青雲社が完全週休二日になる前の年で、月のうち二回、第一と第三の土曜日が半ドン……半日勤務の出社日だった。
その土曜日が、編集部の会議の日に決まっていた。
漫画編集部の全員が集まって会議できるような場所は、たぶん社長室以外にはなく、仕方なしに二十人弱でぞろぞろと外の喫茶店へと向かうのだった。少し遠いお店に行ったのは、きっと会議用に広いソファ席を予約できるからなのだろう。しっかり五分以上、大勢でぞろぞろと移動し、ようやく一ヵ所に落ち着くことができた。
全員が席に着いたのを見計らうと、ブルーの色眼鏡をかけた、大木さんという細面の副部長が、
「コーヒーの人」
と見回して訊いた。四人ほどが手を挙げ、ホットかアイスか、色眼鏡氏が確かめてメモしている。小笹も、アイスでお願いします、とそこに加えてもらった。
「紅茶の人」
つづけて訊くと、今度は三人ほどが反応。色眼鏡氏が同じくホットかアイスかをメモした。
そして、こほん、とひとつ咳払いすると、
「ガラナの人」
とひときわ高い声で訊いた。
そこまでのすべてが、それを言うための儀式みたいだった。色眼鏡氏の得意げな表情からすると、実際そうだったのだろう。コーヒーと紅茶以外の残り全員、十人ばかりがさっと手を挙げた。色眼鏡氏本人、そして早口な編集長もそのうちのひとりだった。
ガラナは、東京ではその頃なかなか見かけない、懐かしい飲み物だった。
味も薬っぽければ、茶色くて細い瓶も薬品ぽい。
小笹は小学六年のとき、地元の友だちと行った桜木町紅葉坂のプラネタリウムで飲んだのが最後だったと思い出したから、きっとその時点で、十年ちょっとぶりに見る飲み物だったのだろう。
瓶のままテーブルに運ばれてきたガラナは、昔飲んだのと同じ、コアップガラナだった。
漫画の編集部に席をもらい、小笹がまず任されたのは、午前中の電話番だった。
他の部署が九時はじまりのところ、編集部だけは夜遅くなることが多いからと、定時が十時はじまりだったけれど、それでも大半の部員が出社するまでには、十時からだいぶ待たなくてはいけなかった。十二時になっても二、三人しか出社していない、ということもべつにめずらしくはない。
編集部は、パッと見た瞬間、よくぞこんなに、と思うほど机が並んでいた。並ぶ、というより、ぎゅっと詰め込んである、と言ったほうが近いかもしれない。
きちんとした長方形ではなく、よく見ると入って左手の壁が斜めに狭まり、奥の一辺がいくらか短くなっている部屋だった。
その入口に間近い一つが小笹の席で、同じく、もう一つ階段に近い席に、部内の事務を担当する、えっちゃん、という若い女性社員が座っていた。
早乙女みゆき、という名前の彼女が、どうしてえっちゃんなのかと思っていると、漫画『さるとびエッちゃん』の主人公、エッちゃんに似ているからだとすぐに本人が教えてくれた。黒目がちの大きな目と、結ぶとVの字になるうすい唇が、確かに石森章太郎の描くエッちゃんに似ている。さすが漫画編集部でのあだ名、と小笹は感心しかけたけれど違った。そもそもそう呼ばれるようになったのは、青雲社で働くよりも前、中学のバスケ部でちょこまかちょこまか活躍しているときだったと、これもえっちゃん本人が教えてくれた。
「はい、週刊大人漫画クラブ編集部です」
直通の電話を取ると、小笹もえっちゃんもだいたいそう答えた。当然といえば当然だけれど、応答のこれが正式なスタイルだった。漫画家の先生からの連絡のこともあれば、読者からの問い合わせや抗議、その他もろもろ、どんな相手に対しても、まったく失礼のない対応だった。不似合いに丁寧すぎて、慇懃無礼ということもない。
「週刊大人漫画クラブです」
「大人漫画クラブです」
と出ることもあった。「編集部」や「週刊」を省略するのは、電話が立て続けだったり、ちょうど他の用事と重なって慌ただしいときなんかのことで、とはいえ、まだ新米中の新米、小笹と、えっちゃんの留守番では、省略もそれくらいまでだった。
お昼過ぎになって、ようやく姿を見せた先輩社員が電話を取り、
「はい、大人漫画」
などと素早く言うと、おお、と小笹は感心した。さらに社歴の長い先輩や役付きの人たちが、
「大人編集部」
「大人」
と出るのを聞くともはや感激した。電話を取るなり、大人、はすごい。何年勤めるとああなれるのだろう、いや、何年経ってもなれないだろうなんて、まだ他の社員が来ないうちに、えっちゃんとこっそり話していた。
赤羽の倉庫へ研修に行ったあの日、一階で見かけた黄色いスクエアバッグの女子が、いくつかのコミックスを担当する編集プロダクションの社員だと知ったのも、わりとすぐだった。
まだ人の少ない時間に五階へ上がって来て、不在の西田さんの席に荷物を届けると、えっちゃんと話していた小笹のところへわざわざ来て、自己紹介をしてくれたのだった。
「足立ゆかり、です」
「あだちさん?」
「はい。あだち……あ、私って意味じゃないから」
どう答えていいものか、小笹が悩んでいると、
「思わないよ、誰も、そんなふうに」
えっちゃんが楽しそうに言い、V字の唇をして笑った。
「なにかお手伝いすることありますか」
気が利かない、少佐はとにかく気が利かないから、と中学の漫画サークルからの友人、自宅づかい用に割烹着を何枚も持つ料理上手な池田進にさんざん心配されたので、入社すると、小笹は意識して、まめにそう訊いて回ることにした。
誰かの代わりの原稿取りでも。近所へのおつかいでも。漫画の吹き出しに入れる「写植」という文字貼りでも。その「写植」を打ってもらうための、ネーム取りという書き取り作業の手伝いでも。
言われればなんでもしたけれど、当然ながら小笹はまだ素人、すべて一から作業の説明が必要で、基本的にはあまり急ぎでないようなことばかりを頼まれた。
コピー機はまだ社内に一台、四階の総務部にしかない頃だったから、複写の用があれば全社の者がそこに並んでいた。その仕事はよく頼まれた。新人? と声をかけられながら、ずいぶん長く順番待ちをしていた。
「よし、ひとつクリエーティブな作業をさせてあげよう」
雑誌に載せる「柱」という、一行広告文を作る依頼もあった。最初に作ったのは「週刊大人漫画クラブ」の、発売日のお知らせだった。なんだか凄く時間をもらい、半日かけてようやく一本考え出したのを覚えている。
〈核シェルターにもぜひ一冊! 笑いと興奮の永久運動「週刊大人漫画クラブ」は毎週金曜日発売です!〉
ペラ、と呼ばれる二百字詰め原稿用紙に、シャーペンで書いては消し、書いては消ししたのち提出したその柱は、
「あ、いいんじゃない、テクノな感じで」
と、あっさり採用になった。「でも、もうちょっと早く考えてね」
人手はいくらでもほしい、と面接のとき早口な編集長が言ったのは、部内への机の詰め込み方を見れば、あながち嘘ではないように思えた。
けれど、それでも忙しさにはむらのあるタイプの仕事のようで、こちらが訊くまでなにも頼まれないような場合は、なにかお手伝いをしようにも、みんなも暇にしていることが多かった。
「いいよ、漫画でも読んでてよお」
先輩社員によくそう言われ、どうせならこれまでの部内での名作やヒット作を研究しようと、七階の書庫からせっせとコミックスを運んで読んだ。『野望の王国』『斬殺者』『人間兇器』などなど、長い巻数ものを中心に、青年劇画をたっぷり読んだのはこの時期だ。
そうやって待っていると、急にどさっと仕事が届き、
「よし、じゃあ、チミ、これ手伝って」
と声をかけられ、途端に部内が慌ただしくなった。
「これは下版っていうんだけど、まあ詳しいことは追々教えるから、とりあえずこのページの順番通りに、この紙を貼ってってよ。この四角いところと、漫画の枠線合わせて」
綴じた紙の束と、青焼きという原稿を縮小したコピーのようなもの、それと原稿本体を手渡され、小笹は作業をはじめた。
見開きになった紙の束に、一ページずつ糊で漫画の青焼きを貼っていく。原稿にふってあるページ数とも照らし、わからないところは質問しながら。
絵を貼った横には、自分の作ったものもふくめ、柱とよばれる一行広告を、べつの紙からつーっと切り取って貼りながら。
小笹は、すごい、と興奮しながらその作業をしていた。
いつの間にか窓の外はすっかり暗くなっていたけれど、小笹は笑い出してしまいそうなくらいに楽しかった。実際、口もとは大きく緩んでいたのだろう。
こんな楽しいことしてお金をもらえるなんて。
いいの?
ホントにいいの?
そう思いながら、はじめての作業をしていた。
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