その日、結木凪は、野良猫みたいに拾われた。
朝はからっと晴れていたのに暗雲たちこめ、ゲリラ豪雨の発生した夕暮れどき。傘を持っていなかった凪は、全身ずぶ濡れのまま傘を買う気力も湧かず、ぼんやりとたどりついたコンビニの前に置かれたゴミ箱の隣でうずくまった。今の自分には似合いのかっこうだと、珍しくやさぐれていた凪にちらほらと向けられる好奇のまなざしを無視して、冷えた二の腕を両手でこすり、膝の上にこてんとおでこをのせる。しみじみと深い息を吐いたそのとき、太ももの隙間から真っ赤なペディキュアを塗った足先が目に入った。
邪魔だと怒られるんだろうか。と、顔をあげた凪の前に、白いタオルが無言でずいと差し出された。銀行の名前が薄く青く印刷された、どこの家庭にも一枚はありそうなありふれたタオル。黙ってそれを受けとると、凪は印刷文字に重なるようにして瞼をこすった。そんなことをしても、溶けた化粧の汚れがごまかせるわけではないのはわかっていたけれど、まっしろなタオルにできるだけシミをつけないことが、そのときの凪にできる精一杯の意地だった。
タオルを貸してくれたのは、ダメージジーンズをすらりと着こなした肉づきのいい美脚の持ち主だった。お礼を言おうと見上げて一瞬言葉を失ったのは、そこにいたのが、紫のメッシュを入れた灰色の髪をまとめあげる、凜とした老婦人だったからだ。二十九歳の凪よりもずっと姿勢がよく、強い光を瞳に宿したその人は、何かを裁定するように凪をじっと見つめると、たった一言、こう告げた。
「ついておいで」
なぜだろう、と今でも凪はふりかえって思う。安いドラマならきっと恋が始まるシチュエーション。日頃の凪なら絶対に乗らない唐突な誘いを、どうしてあのときは迷う余地もなく受けてしまったのか。
まるで天啓のように、そのたった一言が、凪の心をまっすぐ刺したのはいったい、なぜだったのか。
それが、一条芙蓉との出会い。
以来、凪は、御年七十八になる彼女とともに、暮らしている。
芙蓉の朝は、はやい。
五時半には身支度を済ませ、白湯を一杯飲んでから散歩に出かける。雨や雪がひどく降っている日はさすがに外に出ることはないが、自室のある五階から一階まで階段で降りてのぼるのを二度くりかえすという。いくら健脚だからって、階段はさすがに危ないのではないかと凪が進言したところ、
「そのためにあなたがいるんでしょう」
とぴしゃりとやられた。散歩についてこい、という意味ではない。異変を感じとることがあれば救急車なり警察なりを呼べ、ということだ。
ともに暮らしている、といっても、凪と芙蓉は同じ家で寝起きしているわけではない。
東京で、いわゆる谷根千エリアと呼ばれる下町に、古い六階建ての小さなビルを一棟所有している芙蓉は、五階と六階のワンフロアをあわせたおよそ百二十平米あまりを自身の居室としている。そのひとつ下、四階もまたひとつの住居で、そこを凪は貸してもらっていた。つまり芙蓉は、凪にとっての大家にあたる。駅から徒歩十分もかからない好立地で、一人暮らしの手にはあまる2LDKが十万円。しかも光熱費は込み。そのかわり、可能な限り芙蓉の様子に気を配り、頼まれごとがあれば引き受けるという、同居家族に似た役割を負うのが条件だ。
凪と芙蓉の家の玄関はセキュリティシステムを共有していて、それぞれの扉が開くと、音が鳴るしくみになっている。芙蓉の無事を確認するため、凪は五時過ぎには目を覚まし、出ていく音と帰ってくる音に耳を澄ませるようになった。おかげで毎日、夜の十時にもなると眠たくてたまらなくなる。さして好きでもないテレビ番組や動画を流しながらぼうっと夜更かしすることも、なくなった。今日みたいに予定のない土曜日も、昼すぎまで寝て一日を無駄にするということもなくなり、煩わしかった腹まわりの脂肪は、自然とすとんと消えた。
実際のところ、喜寿を過ぎたとはとうてい思えない鍛えられた肉体と精神力をもつ芙蓉の世話を、する必要はほとんどない。できれば朝ごはんは一緒に食べましょう、六時半にはあなたの部屋に行くから、と言われたときはなんて面倒なと内心顔をしかめたし、ここでの生活が始まってしばらくは、いつどんな難題を押しつけられるかと身構えていたものだけど、予想に反して、芙蓉が凪の生活に度を超えて踏み込んでくることはなかった。芙蓉に拾われた雨の日からひと月半が経つけれど、理不尽な要求をされたことも、今のところは一度もない。むしろ凪が仕事から戻ってくると、保冷バッグに入った作り置きの総菜が玄関先に置かれていたり、新鮮な野菜や米を差し入れてもらったり、芙蓉に世話を焼かれているといったほうが正しい。
もともと早起きの得意ではない凪は、芙蓉と朝食をとる習慣がなければ、遅刻しないぎりぎりの時間まで布団のなかだ。芙蓉がいてくれる限り遅刻の心配はないし、「いってらっしゃい」と誰かに送り出されるとそれだけでわずかに力が湧くらしいと気づいてからは、億劫に感じることもなくなった。
「ああ、咽喉が渇いた。凪さん、お水いただけるかしら」
フライパンにクッキングシートを敷いて鮭を載せたところで、玄関から声がした。凪は手が離せないことが多いので、朝だけは、合鍵で勝手に入ってきてもらうことにしている。
凪は浄水器から常温の水をコップにそそぐと、キッチンカウンターに置いた。芙蓉はそれを一気に飲み干すと、椅子に座って足首をまわし、ストレッチを始める。毎度のことながら、意識高いなあ、と感心してしまう。揶揄しているのではない。心底、尊敬しているのだ。色が塗られていようといまいと、常に美しくみがかれた手足の爪。年相応に皺がきざみこまれながらも、ハリのある肌。鍛えていることがひとめでわかるふくらはぎのふくらみ。凪が芙蓉と同じ歳になったとき、手に入れられているとは思えない。
「いい匂いがしてきた。それ、きのうおみやげにもらった鮭?」
「そうです。普通に焼き鮭として食べます? おにぎりの具にしちゃうっていうのも贅沢かなと思ったんですけど」
「じゃあね、あれやってちょうだい。お店で売ってるみたいなやつ。なんていうのかしら、ほら、四角いかたまりが三角のてっぺんから飛び出してる……」
「ああ、ほぐさずに入れるんですね」
「ちがうの、中に詰めるのはほぐしたものでいいのよ。それとは別に、かたまりを載せるの!」
「……善処します」
芙蓉は、食道楽だ。路面店で売っている干し芋も、贈られてきた毛蟹も、同じテンションで喜んで食べる。芙蓉との朝食が面倒でなくなってきた理由のひとつは、朝から全力で食を堪能しようとする彼女の姿が、見ていて心地いいからかもしれない。
決して、手間をかける必要はないのだ。パンをあたため、卵とウインナーを焼いただけでも、芙蓉は文句を言うどころか十二分に喜んでくれる。だから、もともと料理が好きでも得意でもなかった凪も、芙蓉のためにできる限りのことはしたいと、早朝からキッチンに立つようになった。鮭のあざやかなオレンジが、薄いピンクに変わっていくのを眺めているだけでけっこう心が躍るものだと、この暮らしを始めて凪は知った。
おにぎりと豚汁、それからだし巻き卵を食卓に並べて、芙蓉と向かい合って座る。いただきます、と手をあわせるまえから、芙蓉は香りを思いきり吸い込んで破顔していた。
「今朝はずいぶんと手が込んでるじゃない」
「まあ、ここで力尽きたとしても、今日はとくにやることもないですし。お天気もいまいちだから、家でだらだらと映画でも観ていようかなあって」
「あら、あなた、暇なの」
芙蓉の瞳がぎらりと光り、凪は、しまったと思う。
「暇、ではないです。前に芙蓉さんも言ってたじゃないですか。何もせず休むのも仕事のうちだって」
「でも、少しくらいは家から出たほうが健康のためよ。あなた、放っておくと昼からお酒飲んで昼寝して、ろくにごはんも食べずに一日を終えてしまうから」
「そんな、人をアル中みたいに……芙蓉さんがくれた手羽の甘辛煮がまだ残っているので、それにはビールがあうよなって思っているだけです」
「つまり、火急の用事はないわけよね」
「それは……まあ」
「じゃあ、今日はちょっと私につきあってちょうだい。大丈夫、そんなに遠くに出かけるわけじゃないから。一階に行くだけ」
睡蓮、という名前の喫茶店がビルの一階にある。芙蓉がオーナーをつとめていて、凪も行けば二割引きにしてもらえるので、何度か利用させてもらっている。
「十時に人と会う約束をしているの。あなたも同席してくれると助かるわ」
「また、あの、ボランティアですか」
「ボランティアじゃないわよ。私のつとめ。立派な、お仕事。今日のお客さんはあなたと同じ年くらいだから、もしかしたら何か役に立つことがあるかもしれないでしょう」
「役に……」
「それにあなたと似た境遇に陥ったみたいなのよね。だとしたら、私よりあなたのほうが慰める言葉も見つけやすいでしょう? あなただって、同志が見つかればちょっとは気がラクになるかもしれないし」
「はあ……」
「じゃ、頼んだわよ。十分前には、降りてきてね」
言いたいことだけ言うと、芙蓉は語り口には似合わない優美なしぐさで箸を置き、ごちそうさま、と手をあわせ、颯爽と部屋を出ていった。あとには、彼女のまとうすきっとした残り香だけが漂っている。
凪は息をついた。似た境遇の同志を、凪は今のところ求めていない。誰かと傷を舐めあう趣味もないのだけれど。
──ま、しかたないか。
芙蓉の頼みごとは、可能な限り、聞く。どんなに億劫でも、それが条件のうちだ。それに、億劫なことも、重ねていれば慣れておもしろみが出てくるということも、芙蓉との生活を通じて学び始めているところだ。
時計を見れば、ようやく七時を過ぎたところ。出かける前に洗濯と掃除は済ませてしまおうと、凪は重い腰をあげた。
芙蓉の所有するビルの二階には、ブルーバードという名の結婚相談所が事務所をかまえている。七年前、七十三歳で亡くなったという芙蓉の夫が、趣味の仲人業を事業化したものだ。今は芙蓉の息子が所長をつとめており、凪も、何度か出勤してくる彼と顔をあわせたことがあった。無口であまり愛想のない彼に、よく仲人がつとまるものだと思ったけれど、もしかしたら、自分の母親が突然拾ってきた女のうさんくささに警戒心を抱いているだけかもしれない。
芙蓉は、ブルーバードの相談役として、籍を置いているらしかった。税金対策用の、名ばかりの役職かと思いきや、本当に“相談”を請け負っているらしいと知ったのは、先週のこと。夜遅くに、涙ぐんだ三十代半ばの女性と睡蓮で話し込んでいる芙蓉と目があった。
あとで聞いたところによると、相手はブルーバードで成婚──結婚相手を見つけて退会しようとしていた会員だという。ブルーバードの仲人たちは、全力で親身に会員に寄り添うことで有名らしい、というのはインターネットで得た知識だが、距離が近いからこそ相談しづらいこともある。芙蓉は、そういうときのための相談窓口なのだと教えてくれた。それが高じて、結婚にまつわること以外も、なんなら会員以外からの相談も持ち込まれることが増えたそうで、凪から見ればとっくに仕事の範疇を超えた対応を、昼夜問わず、行っている。
就業時間以外で、同僚の愚痴や相談に乗るのを好まない凪にとって、すべてとはいわないまでも時間があえばだいたいのことに応じる芙蓉は、信じがたいボランティア精神の持ち主だ。そうでなければ見ず知らずの凪を自宅の下に住まわせるなんてこともするはずがなく、自分も芙蓉に助けられた一人である以上、そのふるまいにとやかく言うことなどできない、というのもおとなしくつきあうことにした理由だった。
十分前、と凪に言ったということは、芙蓉は十五分前には席についているはず。そう見越して二十分前に睡蓮に入ると、すでに到着していたらしい相談者が恐縮した様子で、芙蓉の向かいに座っているのが見えた。
一瞬デジャヴュかと思うほど、先日見かけた相談者と似ている。黒髪のミディアムヘアに、白いシャツ、パステルピンクのスカート。違うのは、おっとりしていそうだなという印象だけだ。
「私、遅刻してませんよね?」
いちおう確認すると、女性はさらに身を縮こまらせて、すみません、とかぼそい声で言う。
「このお店、十一時までのモーニングも人気だって口コミで見たから、混むと思って……」
芙蓉は呆れたように手をひらひらと振った。
「やあね。私の店なんだもの、席くらい確保しておくに決まってるじゃない。ねえ」
「芙蓉さんのお店だなんて、言われなきゃ気づきませんよ」
「あら、だってみんな知ってることだもの。あなた、知らなかったの?」
「所長から前に聞いた、ような、気はするんですけど」
と、ますます声が細くなる女性が哀れになってくる。が、芙蓉の隣に座って、ようやく彼女が恐縮しているわけを察した。芙蓉の陰に隠れて見えなかったが、女性の前には三分の一かじっただけのトーストの置かれた皿がある。迂闊といえば迂闊だが、想像以上にはやくやってきた芙蓉と食べかけの朝食を前に、どうしたらいいかわからなくなったのだろう。
「私もモーニング頼んでいいですか」
そう言うと、女性がほっとしたように表情をゆるめた。芙蓉は、眉をひそめる。
『恋じゃなくても』は全3回で連日公開予定