第一話 老猿始末
一
水戸城御刀蔵には、藩祖頼房以来集められた宝刀や名刀が数多く収蔵されていた。
水戸藩の御刀蔵は江戸上屋敷にもあり、当代藩主斉脩愛用の名刀が保管されている。
水戸城御刀蔵の隣にある納戸方御刀番頭の用部屋には、中庭から差し込む陽の光が穏やかに溢れていた。
白鞘から抜かれた備前長船定景の一刀は、陽差しを受けて蒼白く輝いた。
水戸藩納戸方御刀番頭の黒木兵庫は、抜いた備前長船定景の目釘を外し、柔らかい紙と布で刀身を拭い、打粉を打って再び布で拭った。そして、茎尻を下に据えて蒼白く輝く備前長船定景を眺めた。
蒼白く輝く備前長船定景は、刃長二尺二寸九分五厘(約七〇センチ)。反りは六分九厘(約二センチ)。地鉄の肌模様は杢目肌。刃紋は丁子に互の目……。
兵庫は、袱紗を宛てがって刀身を仔細に検めた。
「よし……」
兵庫は、備前長船定景の保管状況を満足そうに頷いた。
そして、布に丁子油を滲み込ませて刀身に塗り、柔らかい紙で余分なものを拭き取り、はばきを嵌めて柄に差し込み、目釘を打って白鞘に納めた。
「黒木さま……」
配下の御刀番が戸口にやって来た。
「どうした……」
「はい。御城代の安藤さまがお呼びにございます」
「安藤さまが……」
「はい」
「分かった。直ぐに参る……」
兵庫は、白鞘に納めた備前長船定景の一刀を白鞘袋に入れて御刀蔵に納め、城代家老の安藤采女正の用部屋に向かった。
城代家老安藤采女正の用部屋は、静けさに満ちていた。
「お呼びですか……」
黒木兵庫は、文机に向かっている城代家老の安藤采女正に声を掛けた。
「おお。黒木、入ってくれ」
安藤は、兵庫を用部屋に招き入れた。
「はっ……」
兵庫は、用部屋に入って安藤の前に座った。
「して、御用は……」
「急ぎ江戸表に行ってくれ」
安藤は告げた。
「江戸に……」
「うむ。江戸目付頭の松木帯刀の書状によると江戸表が何やらきな臭いようだ」
安藤は、腹立たしさを滲ませた。
「きな臭い……」
兵庫は、戸惑いを浮かべた。
「うむ。下手をすれば虎松さま、いや、京之介さまが巻き込まれる恐れがあるそうだ」
虎松は、既に十二歳になり、幼名を京之介に変えていた。
「虎松さまが……」
兵庫は眉をひそめた。
黒木屋敷は水戸城下の外れにあった。
兵庫は下城し、屋敷に急いだ。
「あっ。兵庫さま……」
向かいから来た若い小者が、兵庫に気が付いて駆け寄って来た。
「おお。新八……」
新八は、黒木家に長年奉公している老下男五平の十八歳になる孫であり、見習下男を務めていた。
「江戸表のお眉の方さまから書状が届き、大旦那さまが兵庫さまに直ぐに報せろと……」
新八は告げた。
「お眉の方さまから書状……」
「はい……」
お眉の方は、水戸藩藩主水戸斉脩の側室であり、若君京之介こと虎松の生母だった。そして、家臣の娘のお眉の方は、黒木家とも知り合いであり、兵庫とは幼馴染みと云えた。そのお眉の方は、七年前に裏柳生の刺客に狙われた虎松が兵庫の警護で江戸に行った後、追って江戸に赴いていた。
「よし……」
兵庫は、屋敷に走った。
新八は続いた。
兵庫は、お眉の方からの書状を読んだ。
父親の嘉門は、書状を読む兵庫を見守った。
兵庫は、書状を読み終えて小さな吐息を洩らした。
「読んだか……」
「はい……」
「江戸表で何が起きているのか……」
嘉門は、白髪眉をひそめた。
「何れにしろ、京之介さまが巻き込まれる恐れがあるとの、お眉の方さまの御懸念、尋常ではありませんね」
兵庫は読んだ。
「うむ。直ぐに参らねばなるまい」
「はい。父上、今日、御城代の安藤さまが江戸表がきな臭いとの江戸目付頭の松木帯刀からの書状を受け、江戸に急げとの命を受けました」
兵庫は告げた。
「そうか。事は御家老の知る処か……」
「はい。京之介さまに害が及ばなければ好いのですが……」
「そうさせぬのが、兵庫、お前の役目と心得て事に当たるのだ」
嘉門は命じた。
「心得ました」
兵庫は頷いた。
「兵庫さま……」
敷居際に新八がやって来た。
「おお、仕度は出来たか……」
「はい。お着替えをお急ぎ下さい」
「うむ。では、父上……」
兵庫は、裃を脱ぎ、羽織と軽衫袴に着替えを急いだ。
江戸迄三十里(約一一八キロ)。
旅姿になった兵庫は、新八を従えて江戸に出立した。
嘉門と老下男の五平は、江戸に向かう兵庫と新八を見送った。
「新八、兵庫さまの足手纏いにならなければいいのですが……」
五平は、孫の新八を案じた。
「心配するな、五平。新八は此の黒木嘉門の最後の弟子だ」
嘉門は笑った。
陽は大きく西に傾いていた。
夕陽は、水戸城の天守閣を美しく輝かせていた。
兵庫は、新八と共に夕方の水戸城下を発ち、江戸に向かった。
京之介こと虎松を連れて江戸に向かったのは、もう七年も前の事だ。
以来、京之介こと虎松は江戸で暮らし、兵庫は水戸城下に戻った。そして、御刀番頭の役目で水戸と江戸を行き来していた。
日は暮れた。
兵庫と新八は、夜の水戸街道を進んだ。
隅田川は滔々と流れていた。
黒木兵庫は、小者の新八を従えて千住大橋を渡った。
江戸だ……。
兵庫は、千住大橋の南詰に立ち止まり、江戸の町を眺めた。
千住大橋の南詰には、浅草広小路に続く千住街道と下谷に抜ける奥州街道裏道があり、多くの旅人が行き交っていた。
千住街道を浅草広小路に抜ければ、隅田川に架かっている吾妻橋に出る。
吾妻橋を渡れば中之郷瓦町であり、水戸藩江戸下屋敷に行ける。
奥州街道裏道を入谷に進むと、東叡山寛永寺の横手から下谷広小路に出る。そして、明神下の通りから神田川沿いの道に出て西にある小石川御門に進むと、常陸国水戸藩江戸上屋敷に出る。
先ずは藩主水戸斉脩や江戸目付頭の松木帯刀のいる江戸上屋敷に行くか、それとも京之介こと虎松とお眉の方が暮らしている向島の江戸下屋敷に行くか……。
兵庫は迷った。
「兵庫さま……」
新八は、迷う兵庫に戸惑った。
「うむ。新八、俺は上屋敷に行く。お前は京之介さまとお眉の方さまの暮らす下屋敷に行き、様子を探って来てくれ」
兵庫は命じた。
「心得ました」
新八は頷いた。
「ならば、行け」
「はい」
新八は、兵庫に会釈をして千住街道を浅草広小路に急いだ。
兵庫は見送り、塗笠を目深に被り直して奥州街道裏道に進んだ。
神田川の流れは煌めき、様々な船が行き交っていた。
兵庫は、神田川に架かっている水道橋の袂から水戸藩江戸上屋敷を眺めた。
水戸藩江戸上屋敷は表門を開けており、家臣たちが出入りをしていた。
兵庫は、小石川御門や水戸藩江戸上屋敷の周囲に見張っている者を捜した。だが、見張っているような者はいなく、変わった様子は窺えなかった。
兵庫は見定めた。
よし……。
兵庫は、水戸藩江戸上屋敷に向かった。
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