その後もじわじわ増えた登録者数は、チャンネル創設からちょうど一年後、再びスピリチュアル界隈の有名人とひと悶着あったことでブーストがかかり、十万人を達成した。そのうちの何割が嘲笑目当ての野次馬であるかはさておき──それを記念した法人化計画、クラウドファンディング開始初日に、いつも配信でも投げ銭をしている見慣れた名前の数人が、最高額の寄付にエントリーした。目玉の返礼品は、礼拝施設となる予定の月蝕島見学ツアー、三泊四日の旅へのご招待。
金子は瞼を開き、振り返った。
白い船体が陽光に眩しい。これも新堂の知人の島主が、地元のクルーザー協会に話をつけて、格安で──しかもツケで──運転手ごとチャーターしたものだ。こんなにたくさん借金を作ってしまって大丈夫なの、と金子がたずねると、後藤は「彼らもいずれ信者にしてしまえばチャラになるよ」と答えた。ポジティブなのか、考えなしなのかわからない発言が、ここのところの後藤には増えた。
ふと視線を下ろすと、船の左舷側デッキに人影が見えた。小太りで中背。参加者のひとり──塙悠一が、スティックの先に付けたスマホをこちらに向けて掲げている。金子は胃の奥がぐるりとうごめくのを感じた。
「塙さん。船内は撮影禁止です」
咎める声で呼びかけられ、しかし塙は悪びれる様子もなく破顔した。「いやあ、本当に素晴らしい景色ですね」と。
「撮影禁止です」
金子は同じトーンで繰り返し、胸の中ではうんざりと深いため息を吐く。舌打ちをしたい気分だった。
彼、塙はスピリチュアル界隈でそれなりに顔と名前の通った人物であり、まだ知名度の低かった初期のBFHに接触してきたひとりでもある。彼が自身のSNS上で言及したおかげでBFHの知名度向上に繫がった、と塙自身が信じているし、それはある程度事実でもあった。ただ、塙がその事実を事実以上に過大に評価しているような態度が、金子には気に入らなかった。
「すみません、真剣に祈る美女があまりにも絵になったもので、つい」
彼の言葉に顔を逸らすと、そこにはひとりの女がいる。金子たちが立っているひとつ上のデッキだ。いつのまにか現れた彼女は両手を組み、目を閉じて、ただ静かにそこにたたずんでいる。肩までの黒い髪と、白いワンピースの裾が海風に翻るのをまったく意に介さない様子で、ひたむきに祈りを捧げているようだった。彼女のむき出しの二の腕を、雲の切れ間から射す光が眩しく照らした。
金子は彼女の名前を思い出そうとする。
後藤から何度も聞かされているのに、どうしてもフルネームが覚えられない。
「葛西ミア」
その名を塙が口にする。
塙はスマホのカメラをミアに向け、ゆっくりと船尾方向に移動しその姿を仰ぎ撮った。
なんてアイコニックな女だろう。
集合場所の港に現れた彼女を一目見て、まずそう思った。
透けるような肌に黒い髪。白い服に白い靴、そして当然のように、美しい顔。あらゆる清楚系アイドルグループが彼女をセンターに欲しがるだろうし、あらゆる地方都市の信用金庫が彼女をポスターに起用したがるだろう。彼女の醸し出す雰囲気、それを構築するすべての要素が、そのあたりの需要、類型的な「聖女」を、あまりに狙い過ぎている。
クラウドファンディングに投資した参加者のひとり──と名乗ったが、彼女はきっとBFHの運営に金で雇われたサクラに違いないと、塙はほとんど確信していた。それならまあ、お望み通り動画に収めることも、もちろんやぶさかではない。塙個人の配信チャンネルやSNSに今回のツアーの模様をアップすることは、事前に後藤から許可を得ている──まあ、場所と時間の指定や編集動画のチェックなどは条件とされているが──ときには体制側のルールを無視してこそのジャーナリズムだ。
開けた広報としての役割が自分にはあるのだ、と塙は信じている。
BFH──最初は、今時「新興宗教」なんてものを堂々と名乗ってしまえるところに興味を持った。ちょうどそのころ、塙はスピリチュアル界隈にはどうにも頭打ちな閉塞感を覚えていた。彼がBFHの前に関わっていたのは所謂「引き寄せ」系のコミュニティだったが、すでに体系化された思想を語るメンターに、ちょっと斬新な切り口からの議論を持ち掛けただけで疎まれた。その前も、さらに前も、内輪で結束したグループは塙の持ち込む新たな視点をいつだって拒んで彼を追い出した。そんなグループのアンチを巻き込んで、塙の界隈での知名度は上がり、配信チャンネルの登録者数もSNSのフォロワー数も増していったわけだが。
今回だって、仲良しごっこを求めてここに来たわけじゃない。
塙はいつだって議論を求めていた。BFHはその題材となり得る将来性と価値があると認めている。おそらく現時点で、自分以上にBFHの理念を理解し、その深層に迫り、既にその弱点すら発見している人間はいない。
塙は掲げるスマホの角度を調整し、光に照らされる女がより象徴的に映る画を探す。そこで、彼女の背後に人影が現れた。
「寒くないですか?」
新堂譲司の一声に、女は組んでいた手をほどき振り返った。
「大丈夫です」
にっこり微笑んだその目に映る自分を新堂は見た。大きく、黒く、深い瞳。繊細なまつ毛に縁どられた瞼が、蝶の羽ばたきのように瞬く。もう一歩彼女に近づいたところで、下のデッキにいる人間が見えた。スマホを取り付けた棒を掲げている塙。そして金子。
「あまり身体を冷やさないほうがいいですよ。初日から風邪を引いては勿体ないですから」
「ありがとうございます」
柔らかな笑みを深くするミアに、新堂は小さくうなずいて踵を返した。重い扉を開き、船内へと戻る。うるさく鳴っていた風の音が途端に遠ざかる。
あまり良い面子は集まらなかったな。
二時間ばかりの船旅を振り返り、新堂はそう結論付けた。正直、期待外れだ。最高額の寄付に手を出せる人間を集めれば、ひとりくらいは大物が釣れるんじゃないかと考えていたのだが。全員の背景や肩書を正確に把握できたわけではないが、少なくとも自分を超えるような社会的地位や経済力を持った人間はいない。BFHが若年層に向けたプロモーションしか行っていない点を考えれば仕方のないことかもしれないが、集団に箔を付けるための人材とここらで繫がっておきたかった。
自身がそういった役割をこなすことができる、とはわかっていた。新堂はこれまでにも、医師にして投資家という肩書を大いに利用してきた。ひとは肩書に金を払う。肩書に引き寄せられた人間に請われるまま、様々なセミナーにゲストとしてほんの数十分登壇するだけで、新堂は少なくない額を稼いできた。
後藤たちの先輩である北原の会社も、そんな依頼主の一つだった。講演会に参加し、投資のコツや成功談を、具体的なエピソードは避けて精神論的な部分にフォーカスして話す。受講者たちは主に新堂の腕に光る高級時計やオーダーメイドの革靴に熱い視線を注ぎ、彼が北原の人柄と先見の明を褒めると納得顔でうなずいた。
しかし、自分はあくまで投資者だ。
走者の育成に金を出し口を出すことはあっても、自ら走ることはしない。だからこそ、愚かな依頼主のひとつが愚かな逮捕劇で世間のささやかな注目を浴びることになったときも、新堂の身にはなにひとつダメージがなかった。いや──なにひとつ、とは言えないかもしれないが。
手すりにもたれ、新堂は階下のサロンスペースにくつろぐ──くつろいでいるように見える──数人を見下ろした。少なくともこの中に、新堂譲司の名前を聞いて眉をひそめるような人間はいなかった。
ソファに腰かけ目を閉じていたひとりが、ふいに顔を上げ新堂を見た。
あのひとにも本当に神から授けられた善性が宿っているのかしら?
酔い止め代わりに飲んだ精神安定剤がようやく効いてくるのを感じながら、桃木円華はぼんやりと考えた。
そんなふうには見えない。
なんだかすごく、いじわるそうなひとに見えるけど。
いや、そういうことを思ってはいけないのだ、と胸の中で自省する。でも、昔からひとの本心を読み取るのは得意だった。第一印象で少しでも違和感を抱いたひとは、たいてい後になってからその理由が判明することになった。十代の頃から大人に交じり、モデルとして芸能界で活動してきたことで身に付いた観察眼が、本人の意思とは無関係に、年々鋭さを増している。
間違いない。新堂さん、あのひとは、私のことを見下している──他のひとたちを見下しているのより、さらにちょっぴり下に──。
桃木は胸に手を当てて、ざわつく心を抑えた。ああいう目にはもうとっくに慣れていいころなのに、まだ新鮮に傷ついてしまう自分が心底嫌だった。旬を過ぎた落ち目のモデルに向けられる視線の冷たさを知ってから、もう十年は経つ。
だめだ。せっかく待ちに待ったツアーに参加できているというのに、暗い気持ちになっては台無し。これは私にとって、最後のチャンスかもしれないんだから──。
いったいなんのチャンスなのだろう、ということは、桃木自身にもはっきりとはわかっていなかった。人生を変えるチャンス。自分を変えるチャンス。あるいはもっと抽象的な、暖かい、安心できる光に包まれるチャンス?
「待ちきれないわ」
誰にともなく、桃木は言った。言ってから少し後悔した。思ったことをすぐに口に出してはいけないと、つい先日も会員制のマッチングパーティで反省したばかりだった。日々反省し、学ばなければならない。でないと世界に振り落とされる。
しかし、テーブルを囲みソファに座った面々は、皆いかにも親切そうな笑みを浮かべて首肯した。
「本当に」と胸に手を当てるのは、桃木と同年代くらいの落ち着いた雰囲気の女性。
「まったくです」と前のめりにうなずくのは、彼女よりもやや若そうな、生真面目そうな雰囲気の青年。
手放しの共感を得て、桃木はほっと息をつく。
そう、大丈夫。今日ここに集まったひとたちは、皆BFHの讃える「善性」を信じて、決して安くはない額の寄付をしてきたひとたち。私が普段関わっている、冷たく打算的で、忙しない俗世の中にいるひとたちとは、根本的に違うのだ。たぶん、善性の、レベルみたいなものが?
やっぱりこれはチャンスかもしれない。かなり具体的に、友達ができるチャンス。
桃木は急速に気分が良くなり、向かいに座った、今回の参加者の中でとりわけ若い青年に、にっこりと笑いかけた。脈絡なく笑みを向けられた不破翔は、う、と喉の奥を鳴らした。
「月蝕島の信者たち」は全4回で連日公開予定