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 兵庫は、顔見知りの番士たちに迎えられて表門を潜った。
 水戸藩江戸上屋敷は、穏やかな雰囲気を漂わせていた。
 水戸藩藩主は参勤交代のない江戸じようであり、江戸上屋敷の奥御殿で暮らしている。だが、上屋敷には厳しい緊張感もなく落ち着きに満ちていた。
 兵庫は、上屋敷内に異変や違和感を感じる事はなかった。
 よし……。
 兵庫は見定め、江戸に来る度に使っている侍長屋の一室で旅装を解いた。そして、江戸目付頭松木帯刀の用部屋に向かった。

「おお、兵庫。参ったか。入ってくれ」
 江戸目付頭の松木帯刀は、訪れた兵庫を用部屋に招き入れた。
「うむ。只今、到着した……」
 兵庫は、学問所で机を並べていた松木帯刀に挨拶をした。
「御苦労だったな」
 松木は、兵庫をねぎらった。
「いや……」
 松木配下の若い目付が、松木と兵庫に茶を持って来た。
かたじけない。戴く……」
 兵庫は、茶を飲んだ。
「して、帯刀。きな臭い事とは……」
 兵庫は、茶碗を置いて松木を見詰めた。
「それなのだが、兵庫。過日、向島の下屋敷に土方縫ひじかたぬい殿すけが訪れたそうだ」
 松木は囁いた。
「土方縫殿助が……」
 兵庫は眉をひそめた。
 土方縫殿助は、老中水野出羽守ただあきらが藩主の駿河国沼津藩の家老であり、策謀家として評判の高い男だ。
「うむ。向島に所用があって参り、京之介さまの御機嫌伺いにと、訪れたそうだ」
「して、京之介さまはお逢いになられたのか……」
「うむ。土方は老中水野出羽守のふところがたなと称されている者。下屋敷留守居頭の藤森どのが苦慮されたが、京之介さまが逢おうと仰り……」
「逢われたか……」
 兵庫は読んだ。
「うむ……」
 松木は頷いた。
「して……」
「土方縫殿助、時候の挨拶をして立ち去ったそうだ……」
 松木は、困惑を浮かべた。
「時候の挨拶だけで……」
「うむ。土方縫殿助、江戸家老のさかきばらさまと画策して、上様姫君峰姫みねひめさまを我が殿の正室に押し込んだ策謀家、只の時候の挨拶だけではあるまい」
 松木は睨んだ。
「裏で何か企てているか……」
 兵庫は、お眉の方が懸念している理由が良く分かった。
「おそらく……」
「分かった。京之介さまを巻き込んでの謀を企てているなら許せぬ所業……」
 兵庫は、厳しい面持ちで告げた。
「ならば、兵庫。此度の一件、裏に何が潜んでいるか分からぬが、探ってみてくれるか……」
「心得た。もし睨み通りなら、斬り棄てる迄……」
 兵庫は、不敵に云い放った。

 隅田川には様々な船が行き交っていた。
 本所横川の流れは、水戸藩江戸下屋敷の南側で源森川となり、隅田川に流れ込んでいた。
 新八は、流れに架かっている源森橋の袂から表門を閉めている水戸藩江戸下屋敷を眺めた。
 水戸藩江戸下屋敷は小梅御殿とも呼ばれ、庶子の京之介こと虎松と生母のお眉の方が暮らしている。
 新八は、向島界隈の寺の寺男や神社の下男たちに水戸藩江戸下屋敷に変わった様子や噂がないか、それとなく聞き込みを掛けた。だが、変わった様子や噂はなかった。
 よし、もう一廻りだ……。
 新八は、料理屋や茶店の者たちに粘り強く聞き込みを続けた。
 向島の土手道の桜並木は、隅田川からの川風に緑の葉を揺らしていた。

 御座ござには夕陽が差し込んでいた。
 兵庫は、御座の間にこうし、上段の間にいる水戸藩藩主斉脩に出府の挨拶をした。
「兵庫、此度は長くいるのか……」
 斉脩は、屈託なく尋ねた。
「はい。江戸の御刀蔵に納められている数々の御刀、すべてを検め、手入れをしようかと存じまして……」
 兵庫は告げた。
「そうか……」
 斉脩は、笑みを浮かべて頷いた。
「それにしても黒木、急な出府だな」
 控えていた江戸家老の榊原淡路守は、薄い笑みを浮かべた。
「はい。いろいろ気になる事がありましてな」
 兵庫は、榊原を見据えた。
 江戸家老の榊原淡路守は、土方縫殿助が峰姫を斉脩の正室に押し込む画策をした時、密かに繋がっていた間柄だ。
 兵庫は、榊原の様子を窺った。
「気になる事……」
 榊原は眉をひそめた。
「はい。勿論、御刀蔵に納められている刀にかかわる事ですがね」
 兵庫は笑った。

 水戸藩江戸上屋敷の敷地は広く、表御殿と奥御殿、重臣屋敷、侍長屋、中間長屋、土蔵、うまや、作事小屋などがあった。
 侍長屋の兵庫の家には、明かりが灯されていた。
 新八か……。
 兵庫は、侍長屋の家の腰高障子を開けた。
「お帰りなさい……」
 新八が、表御殿の台所で作られた飯や汁、総菜を運び、夕餉の仕度をしていた。
「うむ。御苦労だったな」
 兵庫は労った。
「いえ。それで向島の下屋敷の事ですが……」
 新八は、報告をしようとした。
「新八、そいつは晩飯を食べながらだ」
「えっ……」
「一緒に食おう。お前の膳も仕度しろ……」
 兵庫は笑った。
「は、はい……」
 新八は、自分の膳の仕度も始めた。

 燭台の火は揺れた。
 兵庫と新八は、晩飯を食べた。
「して、新八。下屋敷の様子はどうだった」
 兵庫は尋ねた。
「はい。変わった様子は窺えず、界隈の寺や神社の者たちにそれとなく訊いても、不審な事や妙な噂はありませんでした」
 新八は報せた。
「そうか……」
 兵庫は頷いた。
「それで、向島の料理屋や茶店の者たちにも訊いたんですが……」
「不審な事や妙な噂はなかったか……」
「はい。ですが、下屋敷の南側、源森川の流れを挟んだ中之郷瓦町の木戸番が、夜廻りの時に下屋敷を窺っている侍たちを見掛けた事があると……」
 新八は、聞き込みの範囲を向島の南側にある中之郷瓦町に迄、広げていた。
「夜中に下屋敷を窺っている侍たちか……」
 兵庫は眉をひそめた。
「はい……」
 新八は頷いた。
「そうか。御苦労だった」
「いいえ……」
「新八。今度の騒ぎ、どうやら土方縫殿助と申す者が絡んでいるようだ」
 兵庫は告げた。
「土方縫殿助ですか……」
 新八は、土方縫殿助を知らなかった。
「うむ。土方縫殿助、老中水野忠成さまの懐刀と呼ばれている男でな……」
 兵庫は、土方縫殿助がどのような者か新八に詳しく教えた。
 新八は、飯を食べるのも忘れて土方縫殿助の話を聞いた。
「油断のならぬ男だ……」
「はい……」
 新八は、緊張した面持ちで喉を鳴らして頷いた。
「よし。明日は虎松さまとお眉の方さまの御機嫌伺いに行くぞ」
 兵庫は笑った。

 水戸藩江戸上屋敷の御刀蔵には、藩主斉脩愛用の名刀などが納められている。
 兵庫は、江戸上屋敷詰の御刀番配下の者たちに命じて用部屋に名刀を運ばせ、仔細に検めた。
 配下の御刀番は、頭の兵庫の云い付けを護り、満足な管理をしていた。
「よし……」
 兵庫は、満足げに頷いた。
 そして、新八を従えて向島の水戸藩江戸下屋敷に向かった。
 神田川には、きしみが長閑のどかに響いていた。

 

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