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 息子は、男らしいほうだと思う。
 机にかじりつくのは苦手だが、体を動かすのは大好きで、小学生の頃から手当たり次第にスポーツをしていた。野球にサッカー、水泳など試したあげく、空手に落ち着いた。武道は精神鍛錬にもいいから、と熱心にすすめた夫の影響もあると思う。全国大会に出場した実績もあるし、初段の黒帯だ。高校に入学してから道場に通う頻度は下がったが、気が向けば稽古に励んでいる。
 なのに、どこでどう間違ったのだろう。世の中には途方もない女好きも存在するのに、どうしてその欠片かけらも息子にはないのだろう。
 わたしは今、聖将の部屋の前に突っ立っている。
 息子の部屋に足を踏み入れる機会は、ここ数年なくなっていた。
 聖将が中学にあがったばかりのある日、「ババア、入ってくんじゃねえ!」と、すっかり声変わりした声ですごまれて以来、入るのを控えていたのだ。
 あの日、息子が自分の手を本格的に離れてしまったのを悟った。小さな頃はママ、ママと後ろをついてまわっていたのが、小学校に入った途端、誰に教わったわけでもないのに「お母さん」と呼ぶようになり、高学年になると授業参観へ来られるのをいやがり、中学生になったら目も合わさず、口もろくにきかなくなった。
 けれどもわたしはそれを認めたくなくて、食事中に絶えず話しかけたり、週末は家族で映画に行こうと誘い続けていた。それがある日、いつもの調子で、掃除機をかけようとノックをせずに聖将の部屋のドアを開けたとたん、怒鳴りつけられたわけである。久しぶりに口を開いたと思ったら、しかもババアだなんて!
 鋼鉄製のハリセンで百回ぶたれるくらいの衝撃だったが、気を取り直して、「じゃあこれからは自分で責任持って掃除しな」とベッドに掃除機を投げつけて部屋を出た。
 涙が出てきたのは、なんとその二日後だった。あまりにも衝撃が大きくて、脳が出している「泣いていいですよ」という信号を体が受け取るのに時間がかかったようだ。年を取ると運動してすぐではなく、数日後に筋肉痛が来るような感じか。夜シャワーを使おうと脱衣場を開けると、洗濯機に聖将の脱ぎっぱなしのTシャツやトランクスが丸まってあり、それがまた男臭くて、これまでしっかり抱きしめていたと思っていた息子が急に遠くへ行ってしまったような気がして、わんわん泣いたのである。
 それからというもの、息子の部屋は、持ち主の心と同じく固く閉ざされ、わたしにとっては未知の領域となった。
 けれども今、わたしはその部屋のドアを開けようとしている。
「シーツ、そうシーツ替えなくちゃ」
 わたしは自分に言い聞かせた。
 でもそんなこたあ、言い訳だってわかっている。シーツだって、聖将はマメに自分で取り替えているのだから。
 息子のことを、探りたくて仕方がない。親として間違っているのは、じゅうじゅう承知だっつーの。でもここまで来たら、我が子のプライバシーなんてクソ食らえだ!
 むきむき裸体満載のエロ本や、ゲイのポルノDVDがどっさり出てきても焦るまい、と気丈に誓い、えいや! とドアを開けた。
 久しぶりに入る息子の部屋は、意外に片付いていた。ベッドに本棚、ゲーム機、そして学習机を卒業して数年前に買い換えたコンピューター対応のデスク。聖将自慢のMacが、ピカピカに磨かれて鎮座ましましている。
 大学卒業後すぐに聖将を身ごもり、就職経験を持たないまま十七年間過ごしてきたわたしは、スマホで事足りることもあってパソコンに興味を覚えたことがなかった。だが、今それが猛烈に悔やまれている。使い方を知っていたら、メールも盗み読めたかもしれないのに。
「さて、掃除掃除」
 天の誰かに言い訳するように、声を張りあげた。
 床に散らばった漫画を本棚にしまいつつ、それっぽい本が隠されていないかチェックする。が、なかった。掃除機をかけながら、ベッドの下を覗く。何もない。脱ぎ捨ててあるパーカーをハンガーにかけ、クロゼットにしまう。服や鞄、空手の道着があるだけで、特に不自然なものはないようだ。
 わたし、何やってんだろ。
 急に自分のしていることがバカバカしくなって、ため息をついた。
 ベッドの上でくちゃくちゃに丸まっているタオルケットを畳む。シーツをマットレスから外しかけると、ふっと聖将の匂いがした。
 ──あの子、わたしがいない間に、誰か連れてきたことあるのかしら。
 思わずシーツを外す手が止まる。
 ──もしかして、このベッドで……
 したくもないのに、妄想の雲が頭上にひろがっていく。
「きゃー! やめてやめて!」
 わたしは両手を振り回して、雲を掻き散らす。それなのに頭は勝手に、
 ──どういう風に始まるんだろ。
 ──聖将は攻め? 受け?
 ──声は出すの?
 などと、次々に妄想を繰り広げていく。かつてのJUNE読者には、男同士のコトの成り行きが、事細かに思い描けてしまうのだ。
 ああ、息子のベッドの中のこうなんて知りたくないのに!
 両手でピシピシと顔面を叩くと、急いでシーツをひっぺがし、むんむんする部屋から転がり出た。

「最近へんやね。なんかあった?」
 夕飯の時、夫のいねが言った。茶碗と箸を持ったまま考え込んでいたわたしは、ハッと我に返る。カミングアウトから五日が経っていた。
「え、なんで?」
「めっちゃぼんやりしとぉ」
 親の都合で日本各地いろいろな地方に住んだ経験のある夫は、メインの関西弁以外に色んな方言の交ざった独特の喋り方をする。
「そんなことないわよ」
「でも最近、食も細いやん」
 あの日から聖将は夜遅く帰宅するようになった。連日徹夜で試験勉強を頑張ったのだからと、我が家の試験休み中の門限は緩く、叱りはしない。なのに顔を合わせるのが決まり悪いのか、わたしが寝る頃合いを見計らうように、そっと帰ってくる。
 わたしの方もどう振舞えばよいかわからず、夜は早々と床につき、聖将が起きだしてくる昼近くにはスーパーや図書館へ出かけ、ムダに時間を潰している。だいたい三時ごろに帰ると、聖将は出かけた後だ。ここ数日はそうやって、わざとすれ違っている。
 気にしない、気にしても仕方がないと思いつつ、無意識にため息をついているし、食欲も落ちてしまった。
「本当に……なにもないわよ」
「そう? ならいいけど」
 夫は呑気に冷奴に箸を伸ばす。この人はまさか自分の息子がゲイだなんて夢にも思わないんだろうな、と夫の顔を見つめる。
「なんなん、じろじろ見て」
 夫にも自分にも変わったところはない。なのにどうして息子はゲイになったんだろう。育て方? 環境? それとも生まれつき? わからない。夫が知ったらどう思うんだろう。心臓麻痺を起こすかもしれない。聖将は、いつの日か夫にも打ち明けるつもりなんだろうか。
「ねえ」
「ん?」
「あなた、孫欲しい?」
「はあ?」
 冷奴のネギを歯にくっつけたまま、夫がきょとんとする。
「なんで突然」
「いいから」
「僕、先月四十五歳になったばっかりやん。まだまだ孫なんてかんべんしてや」
 ビールを片手に大笑いする。
 そう。そうなんだよね。
 わたしだって、これまで、なにがなんでも孫を抱きたいと思っていたわけではなかった。どっちかっていうと、二十三歳で出産して、ここまで育てただけでもイッパイイッパイで、「あともう一人くらい産んでおけばよかった!」と後悔したこともない。
 なのに聖将の人生から一切、そういう可能性がこっぱみじんに消えさった途端、なんだか無性に孫が欲しくなってしまったのだ。
 夫も、もしも聖将の秘密を知ったら、同じ反応をするんじゃないだろうか。人間は、手に入らないものを切に求める生物だもん。今思えば、ゲイに憧れていたのだって、手が届かないと思っていたからなんだ。
 ああ、あなたとわたしの息子、聖将に子供は望めません。杉山すぎやま家はここで途絶えます。

 やはりその夜も、聖将は十時過ぎに足音を忍ばせて帰ってきた。
「おかえり」
 パジャマ姿のわたしが出迎えると、うわっと聖将は声をあげた。
「なんだよ、起きてたの?」
「眠れなかったのよ」
 ちょっぴりイヤミったらしく言ってみると、聖将は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「オヤジは?」
 寝ているのか、と訊いているようにも、オヤジにも例の件を話したのか、と訊いているようにも取れるニュアンスだ。
「あいかわらずよ」
 わたしも、どちらにも取れる答えで返す。
 それから少しの間、向かい合ったままうつむいていた。何をどう話せばいいのか思いつかない。
 本当は、わたしは聖将と対決しようと思って待ち構えていたのだった。やっぱり聖将が男を好きだなんてあり得ない、一時的な思い込みに決まってるから、とりあえず気楽な気持ちでカウンセリングへ一緒に行ってみよう──そう諭すつもりだった。
「あ、そうだ」
 聖将が思いついたように声を出す。
「ファミレス行こっか」
「え」
「行こうよ。どうせオカンも眠れないんでしょ。お茶しに行こ。着替えてきなよ」
 こんな夜中にファミレスなんて、と言おうとしたのに、体は勝手に二階の寝室に行き、Tシャツとジーンズを手に取っていた。「お茶しに行こ」だなんて、なんだかデートに誘われたみたいで、ちょっぴり浮かれてしまう。
 夫を起こさないように静かに着替えて下りると、聖将は外に出て待っていた。歩き出すと、ちゃんと聖将は車道側を歩いてくれた。背はとっくに夫よりも高く、肩幅もあって胸板も厚い。
 ──勝手に、一人で大きくなっちゃってさ。
 わたしはすねたような気持ちになる。
 ファミレスは混雑していた。二十分ほど待ってやっと席に着くと、聖将がメニューを広げてわたしの目の前に置いてくれる。
「好きなもの頼んでいいよ。俺のおごり」
「聖将の?」
「うん。バイト始めたもん」
「うそ。わたし聞いてないわよ」
「あー、オヤジから保護者同意書のハンコもらったから。オカンから、もらいにくくて」
 夫は当然わたしも知っていると思っていたのだろう。だけど、一人だけ除け者にされたような気がして、腹が立つ。
「どこで働いてんの」
「ラーメン屋」
「お小遣いじゃ足りないわけ?」
「ゲームとか服とか色々買いたいじゃん。新しいスマホも欲しいし」
 どんどん距離が遠のいていくような気がする。
「わたし、プリンアラモード」
 デザートメニューの中で、一番高いのを選んでやった。
「マジで? こんな時間に?」
「いいでしょ別に。好きなんだから」
「プリンアラモードねえ。ガキみてえ」
 ふん。十七歳の息子にガキ扱いされてりゃ世話ねえよ。ウェイトレスにオーダーする息子にむかって、わたしは心の中で毒づいている。
 ファミレスには、いろんな人がいる。サラリーマン風の男性連れ、OL、カップル……と、なんと隣のテーブルで、ボーイズラブ系の雑誌を読んでわいわい騒いでいる女子グループがいるではないか。
 まるで過去の自分と優美を見ているようで、めまいがした。あんたたちね、今そうやってキャッキャ喜んでるけど、将来自分の息子がそっちの世界に走ってしまったらどうする? 同じようにはしゃいでられる? 現実に起こってしまったら、ましてやそれが息子だったら──そんな風にしてられないんだよ。
「やっぱさ、ショックだった?」
 コーヒーとプリンアラモードを運んできたウェイトレスが立ち去るのを確認してから、聖将が口を開いた。
「なにが」
「とぼけないでよ。俺が、その、オトコしか好きになれないって」
 また耳元でぐわーん、と銅鑼ドラが鳴る。やっぱり何度聞いても、百メガショックだ。
「べ、別に」
「取り繕わなくていいよ。俺も、突然あんなこと言って悪かったって思ってるし」
 ナーバスになっているのか、聖将はコーヒーカップを両手でいじくり回している。
「あのさオカン、覚えてる? 俺が反抗期に入って、オカンと口きかなくなった時、こう言ってくれたじゃん。『あんたがずっと黙っていたいんならそれでもいい。でも、一人で抱えきれないことがでてきたら、いつでも打ち明けて。わたしの心はずっとスタンバイしてるから』って」
 そういえば言った気がするが、はっきり覚えていない。きっとたまたま読んだ教育雑誌かテレビドラマの影響だと思う。
「うん。でもあんた、シカトしてたじゃん」
 確か聖将は応えもせず、そのまま部屋へ入っていったのだ。
「でもホントはさ、めちゃめちゃ嬉しかったんだぜ。あの時ね、自分の興味がオトコばっかりにいくって自覚し始めた頃だったんだ。どうしていいかわかんなくて、で、オカンにも反発してた。でもオカンがああ言ってくれたおかげで、俺にもちゃんと味方がいるじゃんって──実はあの後、部屋に戻って、泣いた」
「やだホント?」
「うん、ここに刺さった」
 聖将は胸の辺りを指差した。
「そうだったんだ……」
「だからさ、今回、オカンだったらわかってくれるんじゃないかなって勇気を出した。でも苦しめただけだったかな」
 ごめんな、と小さな声で言い、目を伏せた。
 なんにも変わっちゃいない。
 男しか好きになれなくたって、この子自身は、なんにも変わっちゃいないんだ。
 ごく普通の高校生。ちゃんと真面目に学校へ行って、友達と遊んで、バイトして、恋をして──たまたま、その相手が同性っていうだけで、聖将は聖将。
 肩をすぼめて、わたしからの優しい言葉だけが救済であるかのように待っている聖将は、まだまだ頼りない子供だ。愛しい息子だ。
 謝る必要なんて、ない。
 何ひとつ、息子は間違ったことなんてしていないんだから。
「明日……は急か。あさってって、まだ試験休みだっけ」
「へ? うん、俺は補講もないから」
「バイトは?」
「あさっては休み」
「ふーん……じゃあ暇?」
「まあ、暇っちゃ暇だけど」
「あんたの、その……彼氏は?」
「え?」
 聖将が目を見開く。
「だから彼氏は暇かって訊いてんのよ」
「ああ、うん大学も夏休みだから」
 てっきり同年代のお相手だと思い込んでいたので、意外に思いつつ続けた。
「そう。じゃあうちでランチでもどう?」
 聖将の顔から戸惑いが消えて、じわじわと喜びの表情に変わる。
「マジで? いいの?」
「いいわよ」
「オカン、ありがと。めちゃくちゃ嬉しい」
 いかにわたしの息子でいられてラッキーかを延々と語ると、聖将は弾むような手つきで彼にお誘いのLINEを打ち始めた。
 さあ、どうするわたし。
 調子に乗って、うっかりものわかりのいい親を演じてしまったぞ。
 夜の窓ガラスに映った自分の顔を、いましめるように睨みつけた。

 

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