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 列車は動き出した。──そっとホームの方を覗くと、男たちは紀久子に気付いていないようだった。

 紀久子は扉の前に駆けて行った。ホームに広と栄治が立っている。紀久子が必死で手を振ると、栄治が気付いて唖然とした。

 紀久子は店の男たちがいる方向を指して見せた。

 分っただろうか? しかし、もう列車はスピードを上げ、たちまち栄治と広は見えなくなり、ホームが視界から消えた。

「──どうしよう!」

 と、紀久子は震えて言った。

「仕方ないよ」

 と、美也子が紀久子の肩を叩いて、「これに乗らなかったら、見付かってた」

「ええ……。危いところで」

「あの子はあんたに気付いたんだろ? それならきっと分ってるさ」

「そうでしょうか……」

「ともかく、列車はしばらく停らない。席に座ろう」

「はい……」

「広の奴は、危機一髪のところに慣れてる。大丈夫さ」

 二人は客車に入って、座席に腰をおろした。他にほとんど客はいない。

「──息子さんと別々になっちゃいましたね」

 と、紀久子が言った。「すみません。私たちのせいで」

「なに、構やしないよ。今さら焦っても仕方ない。──せっかく買ったんだ。お弁当を食べよう」

「はい……」

 空腹を、一時は忘れていたが、冷えたお弁当のふたを開け、割りばしをパキッと割ると、紀久子も食欲が戻って来た。

 あの男たちに、栄治は見付からずにいられただろうか?

 心配しながらも、アッという間にお弁当を空にしている紀久子だった。

「──そうそう。ちゃんと食べないと、考えもまとまらないのよ」

 と、美也子は言いながら、自分もお弁当を食べていた。

 紀久子は息をつくと、

「反対方向の列車に乗っちゃったんですね」

「こんなこともあるさ」

 と、美也子は笑って、「ともかく、終点まで行こう」

「でも、広さんたちは東京へ──」

「東京に行ったら、立ち回る所は分ってる。ちゃんと会えるさ」

 と、美也子は言って、「少し寝ておきな。疲れが取れるよ」

 と、目を閉じた。

 ──紀久子は、眠るどころじゃなかった。

 もしこれきり、栄治と会えなかったら?

 栄治を追って行っても、東京のどこにいるのか……。

 いや、それよりも店の男たちは、もちろん栄治のことも知っている。あのホームに、まだ上り列車は来ていなかった。

 紀久子はこうして反対方向の列車に飛び乗れたが、栄治は……。

 人の少ないホームで、店の男たちの目を逃れられるとは思えなかった。今ごろ栄治は──。

「ごめんね、栄治」

 と、紀久子は小声で言った。

 大堀美也子は、紀久子の隣でアッという間にいびきをかいていた。

 そして栄治は……。

 

 殴られて気を失っていた栄治は、体を揺さぶられてハッと気が付いた。

「おい、大丈夫か?」

 と、声をかけたのは大堀広だった。

「あ……。あの……」

 と言いかけて、栄治はお腹を押えて呻いた。

「悪かったな。手加減してられなかったんだ」

 栄治は、自分が列車に乗っていることに気付いた。列車は走っている。

「僕は……どうしたんだろ」

「母さんとあの子は下りの列車に乗ってったんだろ? お前が呆気に取られてるから、俺だって、どうなってるか分らなかったよ」

 と、広は言った。「でも、すぐにお前が気が付いたんだ。ホームに上って来た男たちのことに」

「そうだ! ──紀久ちゃんはあの連中と出くわしてしまいそうになって、きっととっさに下りの列車に……。そうですよね、お母さんがそうさせたんでしょうね」

「ああ、母さんはそういうことをやってのけるんだ」

 と、広は肯いた。

「でも、僕は──」

「憶えてないか? お前はあのままじゃ連中に見付かるところだった。だから、俺は力一杯、拳でお前の下腹を殴ったんだ」

「それで……」

「お前が体を折ってぐったりしたんで、俺は酔っ払いを抱えてるふりをして、『しょうがねえな。だからそんなに飲むなって言ったんだ』って、大きな声で言った。お前は顔を伏せちまってたから、あの連中は気が付いてなかったよ。ホームを駆け回って、『いないぞ、どうしよう』って言い合ってた。大方、逃がしちまったら、とんでもなく大目玉をくらうんだろう、かなり焦ってる様子だったぜ」

「ああ……。そうか。ともかく、急に目の前が真暗になって……」

「上りの列車が入って来て、あの三人は、『まだ駅に来る途中かもしれねえ』って言ってホームから駆け下りて行った。で、俺はお前を何とか上り列車に乗せたってわけさ」

「本当に……ありがとうございました」

 やっと事情が呑み込めて、栄治はそう言ったが、「いてて……」

 と、下腹を押える。

「大丈夫か? 思い切りやっちまったからな」

「いいんです。そうでないと……」

 と、栄治は息をついた。

 少しすると、痛みも治まって来た。栄治は、

「僕らのせいで、こんなことになって……」

「なに、どうってことないさ。母さんと二人だったら、駅員の目についたかもしれねえが、そこはお前たちのおかげでごまかせた。まあ、心配いらねえよ」

「でも……紀久ちゃんはどうしてるだろう……。たぶん、東京に出ては来ると思うけど」

「どこへ行くとか、決めてなかったのか?」

「ええ、何も。知り合いったって、助けてくれそうな人は……」

「あんまり人をあてにしないことだな」

「ええ、それは分ってます。二人だけで何とかしないと、って話してたんです」

「俺の方は、母さんの考えることは大体見当がつく。うまく会えるさ」

「すみません、本当に」

 広はちょっと笑って、

「あの女の子が言ってたな。お前がいつも謝ってばっかりいるって。その通りだな」

 と言った。「ところで、腹の具合がもう良かったら、せっかく買った弁当だ。食べるか?」

 栄治は下腹を撫でて、

「はい! いただきます」

 と言った。

「よし。──しかしな、栄治って言ったっけ? 一応、兄弟ってことにしておこう。他人同士じゃ怪しまれるかもしれねえからな」

「はい、分りました」

「おい、兄弟でその口のきき方はないだろ?」

「あ……。すみません」

 栄治はまた謝っていた……。

 

 栄治のことが心配で、眠るどころではない──。そう思っていた紀久子だが、いつの間にか疲れには勝てず、眠り込んでいた。

 ほんの一瞬、という感覚だったが、ハッと目を覚ますと、隣で美也子が新聞を広げていた。

「ああ……。私……眠っちゃった」

 と、頭を振る。

「よく寝てたね」

 と、美也子は微笑んで、「体が要求しているときは、ちゃんと寝た方がいいのよ」

「私……どれくらい……」

「三時間くらいかしらね」

「そんなに! 今、この列車は──」

「そろそろ終点だよ。そこからどうするかね」

「私──栄治さんのことが心配で」

「分ってるよ。だけど、確かめようがないからね」

「そうですね」

「ほら、お母さんと娘だろ。忘れないで」

「あ……。ごめんなさい、お母さん」

 と言って、紀久子は「お母さん」という言葉がごく自然に言えたのがふしぎだった。

「そろそろ着くよ。──もう真夜中だからね。一旦は降りて駅を出ないと」

「でも、切符が……」

「間違って乗っちゃったって言うしかないよ。駅で泊るにゃ寒いし」

「ええ。どこかに泊る?」

「まあ、ちょっとした町だからね。駅の辺りに、安いホテルぐらいあるだろ」

 そう言って、美也子は欠伸をした。

 ──列車を降りると、二人は改札口を出た。

 夜遅いせいか、駅員がいないので、そのまま外へ出た。

 電話ボックスがあった。紀久子は足を止めて、

「私──店に電話してみたいんだけど」

「大丈夫なの?」

「使用人の寝間の廊下に電話があって、それなら、父や番頭さんは出ないから」

「最近は何とかいう──携帯電話だっけ? あんなのを持ち歩いてる奴がいるね。あんたの所は?」

「父だけが持ってた。半年ぐらい前かな。手に入れると、嬉しいらしくて、用もないのに知り合いに電話しまくってた」

「東京にでも出れば、たぶん大勢持ってるんじゃないの。──じゃ、そこの公衆電話でかけてごらん」

「はい。小銭は持ってるんで」

 電話ボックスに入ると、紀久子は十円玉を何枚か入れて、店の奥の電話番号へかけた。

 すぐに出て、

「はい。──もしもし?」

「良子ちゃん? 私、紀久子よ」

「まあ、お嬢様!」

「しっ! 他の人に聞かれないで」

「はい。大丈夫です。みんな駆り出されて、ほとんど誰もいません」

「そう。あのね、小山栄治のことだけど」

「栄治さんと一緒ですって、本当なんですね! 凄いなあ」

「ね、栄治はどうなってる? 見付かった? 私、はぐれちゃったので」

「そうですか。いえ、まだ見付かってません。旦那様の怒鳴り声がずっと聞こえてますけど、まだ見付かってないんですよ」

「良かった! 栄治が無事なら」

 と、紀久子は息をついた。

「これからどうなさるんですか?」

「考えるわ。でも、もう二度と家には戻らない」

 紀久子はきっぱりとそう言った。

 

 

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