第一章 闖入者
風のない蒸し暑い夜であった。
おかげで仕事がやりやすい。いや、入りやすいと言うべきか。日付が変わっても涼を求めんと雨戸を開けたままにしている家が多い。
ロクは目星をつけておいた屋敷の壁に身を寄せた。あたりはすでに静まり返っている。門を入って左手に畑があり、茄子や胡瓜がたわわに実っていた。四方は竹垣で仕切られ屋敷の裏手に学校がある。ただ広さも生活感もある割にとんと人の声がしない家であった。
どうやら噂は本当のようだ、とロクは昼間の出来事を思い出した。
腹が減って団子屋の店先にいた時だった。団子が焼けるのを待っていると、学帽をかぶった青年が話しかけてきた。
「夏目金之助の家を探している」と青年は言った。聞けば書生として世話になる予定らしい。すると先ほどまでにこやかだった団子屋が、ものすごい剣幕で唾を飛ばしはじめた。
「やめておきな。第一高等学校の先生だか何だか知らないけどここいらじゃ有名な変わりもんだよ。使用人はころころ変わるしさ。この間も女中をクビにされたって奥さん騒いでいたけど、とうとう自分も出ていっちゃったんだから」
その後もえんえんと話を聞かされた青年はついに礼を言うと今来た道を引き返していった。人知れずロクがほくそ笑んだのは言うまでもない。
実際、団子屋の話の通りだった。家は静寂につつまれ南の座敷に灯りが一つともっているだけだ。ロクは木戸に身を隠しながら室内をのぞいた。
すると、主らしき男が布団に横たわっているのが見えた。枕元にガス灯をともし分厚い本を何冊も積み上げている。歳は三十半ばくらいだろうか。灯りに浮かぶ横顔は良識ある知識人といった風貌で、団子屋が言うような奇天烈な人物には見えなかった。
まだ起きているのか。もしかしたらあの本を全部読むつもりなのかもしれない──
ひとまず引き返そうとすると、背後からいびきが聞こえてきた。見ると男は本に指を挟んだままうつらうつらしている。ロクは気を取りなおしゆっくりと縁側に足をかけた。
その時である。奥で激しい物音がし、男が跳ね起きた。
「誰だ!」
男が部屋奥へ駆けていったので、ロクは一か八かその隙に隣の書斎に忍び込んだ。襖の向こうで男が怒鳴っているのが聞こえる。
「この馬鹿野郎がぁっ!」
襖の隙間からのぞくと床に花瓶が倒れているのが見えた。男は文句を言いながらこぼれた水を雑巾で拭いている。
騒々しい男だな──ロクはそのまま部屋で待つことにした。幸いこの家には他に人がいなそうだ。月明かりを頼りに室内をまわし見ると、壁一面本で埋め尽くされていた。棚に入りきらないのか床にも無造作に積まれ、縁側の手前には文机があった。
ふと何かが光った。興味深く近づいてみると、見たことのないような瀟洒な蝶貝のペン軸だった。隣には原稿用紙がある。何か書かれているかと思ったが升目はまだ埋まっていなかった。
何か金目のものはないか、と足を踏みだした時である。何やらやわらかいものを踏む感触があった。同時にギャッと闇をつんざく声がし腰を抜かした。暗闇でヴゥと唸り声がする。声のする方を見ると、爛々と輝く二つの目が唸りながら近づいてくるところだった。
猫だと気づいた時には遅かった。黒猫が顔面に猛然と飛びかかってきて、火花で擦られたような痛みを感じた。たまらず逃げ出したが猫は容赦無く追ってくる。ついに足に嚙みつかれ、ロクは縁側に転がった。
「こらあっ!」
そこへ襖が開き、今度は男が怒鳴りこんできた。ロクは息をのむ。驚いたのは男も同様のようで、仁王立ちのままロクを見つめた。
万事休す──逃げねばと思うが腰がたたない。何か言おうにも喉元に塊を入れられたようで、言葉を発することができなかった。するととどめとばかりに黒猫が跳躍し、ロクの顔面をひと搔きし走り去った。
「痛っ!」
ロクは顔を押さえうずくまる。男は落ち着いた様子で見ていたがやがてポンと手を叩いた。
「もしかして井出君、か? 昼に来ると聞いていたのに随分と遅いじゃないか」
「昼……?」
「使用人だろう、新しい」
今度はロクが手を叩いた。どうやら昼間の書生と勘違いされているようだ。確かに年端は同じ頃合いで背格好もよく似ていた。
「そう、そうなんです! 実は道に迷っちまって。こんな夜分に失礼とは思ったんですけどね。これ以上遅くなるよりはって」
「ほうほう、なるほど。ところで井出君、下の名前は何と言ったかな」
「え?」
「名前だよ。あるだろう?」
「……ロク、井出ロクです」
「井出ロクか……わかった。私が主人の夏目金之助だ。訳あって家内らが家を出ていってね。一人で大変だと思うがよろしく頼むよ。では、早速部屋を案内しよう」
「よろしくおねがいします」
金之助が歩き出したのでロクも続いた。ひとまず胸を撫でおろすと、あとに続きながら抜け目なく屋敷を物色した。どうせほどなく寝つくだろう。そうしたらめぼしいものだけいただいて、さっさとおさらばすればいい──
「ここが女中部屋だ。狭いが自由に使ってくれ。寝具などは一式押入れに入っている」
通されたのは台所脇の三畳間で斜め前に玄関があった。物が置かれていないせいか、こざっぱりとしてさほど狭くも感じない。
「悪いが私はもう休ませてもらうよ。明日も早いのでね」
金之助はそう言うとひとあくびして去っていった。ロクは早速押入れを開けてみる。中には煎餅布団が一つと、薄手の掛け布団が折り畳まれ上にちょんと枕がのっていた。
最後に布団で寝たのはいつだろうか。ロクは思わず布団に顔を埋めた。今寝ぐらにしているのは谷中にある五百坪近い屋敷の物置だった。厩を物置にしたものらしく随分頑丈な造りで人も来ない。見つけた時には天の思し召しかと思ったが夏は蚊に襲われるのが難点だった。
体の重みを布団にまかせているとだんだん睡魔が襲ってきた。夜は長い。せっかくだから一眠りしてから起きようか。出て行くのはそれからでもいい──そうしてロクは眠りへと落ちていった。
金之助は団扇をたぐりよせると胸元をあおいだ。部屋には朝陽が差しこみ庭で雀が畑の作物をついばんでいる。
さて、いなくなったかな──昨晩の珍客を思い浮かべ金之助は今さらながら呆れた。一目でならず者とわかった。歳は二十歳に満たぬのではないか。少年のようにあどけない顔をしていたが目はおどおどと始終落ち着きがない。着流しの襟は垢にまみれ離れていても脂臭かった。大体あの時分に訪ねてくる輩もいるまい。少なくとも来る予定の青年と違うことは明らかだった。
そうと知っていて金之助が一芝居うったのには訳がある。下手に騒いで暴れられても困るし、何か盗ませて警察沙汰にすれば鏡子を呼び戻す言い分にもなる。自分で出て行けと騒いだわりに、いなくなってみると何かと不便なのであった。
どうせ夜のうちにめぼしいものだけ担いで逃げたに違いない──
幸いと言っていいのかどうか泥棒に入られるのは初めてではなかった。前にも一張羅の銘仙から普段着まで綺麗にやられ、一週間ばかりして警察から捕まえたと連絡が来たことがある。慣れていると言えば噓になるが、多少の免疫があることは確かだった。
金之助はロクにあてがった女中部屋に向かった。斜め前に玄関がある三畳間だ。さあお逃げなさい、と言っているようなものである。
しかし襖に手をかけると、中から盛大ないびきが聞こえてきた。
なんと!
衝撃が体を射貫く。金之助は勢いよく襖を開け放った。視界に飛び込んできたのは掛け布団を股間に挟んだロクだ。まどろむロクを見ながら金之助は震える拳を握りしめた。
「おい起きろ! この馬鹿野郎っ!」
「ん……え、もう朝ですか?」
「ああ朝だとも。夜に見えるか」
勢いまかせに布団を引ったくるとようやくロクは起き上がった。
「すいません、朝……朝ごはんですよね。こりゃいけねえ。すぐに用意します」
言いながらのろのろと布団を畳むところを見ると完全に寝ぼけているようである。金之助は悪い夢の続きでも見ているような気がした。
結局、朝食の支度はほとんど金之助がする羽目になった。
座卓にティーカップを置くとロクは興味深げに見つめた。留学先のロンドンで買ったミントンのティーセットで、ミントンブルーといわれる青い花柄が特徴だ。
日本に戻ってきたのは半年ほど前になる。文部省から英語研究の為命ぜられた名誉ある留学だったが、留学費の不足や孤独感から途中神経衰弱に陥ってしまった。曇り空の日は今もあの暗澹たる日々を思い出す。
それでも得るものが多かったのも事実だ。シェイクスピアなど英文学にとどまらず現地の舞台や絵画などの芸術、また建築にも存分に触れることができた。得たものの一つが洋食である。火鉢であぶったトーストに砂糖かジャムをたっぷりつける。一緒に飲むのは熱い紅茶、これが金之助の定番であった。
「紅茶を淹れてくれ」
金之助が顎でカップを指す。ロクは茶葉の缶を開けるとおもむろに鉄瓶に入れようとした。
「馬鹿野郎! 茶匙を使わんか!」
「匙ですか?」
「ここにあるだろう。こうして掬って擦り切り一杯を入れるのだ」
察するにロクは洋食を食べたことがないようだった。珍しいのかパンや砂糖壺を見てはだらしなく口を開けている。あまりに見るので金之助の方で食欲が失せてしまい、皿ごとロクの前にすべらしてやると一瞬で腹におさめた。食いっぷりの良さは見たことのない類のものであった。
普段食事をとるときは家族とともにせず一人で食べていた。しかし帰国後はパン食がよほど珍しかったのか、鏡子も子ども達もしばらく羨ましそうに見ていたのを覚えている。不意に懐かしさがこみあげ金之助は目をそらした。
「もういい、私は学校へ行く」
「学校? ご主人、年はいくつですか」
ロクは目を丸くするとしげしげと金之助を見た。
「失礼だな、君は。私は教えに行くんだよ!」
金之助は耐えきれずに立ちあがった。嫁も愚鈍だと思っていたがロクに比べればましである。
いつまでこんな茶番を繰り広げねばならぬのだ。いかん、また血圧が上がってしまう──棚からタカヂアスターゼを出すと口に放り込んだ。帰ってくる頃にはさすがに消えているだろう、と金之助は胃を撫でながら座敷を見やった。
「鏡子、起きなさい! 鏡子!」
母に起こされ鏡子はようやく目を覚ました。そうだ実家に戻っていたんだわ、と寝ぼけ眼で思い出す。実家である中根家は牛込矢来にあった。身を寄せたのは母屋から庭ひとつを隔てた離れだ。
離れとはいえ独立した一軒家で、金之助がロンドンから帰った際は家族で住まわせてもらったこともある。座敷が二つに女中部屋もあり子どもをかかえ大人一人住むには十分だった。何より家賃がいらないのがありがたい。
窓越しに外を見るとだいぶ日があがっていた。庭に花菖蒲が咲き乱れ蜂があたりを飛びまわっている。鏡子は乱れた髪をかきあげ庭を見つめた。
「筆子と恒子は?」
「もうとっくにご飯を食べて遊んでいますよ。あなた、いつもこんなに遅いの?」
「だって早く起きると一日頭が痛いんですもの。少し遅くたってそれで一日気分よく過ごせるんならいいじゃありませんか」
「さっさと支度なさい。まったく金之助さんのことばかり言えないわねぇ」
母は呆れた様子で部屋を出ていく。鏡子は浴衣の前をあわせると柱の時計を見た。
今頃どうしているだろうか──自分の朝寝坊は今に始まったことではない。起きるのは大抵金之助の方が早いし、そのせいでくどくど小言を言われるのも慣れた。ただ大なり小なり揉めごとはあったものの、こうして家を出るのは初めてだ。
しかし遅かれ早かれこうなる気がしていたのも事実である。金之助が帰朝してから本調子でないのは傍目にも明らかであった。いや、そもそも洋行中から強制送還されるくらいおかしかったのだが。手紙では慣れない海外生活に困憊する金之助の様子がひしひしと伝わってきた。
金之助は元来真面目な性格だ。きっと切りつめすぎたうえに勉強もしすぎたのだろう。次第に部屋に閉じこもるようになり、ついに文部省から義務づけられている研究報告書を白紙で出した。帰国した金之助を父と国府津まで迎えに行き、久々にその顔を見たときは安心した。傍目にはさほど変わらないようにも見えたのだが。
幸い帰国後は旧知の友人である一高の校長・狩野亨吉の計らいで、すぐに東京で教職に戻ることができた。これでだんだん調子もよくなると思っていたのに、追い打ちをかけるようにあの事件が起きてしまったのだ。さてこれからどうしたものか、と鏡子は深いため息をつく。
新しい使用人のことも心配だった。クビにされた下女の代わりに急遽つてを頼って手配したのだが、今の金之助と上手くやれというのも無理な話だ。鏡子が間に入っていた時でさえ問題が絶えなかった。ある時など金之助が下女に小刀を渡し、こう言ったことがある。
「これを鏡子のもとへ持っていき、存分に小刀細工をしろと言え」
どうやら鏡子が下女を手なずけ、金之助を苦しめるべく策略しているとの妄想に囚われていたようだ。これには鏡子も心底呆れたが下女も気味悪がっていた。この人は本当に病気なのかもしれない、そう思ったのもあの頃からだ。
そうだわ。高浜虚子さんに頼んで様子を見てきてもらおうかしら──
母屋から子ども達の笑い声が聞こえてきた。いつまでもここにいるわけにもいかない。重い腰をあげながら鏡子は思った
「 猫も歩けば文豪にあたる」は全4回で連日公開予定