「やっほー、キャビアなんて買ってきちゃったあ」
その日、優美は張り切って朝の十時にやってきた。
昨日の夕方から買出しに行ったというだけあって、DEAN&DELUCAのオリーブオイルやイナウディのアンチョビ、二十五年もののバルサミコ酢など、その辺のイタリアンレストラン顔負けの食材を両手一杯持ってきた。
聖将の彼氏を招待してしまった、と翌日電話したわたしを、優美は祝福した。
──あんだけドン引きしてたくせに、やるじゃないの。
「でも、良かったんだか悪かったんだか……」
──聖将くん、喜んでたんでしょ。
「そりゃあもう」
──じゃあ良かったんだよ。
「そうかなあ。……ねえ、優美」
──なあに?
「明日、うちに来てくれない?」
──あらあ、最初からそのつもりだったわよぉ。
こんなオイシイ話、見逃すもんですかと、優美はからからと笑っていた。
「ねえ、ティラミス作るでしょ? マスカルポーネチーズも買ってきたよ。莉緒のお手製は絶品だもんなあ。わたし切るの専門ね。あ、カルパッチョなら作れるよ」
食材を買い漁るのは大好きだが加工するのが苦手な優美は、紀ノ国屋などで珍しい食材を「見た目買い」しては、しょっちゅうわたしの家へ持ち込んでくるのだ。
起きてきた聖将が、台所に立つ優美を見て驚いている。
「あら、聖将くんおはようー」
「おはよう、ござい、ます……」
「あ、あのね、お母さん一人じゃお料理大変だから、優美にも来てもらったの。一緒にお昼もいてもらうけど、いいでしょ?」
まさか優美が興味津々だなんて言えない。
けれども聖将は、「もちろん喜んで。お世話になります」と笑顔で好青年の応対をした。
魚を蒸したり牛肉を煮込んだりしているうちに、あっという間に時間は過ぎた。ボーイフレンドが来るのは十二時半だ。あと三十分しかない。胸の鼓動が、急に速くなる。
「駅に着いたって。迎えに行ってくる」
いつになく黒のモード系でキメた聖将が、玄関から出て行く。珍しく鼻歌なんか歌っていた。そのうきうきした様子が、わたしの神経をヒリつかせる。
聖将がおしゃれをするのは、男性のためなんだ……。
結局、まだ聖将が女性に興味がないという現実を消化しきれないでいる。できれば、やっぱりノーマルな人生を歩んでほしい。聖将の体に男が触れるのかと思うと、胸がざわつく。こんな調子で、ボーイフレンドなんかと会っても大丈夫なんだろうか。取り乱すんじゃないだろうか。
急に、地面が揺らぐような不安に襲われた。
「ねえ」
たまねぎを切っている優美の腕を掴む。
「やっぱり……やめようかな」
「やめるって何を?」
「会うの」
「はあ? 何言ってんの、今さら」
「具合が悪くなったことにする」
「ばかじゃないの。もう聖将くん迎えに行ってるじゃない」
「スマホに電話する」
「今さらドタキャン?」
「だって怖いんだもん」
「バカ!」
平手が飛んできた。
一瞬のできごとだった。
「聖将くんはね、もっと怖かったんだよ。あんたに告白する時、決死の覚悟だったと思う。軽蔑されるかもしれない、ののしられるかもしれない、親子の縁を切られるかもしれない……何年も何年も、ずっと怯えて暮らしてきたの。苦しんでんのは、あんたじゃない。聖将くんでしょ。いいじゃんか、一回会うくらい。これくらい受け止められないで、親なんかやってんな、バーカ」
優美は一気にまくしたてると、ケロッとしてまたたまねぎを切り始めた。頬の痛みを感じる間もなかった。
玄関のドアが開いた。ただいま、という弾んだ聖将の声に続いて、お邪魔します、と物静かな、けれども明らかに男性だとわかる声が聞こえてくる。バタバタと足音がリビングダイニングに近づいてきた。優美にはたかれた頬が、今頃じんじんし始める。
「オカン! 連れてきた!」
リビングのドアをびんたするように、すごい勢いで聖将が飛び込んできた。その表情は、ママ、ママとくっついて離れなかった頃と変わっていない。わたしは勇気を出して、息子の背後に視線を移した。
控えめだが、爽やかな笑みを浮かべた青年が佇んでいた。身長は百八十センチの聖将より少し高い。水色のポロシャツにジーンズ。流す程度に長めだけど清潔感のある髪。ピアスや指輪やネックレスなどのアクセサリー類もなく、チャラチャラしていない落ち着いた雰囲気。「こんな子がうちの息子だったらねえ」と近所のオバサンたちが噂しそうな、そんな青年だ。
「これうちのオカン。そんで近所の優美おばさん。こいつが雄哉」
「藤本雄哉です。はじめまして」
相手につられて、わたしもぎこちなく頭を下げた。
「いらっしゃあい! もう少しでお料理できるから待ってて。今お茶淹れるわあ」
まるで家の主のように優美が言い、ただ突っ立っているだけのわたしに代わって聖将と雄哉をテーブルにつかせ、てきぱきと紅茶を淹れた。優美に小突かれて、慌ててパスタを茹で、お手製のバジルとオリーブオイルのソースにからませる。
「あの、これ」
食卓に全ての料理が並ぶと、雄哉がおずおずとオーガンジーの布に包まれたボトルを差し出してきた。
「赤ワインです。食事に合うと思って」
「手土産なんていらねえって言ったんだけどさ、どうしてもって」
聖将はちょっと誇らしげだ。
「あらまあ、コッポラのじゃないの。莉緒、このワイン好きよねえ。どうもありがとう」
また優美に突っつかれ、わたしももごもごと「どうも」と礼を言った。
食事を始めたものの、妙にぎくしゃくしてしまう。まともに雄哉の顔を見ることができない。雄哉にもわたしの戸惑いがストレートに伝わるのだろう、目を伏せて黙々とフォークを動かしている。
「二人はさあ、どうやって知り合ったわけ?」
優美の大胆な質問に、わたしはギョッとする。
「あ、最初はネットで」
「ネット?」
「音楽のSNSがあって、そこでやりとりするうちに親しくなって。そのうちに雄哉のバンドのライブに誘ってもらった。な?」
「バンドのライブっていっても大学のサークルで、お遊びなんですけど」
「ふうーん。雄哉くんて、いくつなの」
「二十歳です」
「聖将くんの三コ上かあ。大学生? どこ?」
「S大です」
「うわあ、賢いんだねえ」
「いや、でも一浪してるんで」
優美はちらりとわたしを見た。雄哉の持ってきたワインなんて意地でも飲むもんかと我慢していたが、しらふで食事会を乗り切るのは無理だと諦め、今では二杯目に突入していた。
ふん。賢くたってなんになるんだ。相手は男だよ、オトコ。そんでもってうちの子もオトコ。男同士のカップル。なんでなわけ?
「学部はなに?」
「政治経済です」
「優秀だねえ」
だからそれがなんだっつーの。わたしはぐいぐいワインを空けていく。
「ねえねえ、雄哉くんは、聖将くんのどういうところが好きなの?」
なんてことを訊くんだお前は! とわたしは優美を睨みつけた。優美はしれっとしている。
「やだなあ、ひょっとして優美おばさん、知ってんの?」
聖将は頭を掻く。
「知ってるわよ。莉緒とわたしは親友だもん。それにわたしは、あんたたちの味方よ」
「本当に? いきなり理解者が増えたな。すげー嬉しい」
けっ、別にわたしは理解なんかしてないけど?
「で? どういうところを好きになったわけ」
「えー、本当に答えるんですか」
雄哉は顔を赤らめる。
「うーん……明るくて、素直なところかな。あと、とても家族を大事にしてるのがいいですね」
家族、という言葉に、酔いの回ったわたしも反応した。
「でも、この子、家で全然口きかなかったんだけど」
「男って家ではそうかもしれないけど、でもコイツ……あ、聖将くんの言葉の端々から、すごくいい家庭で育ったんだなってわかるんです。特に良い意味でマザコンっていうか、どこで食事してても、これならオカンのメシの方がうまいって言ってます。うちのオカンは九〇年代のビジュアル系バンド全盛期の生き証人で、当時のバンドにめちゃくちゃ詳しいとか、LUNA SEAをカラオケで歌わせたら世界一だとか。ああ、お母さんのこと、大好きなんだなって」
「……それ、ほんと?」
わたしはとろんとした目で雄哉を見る。初めて、まともに視線が合った。雄哉が微笑み返してくる。
「はい! ほんとです」
とても優しい、澄んだ目をしている。
そうなんだ。
この子だって、普通に素敵な男の子なんだ。たまたま、好きになったのがうちの息子ってだけで。
ノーマルでいることが幸せとは限らない。男と女でも、何十億という人口の中からお互いを見つけ合って惹かれ合って、一緒になるのは奇跡に近いのに、さまざまな偏見や障害があるにもかかわらず、この二人が付き合う決心をしたっていうのは、ものすごく純粋で無垢で、尊いことなんじゃなかろうか。
なにより、聖将がこんな表情を見せたのは初めてだ。
空手の試合で勝った時よりも、志望の高校に合格した時よりも、ずっとずっと幸せそうな顔をしている。
だけど──心の底では、やっぱり聖将に女性と恋愛をして結婚してほしいと願ってしまう。理性は一生懸命、聖将のことを理解して肯定しようとしているけど、感情はちっともついてきやしない。
あーもう、どうしたらいいんだ! 頭がぐっちゃぐちゃだ。でも親として正しい姿はなにかっていうと……きっとそれは、認めてあげることなんだろうな。
だってもう既にゲイなんだもん。ゲイになっちゃってんだもん。誰にもどうしようもないんだもん。きっとわたしに認めてもらえないことが、聖将にとっては一番辛いに違いない。
もうヤケだ。
認めてあげよう。
受け入れてあげよう。
ありのままを。
でも、でも、でもでもでも──
「セックスはダメです!」
突然、テーブルに手をついて立ち上がったわたしを、みんなはポカンと見上げた。
「セックスはダメなの。それだけは許しません」
すわった目をして、ぶつぶつ念仏のように繰り返すわたしを、優美は慌てて座らせようとする。けれどもわたしはその手を払いのけた。
「なにも、あんたたちが男同士だから言ってるんじゃないの。この年頃の男女のカップルにしても、親御さんはそう思うでしょ? 清い関係であってくれ、真の運命の相手に出会うまでは体を許すなって。それと同じ。あんたたちは、まだ子供なの。ちゃんと相手に対して責任を取れるようになるまで、そーゆーことはしちゃいけないの。するべきじゃないの! 相手の人生をちゃんと受け入れられるようになって、それからの話なのよ。
男同士だったら子供ができないからいい、ってもんじゃない。体の関係より、先に心のつながり! この人と一生添い遂げるんだって決意してからじゃないと、セックスしちゃいけません! No sex before marriage!!」
語っているうちにどんどん感極まり、最後はRYUICHIのようなシャウトで締めくくると、力尽きてストンと椅子に腰をおろした。三人は呆然としていたが、しばらくすると雄哉が吹き出した。
「お前のオカン、マジでサイコー」
それにつられて、聖将、優美も笑い出す。わたしだけが、どうして笑われているのかわからないまま、ぽかんとワインで上気した頬をほてらせていた。
そこからのわたしの記憶は途切れている。
結局ワインを一本まるまる一人で空け、ダイニングと一続きのリビングのソファへよろよろと辿り着いたところまではなんとなく思い出せる。だけどそれから一切覚えていない。覚えているのは、三人の笑い声と、「聖将くんと雄哉くんの、いつかセックスできる日にかんぱーい!」という、優美の高らかな音頭だけだった。
『息子のボーイフレンド』は全4回で連日公開予定