そして天羽は、所謂「持っている」男でもあった。
四年前、彼は後藤と同じ投資会社の主軸に所属しながら、ひとりだけ逮捕を免れた。
不起訴になったメンバーはそれなりにいたが、あの日の早朝、部屋のチャイムを鳴らされることなく穏やかな眠りの中にいられたのは彼ひとりだった。
指導者や支援者の意味を持つスピリチュアル界隈の「メンター」よりも、より超越的な響きを持つ「教祖」の肩書のほうが、彼は上手くやってのける気がしたのだ。
「それと……うん、コメント読むのは上手くなってきたかな」
「あ、やっぱそうですよね。さっきのあれ、すごい良くなかったですか? カルトってあの、前に教えてもらったやつ。『崇拝』で合ってますよね? ラテン語とか引用し出すの、あれはかなりかっこいいなって自分でも思いました」
「ああ。ただわかってると思うけど、今からはプロンプターなしで、即興で教祖をやるわけだから」
「はい。大丈夫ですよ、オフラインの公演会なら何度かやってるし、俺アドリブって謎に得意なので」
「とにかく、出方に困ったら黙れよ。ぺらぺら喋るより黙ったほうがそれっぽいから」
「オッケーです。なんかわかんないときは意味深に黙っときます」
そのとき、後藤の私用スマホが震えた。表示されたメッセージを読んで、ぐっと腹に力が入る。天羽の手前、堂々と余裕のある態度を保とうと努力はしていたが、後藤は自身が信じているほど本番に強い質ではなかった。
「金子からメールだ。あと三十分程度で船が着く」
なんとなしに窓の外を見やる。豊かな緑の広がる前庭を囲む白壁に、大げさな門。そこから延びる小道を西に進めば、十五分ほどでこの島唯一の船着き場にたどり着く。
チリリ、と名前のわからない鳥が鳴いた。
日差しがどんどん強くなっている。
金子千香はスマホから顔を上げ、船尾に伸びていく航跡波の白さを遠く眺めた。
目安にしている最寄りの有人島が右手に遠ざかる。本土の影は低く垂れ込める雲の向こうにとっくに消えている。岩手県は宮古港を出港してから一時間半近く。前回より時間がかかっている、と金子は小さく舌打ちをした。
東京から盛岡まで新幹線で二、三時間。盛岡から宮古港まで車で二時間弱。天候に大きく左右される船旅を加えて、およそ六時間前後の行程だ。無駄すぎる、どうかしている、理解できない、と彼女は思う。それでも、結局は後藤に押し切られた。新堂──あの守銭奴の医者が、友人だというどこかの金持ちから、格安で貸せる無人島の話を持ってきたときから、後藤の決意は固かった。
「一度はプライベートリゾートとして開発された島らしい」
日本には一万以上の無人島がある。島、という響きにロマンを感じ、別荘を建てたり商用開発を試みたりする人間もそれなりにいる。どこぞの海外企業が入り江を整え、大量の資材をわざわざ運んで豪華なヴィラや、大自然を楽しめるグランピングテントや、結婚式が挙げられるようなチャペルを造り、富裕層向けプライベートリゾートとして売り出したりもする。しかしそのあまりのアクセスの悪さから想定していた集客が見込めず、ひとの輸送にも物資の搬入にも建物の維持にもコストがかかりすぎるという理由でビジネス層にはそっぽを向かれ、安値で物好きな個人の手に渡ったりもする。そんな島のひとつが──月蝕島だ。
最初は金子にも悪くない話に思えた。居抜きで使う宗教施設なんて、笑えるじゃないか。SDGsに配慮しているポーズだって取れる。外界から遠く離れ、社会から分断された孤島の高級リゾートなんて、まるでそう、天国みたい。
けれど二ヶ月前、初めて島を訪れたときにわかった。天国に行くために片道六時間もの距離を必死で移動するなんて、多忙な現代人には割に合わない。
「気軽に行けない場所のほうがいいんだよ」
後藤は言った。「島とか、山奥とか。日常から離れれば離れるだけいい。現実離れした絶景を眺めるっていうのは、それだけである種のトランス体験、宗教的体験になる」
横で聞いていた天羽が、「ああ確かに。わかります」とうなずいた。
「旅先でわーって気分が上がると、あり得ない値段の海鮮丼とかふつうに食べちゃったりしますもんね。そういうあれですよね」
結局のところ、後藤はただのロマンチストなのだ、と金子は思った。
島に教団の礼拝施設を置くというロマンに彼自身が魅せられている。最初の来島時、その桟橋に一歩降り立った後藤の顔は、長い船旅にぐったりしている天羽と金子をしり目にどこか恍惚と輝いていた。三階建てのプール付き豪華ヴィラ、星空を望めるガラスドームタイプのグランピングキャビンなどを見て回るうちにその光は増し、やがて向こう岸に小さなチャペルの見える湖のほとりにたどり着いたとき、「ここにしよう」と力強い口調で言った。
「でもさすがに買えなくないですか? 新堂さん、たしか数億円って言ってましたよ」
まだ揺れる船の上にいるかのような、おぼつかない足取りの天羽が言った。
「最初は買わなくていい。借りるだけで」
「待って。所有している土地じゃなきゃだめなんでしょ? 宗教法人の登録には」
金子が口をはさんだ。そうだ。そもそも後藤が本山を求めると言い出したのは、配信チャンネルの登録者数十万人突破を記念して、BFHを正式に宗教法人として登録するためだった。
法人化を目指すにあたり、宗教団体を名乗るには満たすべきいくつかの要件がある。教義を広めること、信者を教育すること、指導者を置くことなどに加え、固有の礼拝施設を所有することが必要だった。
「いや、法人登録はどのみちすぐには無理だ。三年程度の活動実績が必要だから」
「え、でも俺、こないだの配信で法人になります! って宣言しちゃいましたよ」
「別にいつまでにとは言ってないだろ。少しずつ準備していけばいいよ。手始めに、またクラファンだな。礼拝施設購入資金のクラウドファンディング」
「数億なんて集まるわけないじゃん」
「いや、だから最初は新堂さんに間に入ってもらって賃貸料金と……あと、ちょっとはリフォームもしたいよな。うん、目標金額一千万でいこう」
金子は浅く長くため息をついた。
なにもかもが馬鹿らしく思える。こんなの上手く行くわけがない、と感じる。
海風に乱れる髪を無視して、金子は両手を組み、目を閉じた。二年前、後藤から初めて話を持ち掛けられたときのことを思い出す。
「新しい宗教を作ってみようかと思うんだけど、手伝ってみない?」
金子はそのとき、ついに後藤が正気を失ったかと思った。神様なんてみじんも信じていない彼が、宗教だなんて。きっと、道を踏み外してしまった人間の再起の難しさに直面して、絶望の中でまともな判断力を失ったのだ。
――私は不起訴になったけど、後藤君は起訴されて、前科が付いちゃったから。
「そういうの、もう止めようよ」
金子は言った。
もう止めよう。夢みたいな方法でお金を稼ぐことを考えるのは。一部の人間だけが気づける裏技みたいな方法で勝ち組になれると期待するのは。死ぬまで続く労働と被搾取に満ちた生活から逃れられる方法が、この世のどこかにあるなんて考えるのは。そういうことを信じちゃったせいで、私たちは詐欺に荷担して、同じことを信じた人たちからお金を巻き上げて、行くところまで行って逮捕されちゃったんじゃない? 北原先輩は今も塀の中だし、ちえみ先輩はあんなことになっちゃうし。
金子のたったひとことで、そこに込められた主張を後藤はすべて正確に聞き取った。それでも彼は顔色を変えず、まっすぐな目で言った。
「天羽を教祖にしようかと思うんだ」と。
それで、彼女の気持ちは自身でも驚くほどに揺らいだ。馬鹿馬鹿しい、と頭ではわかっている。それでも学生時代、彼らと同じ演劇サークルで、一学年下の彼をひとめ見た瞬間の感情を思い出す。彼なら確かに──その役割をこなせるかもしれない。
「でも、宗教なんて……。今時信じるひとなんているの」
金子の問いに、後藤はどこか遠い目をして答えた。
「大丈夫。ひとはなんだって信じるよ」
なんだって信じる。
そうかもしれない、と思った。
結局、彼女はイエスと答えた。後藤の作る新興宗教が、まさか成功すると信じたからではない。ただ、自分が参加を断ったその宗教とやらが、万が一上手くいってしまったらどうしようという考えが振り払えなかったからだ。天羽を教祖に据えた新しい宗教が、もしも自分抜きで成功してしまったら? そんなの絶対に──許せないじゃないか。
そして金子にはまったく理解しがたいことに、事実後藤の造りだした宗教は順調に滑り出し、そして成長を見せつつある。
ひとの善意の尊さについて語った天羽の最初の配信が、冷笑的な視点から切り抜かれ、元の動画も再生回数が伸びた。スピリチュアル界隈からの接触があり、当時界隈でアイドル的人気だったメンターとコラボ配信が叶った。直後、そのメンターが自身の支援者との恋愛がらみのスキャンダルで炎上したことで、コラボの動画も注目を集めた。ポジティブとは言い難い理由であっても、人目に触れることがスタートダッシュとなり、右肩上がりに配信チャンネルの登録者数が増えていった。
そして彼らが予想していた通り、天羽は教祖が上手かった。動画のサムネイルに映える顔をしていたし、話し方は穏やかでありながら単調ではない不思議なバランスを持っていた。冷笑や炎上からでも集めた視線を飽きさせず、徐々に親近感を抱かせるキャラクター性もあった。
「月蝕島の信者たち」は全4回で連日公開予定