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 指輪は、もらったその日に沙良の目の前で裕樹がしまい、義理の母となる人──さとが薄紅色のちりめん布で包んでくれた。一人暮らしのマンションに帰宅すると、沙良はすぐに箱を通帳や印鑑が入っている引き出しにしまった。それ以来、顔合わせの当日まで、一度も開けていない。水道工事のたぐいも含めて、沙良の家には裕樹以外の誰も足を踏み入れていないし、泥棒が入った痕跡はもちろんない。
「そもそも通帳と印鑑は手つかずなんだものねえ」
 芙蓉が言うと、沙良は激しくうなずいた。実家にいた頃なら妹が勝手に持ち出した可能性もあるが、今の家の合鍵は誰にも渡していない。裕樹は例外だけど、沙良のいないときにやってくることはないし、そもそも彼にはる理由がない。それが本当なら沙良に落ち度はひとつもなく、不可解きわまりない話であるが、だからこそ信じてもらえない可能性は高く、思いつめる気持ちはわからないでもなかった。
「で、けっきょく、顔合わせの当日はどうしたの」
 芙蓉が聞くと、沙良は眉をきゅっとひそめた。
「なくすのが怖くて、ギリギリまでしまっておいたら、うっかり忘れてしまったということで押しとおしました。平謝りするうちの両親には本当に申し訳なかったですけど、彼も笑って許してくれて」
 なあなあ、あれ覚えてる? 初めてうちで手料理つくってくれるって言ってさ、ハンバーグの材料買いに行ったのに、肝心のひき肉だけ買い忘れちゃったの。沙良って、そういうところあるよな。ふだんはめちゃくちゃしっかりしてるのに、なんでそこ?ってところで抜けてるっていうか。でも俺、そういうところがホッとするっていうか、嬉しかったりもするんだよね。俺の前では肩ひじ張らずにいられるのかなあ、ってさ──。
 そんな裕樹のフォローに、沙良の両親はますます恐縮したが、沙良のいいところも悪いところも全部受け止めてくれそうだ、と評価はうなぎのぼりだったという。裕樹の父親も、お前もたいがいいい加減な奴だから、沙良さんを守るためにちょっとは気が引き締まっていいんじゃないか、なんて酒を飲みながら上機嫌だったらしい。
「お義母さんも、そうねえ、って笑っていました。ちゃんとしたお嬢さんだから裕樹のいいかげんさに愛想つかされないかしらと心配だったけど、いい具合に補い合っていくのが夫婦というものですしね、って。顔合わせもつつがなく終わって、ああよかった、とりあえずはなんとかなった、ってそう思ったんですけど……」
 散会となり手洗いに立ち寄った沙良のあとに聡子が続いた。洗面台の前で二人きり、個室の扉もすべてあいていることを確認すると、聡子は、柔和な面立ちをきゅっとひきしめ、それまで見せたことのない冷ややかな表情で沙良を見つめてこう言った。
「裕樹はああ言っていましたけど、日頃どれほどしっかりしていらっしゃっても、肝心なところでミスをするような方を私は信用することはできませんよ」
 いわく、あの指輪には藤原家に快く迎え入れようという自分たちの想いがこもっているのだと。顔合わせの場に忘れてくるということは、その想いを拒絶しているととられてもおかしくはない。裕樹を大切にする気があるのか、沙良の想いまで疑いたくなってしまう。というようなことを淡々と言われて沙良は縮み上がるより他なかった。どちらかというと小柄で、初めて会ったときからおとなしそうな印象しかなかった聡子の迫力に圧され、紛失したなんてことが知れたら破談以外の道はないと沙良は悟ったという。
「でも、ないものはない。しかたないですよね」
 うなだれる沙良に、凪は初めて口を挟んだ。
「最初から入ってなかったってことはないんですか?」
 沙良は首を横にふる。
「指輪を箱にしまうところは私も見ていましたから……。彼が布で包もうとしたんですけど、不器用でうまくできないものだから、お義母さんがひきとって。そのまま帰るまでテーブルに置いたままでしたけど、誰も開けてはいないはずです」
 ふうむ、と芙蓉がうなった。
 沙良は、さみしそうに笑う。
「すみません、わかってるんです。もうどうしようもないってこと。正直に話して、許されないなら破談を受けいれるしかないんですよね。すごく……すごく、悔しいですけど……」
 どこかに置き忘れてきたとか、転んで鞄の中身をぶちまけた覚えがあるとか、自分の落ち度に心当たりがあれば、まだ納得もできただろう。だけど、自分が欲しがったわけでもない、どちらかというと押しつけられた指輪が原因で結婚がだめになるだなんて、簡単に受け入れられるはずがない。
「……やっと、あがれると思ったのにな」
 沙良がつぶやいた。
 え、と凪が聞き返すと、沙良はきゅっと薄い唇を一文字に結び、頭をさげた。
「土曜の朝早くから、ありがとうございました。聞いていただけて、少し、心の整理がつきました」
「せめてブランドものの指輪ならねえ。買い直せば済む話なんだけど……でも、そうだ。指輪は職人に頼んだって言ってたわよね。その方に、コンタクトをとることはできないのかしら」
「あ……確かお義母さんのときも、サイズ直しは同じ職人さんにお願いしたって言ってました」
「じゃあもしかしたら、指輪のデザインを覚えているかもしれない。一度、会いに行ってみなさいな。もしかすると、おじいさんは海外から石だけ持ち帰って、その職人のところで指輪に仕立ててもらったのかも。だとしたら、デザイン画が残っている可能性もあるわ」
「それは……似たものを偽造しろと……?」
「一か八かの賭けだけどね。職人の気質によっては、そんなたばかりは許さんとばかりに告げ口する可能性もあるし。でもまあ、どのみち破談になるなら、その前に打てる手は打っておいてもいいんじゃない。直球に頼まなくても、様子をうかがうくらいは。ほら、友達に羨ましがられて、デザイン画があれば見たいと言われたとかなんとか言ってさ」
「なるほど、その手が……」
 考えが及びもしなかった、とばかりに沙良は目を瞬かせる。そして、何度目かの深いお辞儀をした。
「ありがとうございます、本当に。だめもとで、できることはやろうと思います」
 顔をあげた沙良の瞳はふたたび潤んでいた。凪は、泣きだしそうな顔を何度もするわりには泣かないなこの人、と静かに見つめていた。
 そうして、十一時になるより前に、沙良は、店を出ていった。凪が驚いたことに、喫茶の代金は別会計で、最初から伝票もわけられていた。
「そりゃあ、そうでしょう。たかだかコーヒー一杯だって、相談に来る人、来る人、全員にごちそうしていたらどれだけの出費になると思ってるの」
 あっけらかんと言って、芙蓉は片手をあげて店員を呼ぶ。ホットコーヒーを追加で注文する彼女に、凪は本屋に行く予定を諦め、同じものをとお願いする。
「あら、さっきもコーヒーだったじゃない。いいの?」
「だってここ、コーヒーのお代わりは三百円ですから」
「あなたのぶんは、さすがに私が払うわよ。朝からつきあわせちゃったんだから」
「まあでも、芙蓉さんにおつきあいするのは、契約のうちみたいなものですし」
「ふうん。じゃあ、和菓子でも食べなさいよ。それはごちそうしてあげる。おいしいのよ、ここの。日替わりで入荷しててね。今日はええと」
「豆大福がおすすめですよ」
 不意に、耳元でささやくような声がして、凪は飛びあがった。
「あらあ、ぜんちゃん。いたの」
「いました。朝からおつかれさまです」
 ふりかえると、凪たちと背中合わせに座っていた男性が身を乗り出している。
 凪よりは少し年上、だろうか。線が細くて、骨ばってはいるけど、猫のロシアンブルーを思い起こさせるようなたたずまい。派手さはないが人目を惹く、気品のようなものを感じる。
「声、かけてくれたらよかったのに」
「いやあ、無理ですよ。僕が来たときにはもう一人の女性が語りだしていたし、だいぶ重たい内容だったし。……あ、すみません。ちょっと聞いちゃいました」
「まあ、しょうがないわよ。聞こえちゃうもんは。で、あなたはどう思った? あの子の話」
「ちゃんと聞いていたわけじゃないので、なんとも。でもまあ、面倒に巻き込まれてまで結婚したいなんて奇特な人だなあと」
「あなたならそう言うわよね。……ああ、凪さん。ごめんなさいね。こちら、あさ比奈ひな繕さん。ここに和菓子をおろしている、フリーの職人さん」
「フリー、とかあるんですか、和菓子職人にも」
「あるんです。いい時代ですよね、SNSがあれば実店舗を持っていなくてもどうにかなる」
「この子は凪さん。今、うちの下に住んでるの。ちょうどいいから、こっちの席にいらっしゃいよ」
「そうしたいのはやまやまなんですけど、今日は、午後から茶会用の注文が入ってて、届けに行かないと」
「つまんないわね。忙しいのはいいことだけど、最近、あまり遊びに来ないじゃない。たまにはごはん食べにいらっしゃい」
「絶対行きます。芙蓉さんのきんぴら、また食べたい」
「なんだってつくってあげるわよ。あ、伝票は置いていきなさいね」
「いいんですか。お言葉に甘えます」
 繊細そうな雰囲気に反して、柔らかな笑みをこぼすと繕は立ち上がった。ぱりっとアイロンのかかった丈の長い白シャツに、八分丈の黒いパンツ。左腕には、年季の入った革時計。使い古されて味の出始めた革鞄。こだわりが強そうで、凪が敬遠するタイプでもある。
 なんてことは、もちろんおくびにも出さずに軽く会釈をする。そのとき、繕もまた凪に見定めるような視線を送っていることに気がついた。薄く微笑んではいるものの、目が笑っていない。
 ──なに?
 不審に眉をひそめるより一瞬前に、繕は凪から目をそらし、店を出ていった。入れ替わりでコーヒーと豆大福が運ばれてきて、凪は芙蓉の向かいに席を移す。
「で、凪さんはどう思った? かわいそうとか、嘘ついてるんじゃないかとか、沙良さんに対する印象は」
「嘘をついているようには見えませんでしたけど……案外、肝が据わっているのかもとは思いました。指輪をなくしたことも、言うほど落ち込んではいないような気がしましたし」
「婚約破棄されるかもしれないっていうのに?」
「偏見かもしれませんけど、それほど思いつめているなら、相談ついでにはやく行ってモーニング食べようなんて気持ちになるかな、って。それとこれとは別なのかもしれませんけど」
「そうよ。あの日のあなただって、落ち込んでいるわりに食欲はあったわよ。ごはんを出したらもりもり食べてたもの」
「……そういう経験則からいえば、モーニングに興味が向くくらいの余裕があるなら多少は安心だ、というのが私の受けた印象です。逆に、そうすることでしか気を紛らわせることができない、ということかもしれませんけど」
 最初はすぐにでも退会しようと思っていたくらい、沙良は婚約者に安心しきっていたのだ。その相手を失うとなれば、平静でいられるはずがない。それに、長くつきあっていた相手となんとなく結婚しようと思ったわけではなく、沙良は明確に、結婚というゴールをさだめて、相談所に入会しているのだ。手に入れたはずの成果があぶくのように消えてしまったら、自力では立っていられなくなるかもしれない。──ひと月半前の、凪のように。
「大丈夫よ」
 凪の心を見透かしたように、芙蓉が言った。
「だめになっても、私たちがいる。また新しいお相手を一緒に探せばいいの。うちはね、四十五十を過ぎた女性にも素敵なお相手が見つかることで有名なのよ」
 自慢げに芙蓉は胸を張る。
「案外平気そうなのは、沙良さんもどこかで心が引いてしまっているからかもね。向こうのお母さん、なかなか手ごわそうだもの。家族ぐるみでこれからずっとつきあっていくことを考えると、及び腰になっているのかもしれない。よくあるのよ、そういうことは」
「結婚は、家と家との結びつきって言いますしね」
「場合によりけりだけどね。当人同士がしっかり心をつないでいれば外野があれこれ言ってもうまくいくケースはたくさんあるけど、沙良さんの場合、指輪を勝手に押しつけられたことで彼への不信感も生まれているのかもしれない」
「指輪を忘れた、って言ったときの彼のフォロー、素敵でしたけど」
「どうかしら。案外、盗んだのは彼で、鷹揚に見せることでイニシアチブをとろうって魂胆かもよ」
「それはうがちすぎでは」
「そうかしら。珍しくもないことだと思うけど。まあ、よくも悪くも呑気な人だって希望はもちたいけどね。おばあさまたちの由来も含め、自分が素敵だと思っていることを、沙良さんもあたりまえのように受け入れてくれると信じているんだって。それはそれで厄介だけど」
「どちらにしろ駄目じゃないですか」
「デザイン画、残っているといいけど。あるいは、紛失したことを知っても、彼が味方になってくれたら」
「そうですねえ」
 いちばんいいのは婚約指輪が見つかることだ。しかし沙良の話が本当なら、藤原家のリビングに転がっているとも考えにくい。
「指輪、どこに行っちゃったんでしょうねえ」
 言いながら、凪は大福にかぶりつく。
 思ったより甘さは控えめで、もちのやわらかさと豆のかたさが絶妙なバランスで、気づけば胃の中におさまっていた。
 なんにせよ、あれだけ食べられていたなら沙良は大丈夫だろう。今の自分が大丈夫であるように、と凪は思った。

 

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