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「夜になって涼しくなったけど、まだ蒸し暑いね」

 被験者(1)が少し疲れたような声で言った。

 僕たちは商店街の中にある洋食屋でたっぷり時間をかけて遅めの夕食をとったあと、散歩を楽しんでいた。実験はいよいよ仕上げの段階に入っていた。

 僕は赤ワインをグラスに1杯、被験者(1)は白ワインをグラスに2杯飲んでいたので、お互いホロ酔いだったことも手伝い日中の散策の疲れが出始めていた。

「駅からだいぶ離れちゃったね」

 こう僕が言うと、言葉を返すのにも疲れたのか、被験者(1)は小さく「……だね」とだけ返した。店を出てから、かれこれ30分近く散歩している。

 今歩いているのは交通量の多い道路沿いだ。普通はこういうとき、気遣いを見せて女の 子に歩道側を歩かせるが、僕はあえて被験者(1)に車道側を歩かせていた。疲れがたまりほろ酔い状態の被験者(1)にとって、乗用車やバイク、トラックがひっきりなしに走る車道は、かすかな恐怖を感じるのに十分だったはずだ。

 しかも、被験者(1)は編み上げの厚底サンダルを履いている。前回のデートで僕がさりげなくリクエストしておいたものだ。ファッション性にパラメーターを振り切り実用性を度外視したこの種の靴は、長距離の歩行には不向きだろう。このことが被験者(1)の恐怖のレベルを押し上げていることは容易に想像がついた。

 吊り橋効果――。恐怖を感じてドキドキしている感情を一緒にいる異性へのドキドキだと脳が勘違いする現象のことだ。“さくぞく”とも言われる。僕はこの古典的な心理学の発見を今まさに被験者(1)に試していた。長距離を歩くのに適さない厚底サンダルを履いてくるように事前に誘導したのも、吊り橋効果を最大限に高めるためだった。

 あてもなく歩き続ける2人。実験はそろそろ仕上げに向かっていた。この日の実験の工程はあと2つで終了する。

「ねえ、緑が多くて涼しいところに行かない?」

 スマホを操作しながら僕がこう提案すると、目的なく歩き続けることに疑問を抱いていたはずの被験者(1)は、

「うん。いいね。でも、そんな場所あるの?」

 と返してきた。期待通りの反応だ。

「5分くらいで着くよ」

 スマホに目を落としたまま僕は答えた。

 程なくして僕は被験者(1)を墓地に連れて行った。時間は午後10時を過ぎていた。

 緑の中にある墓地は十分に暗く、時折吹く生ぬるい風に肌寒さを感じるほどだった。

「ねえ、ここお墓じゃない(笑)。わたしが怖がりなの知ってた?」

 被験者(1)は僕の言葉に嘘がなかったことに納得しながらも、少しあきれ気味に言った。

「緑が多くて涼しいでしょ?」

「たしかにそうだけど、お墓に連れてこられるとは思わなかった。この前の牛丼屋さんもそう……また、青木くんにやられちゃったよ(笑)」

 僕と被験者(1)は2人で声を出して笑い合った。誰もいない夜更けの墓地に若い男女の笑い声が響く。もし同じ時間に誰かが墓地を訪れていたら、ちょっとした恐怖体験になっていたかもしれないくらいシュールな状況だったはずだ。

 吊り橋効果に加えてサプライズ演出、適度なアルコールにほどよい疲れ――今すぐ告白すれば、被験者(1)は僕との交際を快く受け入れるだろう。

 彼女の心にスポイトで溶液を1滴垂らすだけでよかった。心の色は一瞬で変化し、これまで単なるクラスメイトだった2人から、一気にカップルに化学変化する。

「ねえ、【被験者(1)】さんはカレシとかいるの?」

「え……いないよ。青木くんはカノジョいないの?」

「いないかな」

「そうなんだ」

「もしよかったらなんだけど、僕と付き合ってくれない?」

「変わってるよね。そんなこと、お墓で言うんだ(笑)」

 そう言うと、被験者(1)は僕が予想した時間よりかなり長く1人で笑っていたので、僕は次の言葉を見つけるのに時間がかかった。

 たしかに僕は、被験者(1)の心に溶液を垂らした。でも、今の彼女の態度を見ていると、予想通りに化学変化したのか判別できなかった。ただ、その代わりに被験者(1)は僕の手をそっと握ってきたので、その後は手をつないで墓地の出口まで2人で歩いた。

 

 

 結局、被験者(1)とは交際していたのかしていなかったのか明確な“証拠”がないまま、大学2年になる春休みまで続いた。一応、クリスマスやお互いの誕生日(といっても彼女の誕生日は4月だったので祝えなかった)にプレゼントを交換する恋人の儀式も実行した。週に何度か一緒にご飯を食べたり、映画に行ったり、週末はお互いのワンルームマンションに泊まりにいったりもした。

 はたから見れば、幸せそうな大学生のカップルだったはずだ。僕も被験者(1)と一緒にいると居心地がよかったし、特に不満はなかった。ただ、春休みに入る直前、吉祥寺のカフェでお茶をしたあと、唐突に被験者(1)はこう言った。

「青木くんといると楽しいけど、少し前から他に気になる人がいて……。その人に告白されたから、もうこうやって会うのはやめようと思う」

 正直言って驚いた。交際が始まってからも、僕は常に彼女の言動を観察してきた。自分が何を言って何をすべきかは事前にシミュレートして、被験者(1)の化学変化を常に好ましい方向にコントロールしていたはずだった。

「そっか……。分かった…」

 平静を装いながらこう絞り出したけど、こんなセリフはシミュレーションにはなかったので、完全なアドリブだった。

 僕は人並みに傷ついていた。春休みの間は上の空で何も手につかなかった。終わりの見えないトンネルに入り込んだような気持ちだった。押し寄せる自己否定の波。

 僕はモテない。僕はモテない。僕はモテない。僕はモテない。僕はモテない。僕はダメなんだ。僕はダメなんだ。僕はダメなんだ。僕はダメなんだ。

 なんとかしなければならない。そして気が付いた。

 恋愛とは実験であり、失恋とは単に実験が失敗したにすぎないのだと――。

 そう悟って以来、僕は恋愛に対するいわれのない憎悪を抱くようになっていた。

 

 

 

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