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 中根家の食卓には色とりどりの料理が並んだ。

 たっぷりのひじきに櫛形に切り分けたトマトと枝豆、ほうれん草の胡麻和えに芋の天ぷら、今晩は鯛のあら煮まである。

 見習いたいものだわ──母の料理に舌鼓を打ちながら鏡子は思った。もとより料理が苦手である。普段夏目家の食卓に並べるのは一汁二菜か三菜に香の物程度だ。

 今頃あの人は何を食べているだろうか。台所にあるのは米と庭で採れた野菜程度だし、およそ自炊ができるとも思えなかった。洋行帰りの金之助は、胃が弱いにもかかわらず脂っこい食べ物が好きであった。青魚を嫌うので鏡子は肉と魚を一日置きに用意したものである。

 いつだっただろうか。金之助がすき焼きを気に入って美味しいと言うので、何日も続けて出したことがある。鏡子としては良かれと思ってやったつもりだったが、途中で嫌気がさしていたらしい。いつまで続けるつもりだなどと怒りだし、しまいに喧嘩になったこともあった。

 筆子が枝豆を口に入れながらたずねた。

「おとうさん、ごはんは?」

 枝豆は金之助の好物であった。それを見て思い出したのだろうか、と鏡子は思った。

「大丈夫ですよ。出前もありますから」

 つっけんどんに答えると、筆子は母の機嫌を察したのか黙って枝豆をつまんだ。実際に出前や仕出しを頼むことも少なくはなかった。客の多い家であったし、無論鏡子が料理が得意でないということもある。ただこうして離れてみると、結局日がな旦那のことを考えている。鏡子は今さらながらそのことを思い知らされた。

 不意に玄関先から物音がした。母親が気づいて立ちあがる。

「あらお父さんかしら。帰りは明日だって言ってたのに」

 思わず鏡子の気が重くなる。父・重一は知人を訪ね先週から京都に行っていた。もし予定を切り上げ帰ってきたのなら、鏡子と話をする為に他ならない。これまでにも二人の諍いを相談したことはあったし理解も示してくれていた。しかし別居とあれば話も変わってくるだろう。重一の足音が近づいてくるのを聞きながら、鏡子は食欲が遠のくのを感じた。

 

 

 なるほど不味そうな料理とは見た目でそうとわかるものだ。

 出来あがった料理を見つめつつロクは思った。そもそも台所にはほとんど食材がなかった。米を炊く時間もなく、何とか畑にあった野菜をかき集めてみたものの、火の加減を間違えほとんど焦がしてしまった。卵焼きはあられのように崩れ、まともに口に入れられそうなのは塩をふった胡瓜とトマトしかない。仕方なくそれらしく皿に盛ったのをひとまず食卓に並べると、金之助が箸で卵焼きもどきをつまんだ。

「何だこのぐずぐずしたやつは」

「卵焼きです」

 ロクがかしこまると、金之助は片方の眉をこれ見よがしにあげた。

「料理ができる人間を頼んだはずなんだがな」

 ロクは微かに肩を揺らす。すると横合いから虚子がなだめた。

「まあまあ。せっかくだからいただきましょう。見た目では味はわからぬ卵焼き、ってね」

「そうです。これで冷めた日には目もあてられません」

 寅彦が続き渋々金之助も箸を口に運んだ。

「あ、意外にいけますよ」

「うん。夏目さんの胃にはこれぐらい素朴な味の方がいいかもしれません。夫人の料理は割合こってりしてましたからね」

「あいつはもう妻ではない」

「先生厳しすぎるんですよ。夫は何でもウンウン言ってデレデレしてればいいんです」

「さすが新婚の言う事はウンデレだね」

 寅彦はへへ、と相好を崩した。今は何を言われても嬉しいようだ。それにしても、とロクは不思議な思いで三人を見つめた。大の大人が昼間から派手に謡ったかと思えば、酒を飲みながら他愛のない話に興じている。何とものんびりとしていてこれまで会ったことのない人種なのだった。

「なぁに直に戻ってきますよ。ロクさん、夏目さんにお酒もひとつ」

 虚子は片口の酒を注ぐとロクに振って見せた。金之助はすでにガス灯の下で見てもわかるほど顔が赤くなっている。幾分酒のすすんだ寅彦も、虚子を真似て五・七・五の口調で言った。

「そうです。うらはらな、女の嫌よも、好きのうち。別れるは別れたくないの裏返しです」

「ふん、馬鹿馬鹿しい」

「本当ですよ。身投げすると言いながら欄干に紐をくくりつけているのが女という生物です。その点男はかないません」

 金之助の箸がとまった。あっと寅彦が息をのみ、一連の話を聞いていた虚子も思わず眉をひそめた。

「確かに、あいつなら華厳の滝に飛びこむこともなかろう」

 金之助は低い声音でつぶやくとスッと箸を置いた。

「失礼する」

「あれっご主人、酒はもういいんですか」

 酒瓶を手にしたままロクが言うと金之助が鋭い目線を投げかけてきた。まるで雷に打たれたように体がすくむ。顔とせり上がった肩から苛立ちが滲み出ていた。

「……おい、お前いつまでいる気だ」

「え?」

「何がご主人だ。聞こえなかったのか? いつまでいる気だって言ったんだ!」

 室内を静寂が覆う。ロクは冷水を浴びせかけられたような気がしてその場に凍りついた。

 金之助は後ろ手に激しく襖を閉めるとそのまま書斎にこもってしまった。通夜のように静まり返った座敷に、襖越しにマッチをする音が聞こえてくる。金之助が煙草を吸おうとしているのだ。しかし上手く火がつかないのか、やがて何かが壁に叩きつけられる音がした。

「すいません、ロクさん。せっかく用意していただいたのですが、今日のところはこれで失礼した方が良さそうです」

 虚子が申し訳なさそうに言い寅彦もゆっくりと立ちあがった。ロクは足取りの重い二人を玄関先まで見送ることにした。寅彦はバツが悪いらしく頭を垂れている。

「大丈夫。いつもの癇癪ですよ」

 慰めるように虚子に肩をたたかれ「はい」と返事した。

 ロクには気になることがあった。安易に口にするのはためらわれたが、今聞かねば知る機会は失われてしまう気がする。ついに、尋ねた。

「あの、すいません。華厳の滝って何ですか?」

 すると寅彦が声を荒らげた。

「君、知らないのか? この間先生の教え子が華厳の滝に飛びこんで自殺しただろう」

「寺田君!」

 虚子が書斎に目配せをする。寅彦はあっと口をつぐんだ。

「自殺……?」

 虚子がしぃっ、と口元に指をあてる。

「今はまだ、この話を夏目さんの前でしないことです」

 ロクはただうなずいた。自分でもやや混乱しているのがわかる。外に出ると夜空に霞がかった月が浮かんでいた。隣の家では夫婦喧嘩をしているのか金切り声が聞こえてくる。

「ではこれで。お邪魔しました」

「お、お大事に」

 虚子に一礼されロクは思わず口ごもった。慣れないやり取りで言葉がすぐに出てこなかったのだ。

「何ですか、お大事にって。お気をつけてと言いたかったのですか?」

「まあそうですね」

 寅彦に言われ頭を搔いた。虚子はなぜか目を細めている。

「面白い人ですね。ロクさん、夏目さんをよろしくお願いします。あなた幸せですよ。先生のもとで働けるのだから」

 はっきりとした口調だった。表情から意志の強さが伝わってくる。ロクは言葉を返すことができなかった。

 

 

 鏡子は子ども達を寝かしつけるとふたたび母屋に戻った。重一から「後で来るように」と言われていたのだ。応接間に行くと重一の姿はまだなかった。廁にでも行っているのかテーブルの上には無造作に新聞が置かれたままだ。しかし一面の記事に気づき口元を押さえた。

 

『藤村の挙を真似、華厳の滝入水が流行』

 

 読むほどに胸が締めつけられるようであった。第一高等学校の生徒であった藤村操は、この夏を前に日光華厳の滝で投身自殺を図った。記事にはいまだにその行動を真似て、華厳の滝に身投げする人間が後を絶たないと書いてある。

 あの人もこの記事を読んだだろうか──

「鏡子、来たのか」

 顔を上げると重一が立っていた。ブランデーの入った洋杯を手にしている。鏡子はさっと新聞を畳むと傍に寄せた。重一はちらりとそれを見たが何も言わずに長椅子に腰掛けた。ガス灯に照らされた重一の顔はいつも以上に老いを感じさせる。官僚として偉才を発揮していた頃の面影はとうにない。

 重一はかつて貴族院の書記官を務めていた。大隈内閣が終わった後も在籍していたが、新内閣発足後は何かと軋轢があったらしい。結局議長の近衛から促され辞職することになった。

 退官後はひまを持て余したのか相場に手を出し失敗した。一時期は金之助に援助を頼んだほどだからよほど困っていたのだろう。かくいう鏡子とてかつては鹿鳴館の舞踏会に出席したこともある。しかし中根家の羽振りがよかったのはとうに昔の話であった。

 鏡子は父の変わりぶりに侘しさを覚えた。しかし自分がさらなる心労をかけていることを感じずにはいられない。重一は洋杯を傾けると深い息を吐いた。鏡子もすでに聞かれることはわかっている。

「これからどうするつもりだ? 夏目君と別れるのか」

「いいえ、別れるつもりはありません。今のあの人は病気なんです。落ち着くまで離れるよりほかに方法がありません」

「病気?」

「ええ、こころの……だからしようがないんです。嫌いで別れるならいいですがそうじゃないから別れません」

「治らなかったらどうするつもりだ」

「その時は及ばずながら戻って看病します。もし私と夏目が別れたとしましょう。後で誰か後妻が入ってきたとしても、あんな風にやられて誰が辛抱できるものですか。きっと一ヶ月ももたないでしょう。こうなったからには私もどうなってもようございます」

「お前それでは投げやりではないか」

 重一が厳しい視線を向けてきた。鏡子も負けじと見返したがなぜか瞼が熱くなる一方だった。

 今さらあの人と別れるなどあるものか──その時「おかあさん」と筆子の呼ぶ声がした。柱の陰からあどけない顔をのぞかせている。

「あら、どうしたの」

「おしっこ」

「はいはい。行きましょうね」

 鏡子は筆子の手をとると逃げるようにその場を離れた。去り際にちらりと重一を見ると洋杯をあおっていた。

 どこから話を聞いていたのだろう。鏡子は筆子の小さい手を握りしめた。すると筆子もきゅっと握り返してくる。二人で廊下を歩いていると簾戸越しに虫の音が聞こえた。

「ねぇ、いつ、おうちかえる?」

「えっ?」

「おうち。まだかえらない?」

 筆子は不安そうな顔で鏡子を見あげている。

「そうね。お父さんの具合がよくなったらね」

「おとうさん、どうしちゃったの?」

「お父さんは、今悪い夢を見ているの」

「じゃあ、ゆめがさめたらかえれる?」

 虫の音が一層大きくなる。鏡子は精いっぱい微笑んでみせた。

「ええ、醒めたらね」

 

 

 ロクは片付けをすますと女中部屋に戻った。隣の夫婦喧嘩もやんだようであたり一帯静まり返っている。押入れを開けると風呂敷が畳んであった。色褪せ使い古したそれをロクはしばし見つめた。

 今のうちにめぼしいものを入れて出ていくか?

 しかし虚子の言葉が頭をよぎった。

〝あなた幸せですよ。先生のもとで働けるのだから〟

 そんなはずがあるものか──ロクは右手の親指を見た。いびつに変形した指は、もはや思うように動かすこともできない。かつての主の仕打ちだった。ロクにとって主人とはそういうものだ。家畜のように扱われ逆らえば虐げられる。おおよそ幸せとは結びつかない存在、それどころか憎悪の対象でさえある。金之助だって怒りっぽくて変わり者の偏屈親父にしか見えなかった。

 ロクはそっと襖を開けると廊下に出た。書斎の灯りはすでに消えている。

 もう横になったのだろうか。だとすると隣の六畳間に布団を敷いたはずだ。ロクが音を立てぬよう様子を見にいくと、六畳間の襖越しに呻き声が聞こえてきた。耳をあてると金之助がうわ言を言っているのがわかった。

 襖を少し開けのぞくと金之助はすでに布団に横になっていた。微かに煙草の匂いがするから先ほどまで吸っていたのかもしれない。枕元には相変わらず本が積まれていた。

 急に金之助が寝返りをうったのでロクは思わず身構えた。しかしほどなく寝息が聞こえてきて、ふぅと息を吐く。そっと顔を近づけてみると、はだけた胸元にひどい汗をかいていた。呼吸も浅く寝苦しそうにしているのがわかる。

「う……やめろ、ダメだ……」

 聞き取れるほどの寝言だった。苦しそうな様子を見かねロクはひざまずく。

 起こすか──? その時だ。金之助がはっきりと叫んだ。

「ダメだ……藤村!」

 ロクは反射的に金之助を揺すった。二重の目が開かれ宙をさまよう。見ると額や鼻の頭にも汗をかいていた。

「大丈夫ですか?」

「あ……ああ」

 ひどく掠れた声だ。起き上がろうとする金之助をロクは支えた。呼吸が浅く、浴衣はひどく汗ばんでいる。

「俺、水、持ってきます」

 ロクは台所に行くとコップに水を注いだ。ひんやりとした冷たさが手に伝わってきて、金之助の熱のこもった背中の感触が思い出された。すると、甘えるような鳴き声とともに黒猫が入ってきた。腹が減っていたのか脛に頭を擦りつけてくる。まだ飯をやってなかったことを思い出し、皿に鰹節を盛ってやった。猫は貪るように顔で皿を押しながら食べている。

 もう少しこの家にいようか──

 いずれ身元が割れることを考えれば長くいるのは得策ではない。ただ、なんとなく今出ていく気になれなかった。

 

 

 翌朝は梅雨が明けたかのような快晴だった。

 金之助は手紙を書き終えると書斎の縁側から庭先を見つめた。紫陽花はところどころくすんだ色に変わり、朝顔のつるが伸びている。空は雲ひとつなく今日は暑くなりそうだ、と金之助は思った。

 朝食を食べ終えると金之助は用意してあった封書をロクに渡した。表に『欠勤願』と書いてある。ロクは封書を受け取ると不思議そうにまわし見た。

「何ですか、これは」

「第一高等学校へ持って行ってくれ」

「学校へ? 先生がこれから行くのではないですか」

「私が行かないから君が持って行くのだ」

「なぜです」

 どうもこの青年と話していると埒があかぬ。大体いつまでこうして書生のふりを続けるつもりなのか──金之助は呆れながらも昨夜のロクを思い出した。

 ロクは水を持ってきたあとなかなか立ち去ろうとしなかった。「本当に大丈夫ですか」と何度もたずね、最後は追い出されるように出ていった。夢にうなされ介抱など鏡子にもされたことはない。背中にあてがわれた手は力強く温かかった。金之助は顔を背けると突き放すように言った。

「なぜって見ればわかるだろう。字が読めないのか君は」

 軽口のつもりであった。昨晩の醜態を見られたという照れもあった。しかしロクの顔が見る見る赤く染まっていく。金之助はしまった、と思ったがすでに遅かった。ロクは欠勤願を握ったまま立ちあがると脱兎のごとく部屋を出ていった。

「あっ、おい!」

 金之助も慌てて追いかける。しかし日頃の運動不足がたたったのか、下駄を引っ掛けたところで足をつってしまった。

「ぬぅ……」

 金之助は三和土に下駄を叩きつけた。

 私としたことが何たる失言。吐いた言葉ばかりは元に戻せぬ──いつもの感覚が襲ってきて腹を押さえた。胃の痛みはこうして金之助にまとわりつき離れることがない。金之助はよろよろと立ちあがると表門の木戸を閉めた。家の中に戻ると女中部屋の襖が開いたままになっている。足を踏み入れるとロクの匂いがした。

 もう戻って来ぬかもしれぬな──乱雑に畳まれた布団を見ながら金之助は思った。

 

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