出て青い室内を見回したが、机の上にもベッドの上にもなかった。

 中に何が入れてあったかと、聡子は考えた。化粧ポーチ、ピルケース、財布、免許証、筆記用具、折り畳み傘、読みかけの文庫本、そして──携帯電話。

 聡子は左腕に嵌めた腕時計を見た。まもなく十時三十分になるところだ。生理現象や空腹の具合からすると、午後ではなく午前の十時半だろう。

 ──ということは、あれから十二時間。

 聡子は記憶をたどった。

 昨日、仕事を終えて現場を出たのは午後六時過ぎのことだった。処置は予想以上に手間取ったが、依頼人の男性はとても喜んでくれた。さまざまな思い出が甦ったのだろう、彼はときどき声を詰まらせながら聡子に礼を言った。

「いえ、私はお手伝いさせていただいただけですから」聡子は穏やかに答えた。「お顔の色も戻ったし、本当によかったですね。みなさんにきれいな姿を見ていただくのが一番ですものね」

 自分でも、いい仕事ができたと思っていた。依頼人から心付けをもらった嬉しさもあって、帰りにレストランで食事をした。疲れが溜まっていたせいか、このとき飲んだワインが予想外によく効いた。

 最寄り駅から自宅までは、徒歩で十分ほどだ。いい気持ちで歩いているうち、近くに白いワンボックスカーが停まった。運転していた男が降りてきて「中央病院はどこでしょうか」と質問した。困っているのだと思い、聡子は彼に近づいた。そこで捕らえられたのだ。

 車に押し込まれ、手足を縛られて何かを注射された。

 夜道でワンボックスカーに押し込まれるというのは、この上なく恐ろしい体験だった。聡子は抵抗しながら、さまざまなことを思い出していた。こうした状況で拉致され、ひどい暴行を受けた女性の話を読んだことがあった。自分もそうなってしまうのか。どこの誰とも知らない男に体を弄ばれるのか。やめて! 助けて! そう叫ぼうとした。だが薬の効果は想像以上に強く、じきに聡子は意識を失ってしまった。

 そして目が覚めたときには、ここにいたのだ。

 聡子は自分の体を隅々まで確認してみた。そうして、ほっと息をついた。幸いなことに何かをされた形跡はない。

 だが安心するわけにはいかなかった。今は無事だとしても、この先どうなるかはわからないのだ。あの男は聡子を監禁して、これからじっくり乱暴するつもりかもしれない。誰にも邪魔されないこの場所で、時間をかけて欲望を満たそうとするのではないか。

 ──どうして私なんだろう。

 それがわからなかった。聡子は三十一歳だから決して若いとは言えない。特に整った顔立ちではないと思うし、仕事柄、化粧も地味なものにしている。女性らしさを強調したことなど過去に一度もなかった。それなのになぜ、という思いがあった。

 だがあの男がどんな人間で、どんな嗜好を持っているのか聡子は知らない。そうである以上、乱暴が目的だという可能性は否定できなかった。

 恐ろしい場面を想像するうち、体が震えだした。聡子は自分の体を抱くように、両手に力を込めた。

 あの男はどんな顔をしていただろう、と考えてみた。はっきりとは思い出せない。相手は帽子をかぶり、濃い色の入った眼鏡をかけていた。声の感じからすると、年齢はおそらく二十代から三十代。喋り方に粗野な印象はなかった。覚えているのはそれぐらいだ。

 流しに行って水を一杯飲んだあと、聡子は深呼吸をした。ふらつきはだいぶおさまっていた。

 聡子は三つ目のドア──書棚の隣の赤いドアを開けようとした。だがこれは玄関と同様、施錠されていて開かなかった。

 どこかに出口はないかと、部屋の中を詳細に調べてみた。ベッドの下や流し台の下まで覗いたが、抜け穴などはなかった。バスルームの天井にある点検口を押し上げてみても、狭くて天井裏を這っていくのは無理だ。机を調べてみると、三つある引き出しのうちふたつは空、幅広の引き出しは施錠されていて開かなかった。

 結局、この部屋を出るための方法はふたつしかないとわかった。赤いドアを開けるか、玄関のドアを開けるかだ。そして今、どちらのドアにも鍵がかかっている。

 聡子は再び玄関に向かった。施錠された鋼鉄製のドアを叩いてみる。

「誰かいませんか? 閉じ込められているんです。助けてください」

 最初は遠慮がちに、しかし徐々に声のボリュームを上げていった。十分ほど助けを求め続けたが、何の応答もない。ドアを叩き続けるうち、気持ちが高ぶってきた。

「どうして返事をしてくれないの!」

 大声で叫んだあと、聡子はドアを足で蹴った。それでも外からの反応はなかった。

 聡子は自分の髪をきむしったあと、部屋の中を歩き回った。それから、落ち着かなければ、と自分に言い聞かせた。とにかく、これからどうすべきか考えなくてはならない。

 ふと気になって冷蔵庫の中を調べてみた。お茶、ジュース、ワインなどの飲み物や、冷凍食品などが入っている。食品を温めることは電子レンジで簡単にできるだろう。だが問題はその量だった。食料はせいぜい二日分ほどしかなかった。

 二日間のうちに自分は外へ出ることができるだろうか。可能だという根拠はひとつもない。それ以降も閉じ込められているとしたら、いったいどうなるのだろう。

 二日、二日とつぶやくうち、聡子は急に仕事の予定を思い出した。そういえば今日も明日も約束があったのだ。自分が行かなければ依頼主にどれほど迷惑がかかることか。これまで聡子は仕事をキャンセルしたことは一度もないし、現場に遅れたこともなかった。

 こんなときに仕事のことが頭に浮かぶとは、自分でも不思議だった。私はプロだから、と聡子は思う。仕事に責任を感じているから、自然に思い出したのだろう。

 ──命が危ないっていうのに。

 現在自分が置かれた状況があまりに特殊すぎて、信じたくないという気持ちもあった。

 テーブルのそばに近づき、椅子に腰掛けてみた。自分の家とはまったく間取りの違う部屋。違和感はなかなか拭えない。

 この先どうなるのだろう、とあらためて考えた。もしかしたら、犯人は聡子の家族から身代金を奪うつもりではないか。いや、それはないだろう、と思った。群馬県の実家にいる聡子の父はごく普通の会社員だ。

 だとすると、やはり聡子の体が目的なのか。あるいは──あの男は聡子をうらんでいるのではないか?

「復讐」という言葉が頭に浮かんだ。何が原因なのかわからないが、あいつは私をひどく恨んでいて、この部屋で残虐な行為に及ぶつもりではないか。もしかしたら自分はこのまま殺されてしまうのではないか。

「どうして……」聡子は頭を抱えた。「私が何をしたっていうの?」

 そのときだ。突然、部屋の中に奇妙な声が響き渡った。

「折口聡子さん。あなたにお願いがあります」

 機械を通して調子を変えてあるようだ。しかし、おそらくこれは男性の声だろう。

 慌てて聡子は辺りに目を走らせた。書棚の上のほう、天井近くに小型カメラとマイク、スピーカーが設置されていることに気がついた。自分は今までずっと監視されていたらしい。

 聡子は立ち上がった。そうして、ゆっくりとカメラに向かって進んでいった。

 

「骸の鍵」は全3回で連日公開予定