1 企み
強い風は止んだようだった。
「静かになったね」
と、大堀美也子は言った。「私たちは行くよ」
「僕らも」
と、小山栄治は言った。「──歩けるかい?」
「ええ、大丈夫」
と、紀久子が立ち上った。
「じゃ、旅は道連れと行こう」
と、美也子は愉しげに、「お巡りたちと出会ったら、あんたたちは巻き込まれないようにね」
「そうします」
と、栄治は言った。「僕が外の様子を」
壊れかけたドアをそっと開けて、「──大丈夫です」
「じゃ、行きましょう」
と、紀久子が栄治の手を取った。
すると、
「待ちな」
と、美也子が言って、自分のコートを脱ぐと、紀久子の体にかけてやった。
「あの……」
「それじゃ、いくら何でも寒過ぎる。私は大丈夫。下に何枚も着込んでるからね」
「そんな……。申し訳ないです」
「いいから、早く出かけよう」
「はい」
紀久子は、美也子のくれたコートに腕を通した。
四人は、外へ出て、歩き出した。
──ふしぎな気分だ、と栄治は思った。
一緒にいるのは、ナイフを持った逃亡犯なのだ。
それでも、なぜか栄治は、この母と子を恐ろしいと思わなかった。
紀久子にコートを着せてくれる美也子に、栄治は感謝の思いを抱いていた。そのやさしさは、本物だった。
二人が何をして逃げているのか、それは分らない。だが、今の栄治には、こうして一緒に歩いていることの方が、重要に思えた。
──ふしぎなもので、二人が四人になると、道を辿るのが苦にならなくなった。
紀久子も、別人のように力強く歩いていた。コートのせいもあったかもしれない。
「──国道だ」
と、広が言った。
ちょっと呆気ないほど、四人はいつしか国道に出ていたのである。
「路線バスがある」
と、美也子が言った。「鉄道の駅まで行って、そこからは列車だ」
「──ありがとうございました」
と、紀久子がコートを脱ごうとした。
「それはあんたにあげたんだ。この先だって寒いよ」
「──すみません」
バスの停留所がある。他に人はいなかった。
「まだ手は回ってないようだ」
と、広が言った。「じゃ、ここからは、二人ずつってことだ」
「待って」
と、美也子が言った。「いいことを思い付いたよ」
「母さん──」
「駅まで、違う二人組で行かない?」
「何だ、それ?」
「捜してるのは、若い男女と、親子。──一旦、女同士と男同士の二人組になるのさ」
栄治と紀久子は顔を見合せた。
「ね? 五十女と十七の娘、これなら母と娘で通る。広と、そっちの男の子は男の兄弟に見えるだろ。捜してる方が、駅の辺りに手を回していたとしても、違う二人組なら、気付かれない」
と、美也子は言った。「もちろん、あんたたちの顔を知ってる人間がいたらしょうがないけど、そうすぐには──」
「すばらしい考えです!」
紀久子が突然力をこめた声で言ったので、栄治はびっくりした。
「紀久ちゃん──」
「美也子さんの言われた通りにしましょう。駅で列車に乗ったら、元の二人に戻ればいいわ。家からは、駅に連絡が行ってる可能性があるけど、でも私たちの顔は知らない。こちらの『お母さん』と一緒にいれば、誰も疑わない」
「決りだ!」
と、美也子は手を打って、「じゃ、バスが来たら一緒にね、紀久子ちゃん」
「はい、お母様」
二人は笑ってしまった。
まさか──こんなことになろうとは。
しかし、栄治の内には、どこかゲームでもしているような感覚が生まれて来ていた。
「──さあ、バス代だよ」
と、美也子は栄治に言って、現金を渡した。
「すみません。お借りします」
と、栄治は言った。
「いいのよ」
と、美也子はちょっと照れたように、「ほら、運良くバスが来たよ」
バスの中でも、美也子と紀久子、広と栄治という取り合せで、他人同士のように、離れて席に着いた。
「三十分ほどで駅だよ」
と、美也子は言った。
「ありがとう。美也子さん」
と、紀久子は言った。「ご親切は忘れません」
「もういいよ」
と、美也子はバスの中を見回して、「ほとんど、地元の人たちだね」
「ええ。──私の父は、ほとんど学校へ通えなかったんです」
「苦労人なのね」
「ええ。でも──苦労が人を作ると言いますけど、父の場合はそれが悪い形で現われてしまったんです」
美也子がバスの窓の外へ目をやる。
「──ほら、もうすぐ駅だよ」
と、美也子は言った。
バスは駅前のターミナルへと入って行った。
駅の辺りはさすがに明るく、いくつか店も開けていて、列車を待っているらしい人たちの姿もあった。
「あんたたちはどこへ行くつもり?」
と、大堀美也子が紀久子に訊いた。
「とりあえず東京へ」
と、紀久子は言った。「少しは知ってる人もいますから」
「でも、あんたが知ってるってことは、あんたの親父さんも知ってるんじゃないの?」
「ええ……。それは……」
「友達とか、昔の知り合いといっても、あんまり信じちゃいけないよ。誰だって、厄介なことには係り合いたくないものさ。ともかく、あんたの親父さんは、あらゆる知り合いに手を回すと思った方がいい」
紀久子は緊張した面持ちで、
「ありがとうございます。私──子供のころの友達でも頼って行こうかと思ってました。でも、もちろん父もそれぐらいのこと、考えますよね」
「まあ、私の口を出すことじゃないけどね」
「いいえ。言っていただいて助かりました」
と、紀久子は言った。
バスが駅前に停って、ほとんどの乗客が降りた。
「──じゃ、東京行きでいいんだね?」
「でも……」
「大都会の方が、身を隠すにも、仕事を見付けるにも便利だよ」
美也子は東京行のチケットを二枚買って、一枚を紀久子へ渡すと、
「向うも同じはずだよ。大丈夫、広も金は持ってる」
「すみません」
「ともかく店をうろついてるわけにゃいかない。ホームに上ろう」
美也子と紀久子、そして、広と小山栄治は改札口を通って、階段を上り、ホームに出た。
ホームの一方の側に列車が停っていた。
「これは逆方向のやつだよ。上りも五、六分で来るはず」
と、美也子は言って、「お弁当買おうか。お腹空いてるんじゃない?」
紀久子はちょっと頬を染めて、
「お腹が空いて、目が回りそうです」
と言った。
ホームの売店に、種類は少ないが、お弁当が置かれていて、美也子が買っていると、広もやって来て、二つ買った。
「──それらしいのはいないぜ」
と、広が言った。
美也子がチラッと広をにらんで、
「油断するんじゃないよ」
と、小声で言った。「列車が動き出すまでは、知らない同士。いいね」
「分ってるよ」
と、広は肩をすくめた。
ホームに、アナウンスが流れた。
「一番線に上り列車が参ります」
「時間通りだね」
と、美也子は紀久子に言った。「日本の列車が時刻表通りで、私たちのように、やばいことやって逃げる身にはありがたいよ」
そのとき、ホームにベルの音が鳴り渡った。
停っていた下りの列車が発車するのだ。
「──自由席の方へ行って、待ってようかね」
と、美也子が促して、紀久子はすぐ後について歩き出した。
紀久子の顔にも、安堵の色が浮んでいる。
すると、ホームへとバタバタ足音をたてて駆け上って来た男たちがいた。それを見て紀久子がハッと息を呑んで立ちすくんだ。
「いやだ!」
と、囁くような声で言って、美也子の後ろに隠れた。
「どうしたの?」
と、美也子が訊く。
「店の者です! 見付かっちゃう!」
三人の男たちは、ホームを見回している。
紀久子たちとの間は十メートルもなかった。紀久子が隠れようとしても、二、三秒後には見付かってしまうだろう。
ベルが鳴り終っていた。車掌の笛がピーッと鳴った。
美也子は紀久子を抱き寄せるようにして、
「乗るよ!」
と言った。
「え?」
ためらう間もなかった。二人は閉じようとする扉へと飛び込んだ。次の瞬間、扉が閉じた。
美也子と紀久子は扉のそばから離れた。
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