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「あなた、さっき朝ごはんを食べたばかりじゃないの」
「ここのモーニング、私も気になってたんです。そのうち、十一時ぎりぎりに駆け込んで、お昼がわりに食べてみようと思ってたんですけど、いっつも気づいたら終わってて」
「ま、よく食べるのは健康な証拠ね。私のおすすめはねえ、サルサドッグ。メキシコ料理屋さんで教えてもらったレシピを使ってるから、けっこう本格派なのよ」
「じゃあ、それで……あとホットコーヒーをお願いします」
 注文をとりにきた店員に告げると、女性が凪に向かって小さく頭を下げた。よかった、と凪も安堵する。この対応は、間違ってなかった。
「じゃ、紹介するわね。この方は、ブルーバードの会員で、みず沙良さらさん。沙良さん、こちらは結木凪さん。うちのたなさんよ」
「たなこ?」
「部屋を借りてる人ってこと。私の秘書みたいなこともしてもらっているから、同席させてもらおうと思って」
 いったいいつからあなたの秘書に。
 と思ったが、訂正するような野暮は控えて、凪は曖昧にうなずいて自己紹介をする。
「ふだんは学習教材をつくる会社で総務の仕事をしています。二十九歳なんですけど、沙良さんも同い年くらいだから、同席したほうが話しやすいんじゃないかと芙蓉さんに言われまして。もし私がいると話しづらいようでしたら席をはずすのでおっしゃってください」
 あ、いえ、と沙良が口ごもったところで、サルサドッグが運ばれてきた。芙蓉の前には、自家製の柚子シロップを溶かしたソーダが置かれる。芙蓉の指示で最近新たにくわわったメニューらしい。
「お客様の前で、失礼します。食事、いただきます。沙良さんもどうぞ、ご遠慮なさらずに」
「……ありがとうございます」
 サルサドッグにかぶりつく凪を見て、沙良はようやく小さく笑った。すっかり冷えてしまっただろうトーストを口にして、おいしい、と口元をほころばせる。そうでしょう、そうでしょう、と芙蓉はご満悦だ。確かにサルサドッグも、なかなかの本格派で、味がしっかりしている。しっかりしすぎて、ちょっと、からい。額に汗が浮きそうになる。
「沙良さんはね、先月真剣交際されていた方からプロポーズされて、今は結婚準備を進めているところなの」
 真剣交際、というのは結婚相談所の用語で、真剣に結婚を見据えた交際ということだ。その一歩手前、仮交際と呼ばれる段階では、複数人とのお見合いを同時並行で進めることもできるが、真剣交際に入れば、それがNGとなる。一対一で関係をさらに深めた結果、お互いに結婚の意思がかたまったところで男性からプロポーズをするのが通例だ。そうして晴れて、二人そろって成婚退会となる。
「うちではね、プロポーズがうまくいっても、婚姻届を役所に提出するまでは、籍を置いておくことを勧めているの。どんな事情があって、すれ違いが生じるかわからないでしょう? なんだか違和感があるな、と思っても、退会したあとだと、あとには引けないと思ってそのまま突き進んでしまうこともある。いつだって引き返せるし、味方は背後にたくさん控えているんだってことを、最後の最後までわかっていてほしいから」
 わかる、と凪は実感をこめてうなずく。
 結婚が決まった、と周囲に伝えて祝福されたあとに、やっぱりなし、と決断するのはとても勇気のいることだ。多少の妥協や我慢は必要だと、違和感を飲み込んでしまう人は、決して少なくないだろう。その先で、乗り越えていける人もいれば、やっぱりだめだったと後悔する人もいるはずだ。
「いいシステムですね」
 実感をこめて凪が言うと、沙良の表情がゆがんだ。ほんの少し、泣きだしそうに。
「とりあえず退会は待ったほうがいいって言われたとき、私、最初はむっとしたんです。彼とは金銭的なことも子どものこともさんざん話しあってから結婚を決めたし、問題が発生するとは思えなかったから」
 わかる、とふたたび凪はうなずく。
 沙良は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「その……いやな言い方なんですけど、少しでも長く月会費を徴収しようとしているのかな、って思ったんです。良心的だと思っていたけど、けっきょくこの相談所も商売なんだな、って。でも……」
 相談所の勧めが正しかったことを、沙良は痛感するはめになる。
 思いもよらぬトラブルが発生したのだ。だから、彼女は、ここにいる。
「私、もうどうしたらいいかわからなくて。お力を貸していただけませんでしょうか」
 そう言って、沙良は芙蓉と凪と順番に視線をあわせ、ゆっくり深々と頭をさげた。

 婚約指輪はいらないと、沙良は相手──藤原裕ふじわらゆうに言ったのだった。結婚指輪は、欲しい。でも婚約指輪は普段使いがしにくいし、もともと沙良はアクセサリーにそれほど強い興味がない。それよりも、もともと旅が好きな彼女は、新婚旅行にお金をかけたかった。いつもよりちょっといいホテルに泊まって、いいレストランで食事がしたい。そんな沙良の申し出に、いいね、と快く賛同してくれた裕樹は、プロポーズのときには花束だけを用意してくれた。結婚指輪は、二人でいくつかの店を一緒に見てまわる予定だったという。
 ところが。
「初めてご実家にお邪魔したとき、ご両親もいる目の前で彼が、青いビロードの箱をとりだしたんです」
 中に入っているのは指輪以外に考えられないその箱に、戸惑う暇も与えられず、裕樹は満面の笑みで沙良に差し出した。
「開けてみて。喜んでくれるといいんだけど」
 喜ぶ以外の反応は期待していない、心の底からわくわくした表情だった。
 いやな予感がしながら、もしかしたらブローチやネックレスかもしれないし、とおそるおそる箱を開いた沙良の目に飛び込んできたのは、親指の爪ほどもある赤い石のはめこまれた銀細工の指輪。
 ああ、と沙良が息をついたのを、感嘆と勘違いした裕樹はぱっと表情を輝かせた。
「きれいだろう!? きみの細くて白い指によく映えると思うんだ」
「どう、したの、これ」
「もちろん、婚約指輪だよ。驚いた?」
「……うん、驚いた。でも、どうして? 婚約指輪はなしって、話し合って決めたはずなのに」
 裕樹の顔を直視することのできなかった沙良は、しかたなく指輪をとりだした。どこのブランドのものなんだろう。箱には何も書かれていない。それに、買ったばかりにしては年季が入っているような気がする。もしかして、アンティーク? それにこの指輪、沙良の指にはどう考えても、大きすぎる。中指にはめても、ちょっと余るくらいだ。いったいどうして、こんな。そもそも沙良は赤いルビーなんて好きでもなんでもないというのに。
 まとまらない思考を薄いほほみで隠しながら、沙良は指輪の内側になにか文字が彫られていることに気がついた。
 from H to A
 ──A?
「それはね、俺のじいちゃんが、ばあちゃんに贈った指輪なんだ」
「……え?」
「若いころは貧しくて、結婚するときあんまり金をかけられなかったのを、じいちゃんはずっと後悔していたんだって。だからいつか、でっかい宝石のついた指輪をプレゼントするんだってがむしゃらに働いて、銀婚式のときにそれをプレゼントしたらしいんだ」
「銀婚式……って、二十五周年記念の……」
「そう。そのころにはじいちゃんも出世して、出張で海外にも行くようになってたらしくてさ。現地で見つけたいちばんきれいな宝石を、職人に頼んで指輪に仕立ててもらったらしいよ」
「現地……」
「赤いルビーは、深い愛とか情熱的な愛とかって意味があるんだって。ばあちゃん、死ぬまでそれを大事にしててさあ。そのときの思い出を語るたんびに涙ぐむの、子どもながらに感動しちゃって。俺もいつか、結婚するときがきたら、同じように指輪をプレゼントするんだって決めてたんだ」
 なるほど、と沙良は思った。
 裕樹の気持ちも事情もよくわかった。Hは祖父でAは祖母なのだろうということも、その当時にしてはこの指輪がそうとうハイカラで素敵なものだったのだろうということも推察できる。だがしかし。
 なぜその指輪を、沙良に? 新しく仕立てるのではなく?
 裕樹は、続けた。
「その指輪はいわば、夫婦の、家族の、愛の象徴なんだ。父さんは、ばあちゃんから譲り受けたその指輪を、婚約指輪として母さんに贈った。今度は、母さんから俺が譲り受けて、沙良に贈る番なんだ!」
 なるほど、とは思えなかった。
 沙良の笑みはきっとひきつっていただろう。だが、どうして拒絶できるだろう。とうとうと語る裕樹を、あたたかいまなざしで見守るその両親を前にして。素敵なお嬢さんが裕樹を選んでくださってうれしいわ、と受け入れてくれた、その指輪の持ち主だった女性を前にして。
「サイズは今度直しにいこう。結婚指輪も、その指輪に重ねて似合うやつがいいなあ」
 目の前が、まっくらになった。
 それから、そのあと、どんなふうに裕樹やご両親と会話をして帰路についたのか、沙良はまるで覚えていない。

「素敵な、ことだと思うんです。そういう、大切な思い出が代々引き継がれていくのは」
 沙良は力のない声で言った。
「想いを受けとって、喜ぶ人もいるでしょう。実際、ネットで調べてみたら、義理の母から婚約指輪を譲り受けるケースは少なくないらしくて、素直に喜んでいらっしゃる方もたくさんいました」
「でもそれは、指輪がよっぽど高価なものか、趣味にあう素敵なものかだった場合じゃないの?」
 遮った芙蓉は、心底、忌々しそうな顔をしていた。
 そんな顔もできるのか、とひと月半ともに過ごした凪が驚いてしまうほどに。
「あるいは、義理の母との関係がよっぽど良好な場合よね。でもあなた、向こうのお母さんとは初対面だったんでしょう。いきなり、知らないおばあさんとおじいさんのロマンス聞かされたって愛着はわかないし、面食らって当然よ」
「でも私、素直に喜べない自分が、ものすごくいやな性格をしているような気がしてしまって」
「そりゃあ、そういういわれに目がないロマンティックな女性もこの世にはいるでしょうけど。事前になんの説明もなく、いきなり渡されて喜べって言われてもねえ、私なら無理だわ。そもそも、趣味じゃないアクセサリーはどんなに上等なものでも欲しくないもの。相手のために身に着けてあげなきゃいけないのも面倒くさいし。好きじゃないアクセサリーって、身に着けるとそれだけで気持ちが下がるし」
「そう……そうなんです……!」
 沙良は拳をにぎって、前のめりになった。
「私が婚約指輪をいらないと言ったのは、お金をかけたくないというのも、もちろんありますけど、よぶんなものを持ちたくないからでもあるんです。身の回りに置くものは、本当に気に入ったものだけを厳選したくて……彼にも、そう伝えたはずなんですが……」
「アクセサリーに興味がない、ということは、こだわりもないからどういうものでも喜ぶはずだと思い込んじゃったんでしょうね」
 そうなんです、と沙良は消え入りそうな声でつぶやいた。
 指輪を押し付けられたことよりも、裕樹が沙良の言い分をまるで聞いていなかったことにショックを受けている、というのがそれだけで伝わってくる。
「こんなことなら、婚約指輪が欲しいと言っておけばよかったです。そうすれば自分の好きなデザインを選ぶことができたのに……」
「どうかしら。代々引き継ぐことに意味があるのだから、どのみちプレゼントされていたんじゃない。あなたにとっては、さして必要じゃないものが二つに増えるだけで、あんまり意味がなかったと思うわね」
「うう……」
「まあでも、それくらいはねえ。おつきあいのうちと割り切ったほうがいいと思うけど。たいして場所をとるものじゃないし、なくすと怖いからと言ってふだんはしまいこんでおいて、結婚記念日とか、相手がつけてほしそうなときだけつける、くらいの妥協はできないかしら? それで夫との関係が良好に保たれるのなら、安いものじゃない」
 芙蓉の言うとおりだな、と凪は小さくうなずく。
 趣味じゃないものが身の回りに増えていくことを許容していくのもまた、結婚に付随するもののひとつだろう。結婚していない凪に、沙良もえらそうなことは言われたくないだろうけれど。
「それとも、それすらいやになるくらい、向こうのお母さんにいやな思いでもさせられた?」
 問う芙蓉に、沙良はふるふると首を小さく揺らす。相談、というよりは、愚痴を聞いてほしかったのだろう。凪の出番はなさそうだ、とわかって気持ちが軽くなる。芙蓉の期待した、凪の慰めが必要になるような案件でなくてよかった、と。そして壁にかかった時計に目をやる。十時二十分すぎ。天気が崩れる前に、せっかくだから駅前の本屋にでも行ってこようかと、意識をそらしかけたそのとき。
「私も、そう思っていたんです」
 沙良はうつむいたまま続けた。
「結婚にはそういう妥協も多かれ少なかれ必要なんだろう、我慢ならないほどじゃないし、今後は警戒しつつも受け入れよう、結婚ってきっとそういうものなんだ、って。でも」
 なくしちゃったんです、と震える声が、凪と芙蓉の耳に届く。
「この間、両家の顔合わせがあったんです。もらった指輪をしていくことになっていたので、出がけに箱を開けたら」
 からっぽだった。
 指輪は、どこにもなかった。煙のように、消え失せていた。
 顔をあげた沙良の瞳には、はっきりと、涙が浮かんでいた。
「芙蓉さん、凪さん、私、どうしたらいいでしょう」
 どうしたら、って。
 そんなこと、言われても。
 隣に座る芙蓉の顔をうかがい見る。
 さすがに口をへの字にまげて、芙蓉も、知らないわよそんなこと、という顔をしていた。

 

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