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 ◆第三のモデル 天寿を完璧に全うした画家
 ここまでの二人はフィクション上の人物だったが、三人目は実在の人物だ。
 その人の名は篠田桃紅とうこう。現代アートに造詣深い向きなら即座に「ああ、なるほど」と納得してくださるのではないだろうか。
 戦後すぐに書家としてデビュー、昭和三一年(一九五六)に単身ニューヨークに渡り、独自の抽象表現による墨絵を大成させた篠田桃紅――以後は尊敬の念を込めて桃紅先生と表記する――は大正二年(一九一三)に生まれ、令和三年(二〇二一)に没した。享年一〇七。百歳以上の長寿者、いわゆる“センテナリアン”だ。
 とはいえ、今どき百歳御長寿もさほど珍しくはない。なにせ国内だけでも九万人以上いるのだ。九万人といえば、長野県飯田市、兵庫県芦屋市などの人口規模に等しい。小都市の住人を丸々センテナリアンだけに置き換え可能と考えると、なかなかのインパクトである。ちなみに、老人福祉法が制定された昭和三八年(一九六三)には一五三人しかいなかったそうで、たった半世紀と少しで六百倍に増えたってんだから、なんともはや。
 しかしながら、最晩年まで独立した暮らしを保ち、社会と主体的に関われるセンテナリアンとなると、やはりどっと減る。ほとんどの方は家族と一緒、もしくは施設で暮らしているし、認知症がかなり進んでいるケースも少なくない。社会との関わりとなると皆無に近くなる。
 その点、桃紅先生はほぼ生涯現役だった。
 制作は最晩年まで続けられ、個展も毎年のように開かれた。没後、アトリエにある机の上には絶筆となった作品がそのまま置かれてあったという。美術家としての生を全うされたのだ。
 また、随筆家としても名高かった先生の最後の著作が出版されたのは死の当年だった。
 内容のほとんどは旧著からの再構成だし、新しい部分も語りおろしである。しかし、制作の最中には「これが最後の本になる」と再三仰っていたと記されている。これはつまり、桃紅先生が本の制作に主体的に関わっておられたことを意味する。単にお膳立てされた本が出るのを右から左で見ていただけなら、こんな言葉が出るわけがない。再構成本なら本人の意志とは関係ないところで出すのも可能なのだから。しかし、あえて「最後」と口に出すことで、出す出さないの判断をするのはこの私、と周囲に示していたのではないかなと思う。
 こんなセンテナリアンがいったい何人いることか。本当にすばらしい。
 ただ、そこだけを以てして我がロールモデルに、と考えているわけではない。
 実は、桃紅先生の気質に、私と似たものを感じるのだ。
 あ、そこのあなた、今「美術史に残る世界的アーティストと自分が似ているだって? えらく図々しいことを言い出したな」と思いましたね。
 はいはい、そうお思いになるのも当然です。
 私だって思います。
 でもね、ちょっと待ってちょうだい。
 似ているのはあくまで気質、気質なんです。

 気質 き-しつ〔名〕(1)生まれながらの気性。また、人に接したりする態度などに現われる、その人の心の持ち方。気だて。(小学館『日本国語大辞典』より)

 わざわざ言及するのも野暮なほど、桃紅先生と私を比べた時、才能経歴人格美貌何一つとって及ぶところは皆無である。でも、気質だけはちょっと通じるものがあるのだ。
 たとえば。

 私の場合は、こうなりたい、と目標を掲げて、それに向かって精進する、という生き方ではありませんでした。自由を求める私の心が、私の道をつくりました。すべては私の心が求めて、今の私がいます。(『一〇三歳になってわかったこと 人生は一人でも面白い』より)

 私は、一人でやりたいようにやってきました。美術団体や連盟などに所属することは、私の性格では無理なことでした。その代わり、自らによって生きることは、とても孤独なことです。しかし、それが私にとっての自然体でした。(『一〇五歳、死ねないのも困るのよ』より)

 自由を求める心が、自分の道を作った。
 孤独が自分にとっての自然体。
 どちらの言葉も、私の心にはしっくり馴染む。まるであつらえてもらったかのように。
 一般的に「自由」とは「他者による強制を受けず、世のしがらみや規範から解き放たれている」状態とされる。しかし、桃紅先生はそのまま読み下して「自らにる」、つまり自分に従う、自分に頼ることと解釈している。
 この解釈に初めて触れた時、私はなんだか目の前の霧が晴れたような気がした。
 そうだ。そうなのだ。
 自由に生きるとは無軌道に突き進むことではない。
 自分の心に従い、自分を杖として人生を歩むことなのだ。
 桃紅先生は生涯独身で子は無く、病院で臨終を迎えるまで、通いのお手伝いさんの手を借りながらもひとり暮らしをしておられた。それが可能だったのは、可能にするだけの経済力や人脈があったから、ではある。そうそう真似できることではない。
 だが、注目すべきは独居できるだけの気力と知力を最後まで保っていらした点だろう。そして、何よりすばらしいのは、独居の理由が「人に迷惑をかけたくないから」ではなく「それが私にとって自然だから」であるところだ。
 独居するお元気御長寿の紹介本や記録映像は山ほどある。どの方々もそれぞれ立派に“老い”を生きていらっしゃって、尊敬の念を覚えないことはまずない。しかし、「迷惑をかけたくないから最後までひとり暮らしをしたい」とのたまう方が多いのには、正直ちょいと引っかかっている。
 それは、心がけとしては麗しいかもしれない。けれど、孤独耐性のない人が我慢してひとり暮らしをしたって楽しくないだろうし、心身に悪影響が出るに違いない。迷惑をかけるストレスが孤独のストレスに勝るのであればともかく、そうでないならひとり暮らしなんて精神的苦痛に耐えてまでやるものではない。
 桃紅先生は、インタビューなどでしばしば「自分はよく言えば自立心旺盛で、悪く言えばわがままだ」という主旨の発言をしておられた。
 私もそうである。自分に由って物事を判断するのは苦にならない一方、人の判断を押し付けられるのはとてもイヤだ。人生に関わる大きな問題だけでなく、おやつに食べるせんべいの枚数から下着の柄みたいな生活の細部でも、他人に決められるのは御免こうむりたい。
 もちろん、さほど思い入れのないことや主体が自分以外の場合、また、判断するに足る十分な知識を持っていないケースなどは、他人様にお任せするにやぶさかでない。
 たとえばサッカー観戦に誘われたとしよう。ひいのチームはこれといってないので、対戦カードは誘ってくれた人が決めてくれて構わない。ゲームがおもしろければ満足だ。
 誰かが私の誕生日にサプライズ・パーティーを開いてくれたとしよう。サプライズ・パーティーなんてのは、お祝いの形をとりつつ楽しんでいるのは準備する側だ。つまり開催者が主体なのだから、多少気に入らないことがあってもグッと飲み込むだろう。気持ちだけをありがたくいただく。
 料理屋でお酒のペアリングなんかを頼む場合は、おおまかな好みを伝えたらあとはお店にお任せする。こういう場合は、よりよくわかっている相手の意見に従ったほうが結局は得する。
 私が他人任せにするのはこうしたことだけだ。いや、これらとて一見他人任せであっても、「他人任せにする」と決めたのは自分なので形を変えた自己決定といってよい。
 桃紅先生のいう「一人でやりたいようにやってきた」とは、判断を誰にも任せず生きてきたということだろう。そんな“わがまま”の代償は“孤独”である。だが代償が代償と感じられないならストレスにはならない。
 私は、桃紅先生のように、自分に由って生きる帰結として、いまきわまでひとりで暮らしたい。それこそ、私が快適生活を送る条件の第一なのだから。
 要するに、老後のひとり暮らしなんて、根っから孤独が好きで、そのほうが楽に生きられる人間だけがやればいい。そうでないなら、迷惑だなんだと気兼ねせず、素直に誰かと暮らせばいいのだ。
 私だって、いずれは「やっぱり誰かと暮らしたい」となるやもしれない。そうなったらそうなったで、グループホームに入居するなり何なり方策を考えればいい。老いてまで自分の心に嘘をついて生きるのは真っ平である。その時その時の自分と素直に、率直に向き合い、「本当はどうしたいのか」を大切にしていきたい。
 何よりも大事なのは自分を快適に過ごさせてやることだ。でも、そのためには自分にとっては何が快適なのかを明確に把握しておかなきゃいけないし、同時に心変わりした時に慌てないよう、別の生き方も知識としては仕入れておいたほうがいい。
 そんなわけで老いの気構えの結論。
・最後まで自分に由って生きるために、自分と向き合うことを恐れない。
・変化を恐れず、自分の心には正直に。
 おや? 私の中の冷笑派代表選手・冷央子がなにやら鼻で笑っているみたいですよ?
「またえらくかっこいいな、モンガミオコ。ま、言うだけはタダだもんな。せいぜいがんばってくれや」
 はいはい、せいぜいがんばりますとも。誰かに笑われたって、私の老後は私にしか作れないんだから。できる限りいい老後にしてやりますよ。

 

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