「――なに、言ってんの?」
笑おうとした。笑おうとしたけれど、できなかった。一瞬、真っ赤なものが目の前にチラつく。あれは、なに?
「わたしが人なんて殺すわけないじゃない。いったいどこで、誰を殺したのよ」
「場所はご自宅、相手は閤田幹成という男性です」
「そんな人、知らない。聞いたこともないよ」
否定しながらも、また脳裏が真紅に染まる。厭な予感が、背筋をかけのぼった。
「この人です」
桐谷が、顔写真をわたしの目の前に掲げた。丸刈りの、おじいさん。メガネ以外は、特に印象に残らない顔。もちろん全く見覚えはない。
それなのに。
それなのに――わたしの手が、何かを握っていた感触を覚えている。鋭く尖ったもの。あれは……あれは何だったの?
「どうして」いやな感触を振り払うように、わたしは手をこすり合わせた。「どうしてわたしがこの人を殺しただなんて思うの? 本当に知らないのよ」
「通報があったからです」
「じゃあその人の見間違いだってば」
「通報者は、あなたです」
「わたし……?」
思わず言葉を失う。しかしすぐに気を取り直して、桐谷と、そして背後でメモを取っている野村を睨みつけた。
「わたしが殺しましたって電話したの? 嘘よ、ありえない。殺してもいないし、まして通報なんてするはずない」
「覚えていらっしゃいませんか?」
「覚えている、いないじゃなくて、してないんだってば!」
ベッドから下りかけて、再び管に繋がれた腕に引き戻される。ああもう、と舌打ちした。
「これ外して。もう家へ帰してよ。お父さんもお母さんも、きっと心配してる」
ハッとしたように、桐谷と野村が顔を見合わせる。一瞬の沈黙ののち、桐谷が「先生を呼んできて」と野村に告げた。硬い表情をした野村が、病室を出て行く。
「柏原さん」
桐谷が、わたしの寝間着の袖を、そうっとまくりあげた。
「こちらの腕を見ていただけますか?」
点滴が繋がれているのとは反対の腕に、わたしは視線を落とした。手首に、銀色のブレスレットが巻かれている。ごついメタルのプレートに、チェーン。しかもプレートには赤十字のマーク。
ちっとも可愛くない。こんなの趣味じゃない。わたし、いつ買ったの? それに、留め金がみあたらない。手の甲から抜けるほどチェーンは長くない。――つまり、外れない。気味が悪い。
「プレートを裏返してみてください」
裏面には文字が彫りこんであった。ますますホラーだ。
柏原麻由子 かしはらまゆこ
19XX/8/5 生まれ
事故による記憶障害を持っています
かかりつけ病院:伊勢原中央脳神経センター
担当医:吉田幸三
直通:04XX-XX-XXXX
緊急連絡先:柏原光治 090-XXXX-XXXX
住所:森ケ崎市森ケ崎×ー×ー×
「――なによ、これ?」
やっと出た声は、震えていた。
「事故ってなに? いつ?」
「柏原さん、落ち着いて」
「教えてよ! どういうこと?」
掴みかからんばかりに喚いていると、引き戸が開いて医師と看護師が入ってきた。その後に野村が続く。
桐谷がベッド脇からどき、医師に場所を譲った。
「あなたが吉田先生?」わたしはブレスレットを示した。「わけわかんない。説明してよ!」
「興奮しないで。少し深呼吸しましょうか」
医師は両手でわたしの手を持った。温かかった。その時初めて、自分の手が冷え切っていることに気がついた。何度か深呼吸してわたしが落ち着いたのを見ると、医師が口を開く。
「ここは柏原さんのかかりつけ病院ではありません。ただ吉田先生とは連絡がつき、確認しましたところ、あなたは二十年前に交通事故に遭われています。その際に脳にダメージを受け、後遺症として記憶障害が残ってしまった……とのことです」
思わず頭に手をやる。医師の声は穏やかで、衝撃的な内容にもかかわらず、なんとか受け入れることができた。交通事故。脳に後遺症。そういうことだったのか。
「交通事故って、どうして――」
「車道に飛び出したんです」
頑張ってみたが、やはり思い出せない。交通事故、しかも後遺症が残るほどの大きなものなのに、本当にここまできれいに忘れてしまえるものなのか。ふと、医師の言葉に引っ掛かりを覚えた。
「飛び出したって……自分からってことですか?」
「そのようです」
「どうして?」
医師はちらりと背後の刑事たちを見た。桐谷が答える。
「あなたが飛び出したのは、通り魔から逃げる為です」
「通り魔……」
まるで現実味のない単語。ニュースの中でしか聞かないようなことが、現実に自分の身に起こったというのか。しかしこうして病院にいるということは、通り魔からは逃げられたということ。事故にあったとはいえ、幸運だったのだろう。
「そうだったんですか……。それなら飛び出したことにも納得がいきます」
わたしは息をついて、シーツに視線を落とした。いつの間にか、ぎゅっとシーツを両手で握りしめていた。指を離すと、深いシワがよっている。それが気になって、手のひらを押しつけて伸ばした。何度も何度も、同じことを繰り返す。汗の湿り気もあって、良い具合にシワが薄くなっていった。しばらくそれに集中して、顔を上げた。目の前に、見知らぬ医師、看護師、そしてスーツ姿の男女がいる。
わたし、何をしてたんだっけ。
そう、話をしてた。でも何の?
視線がブレスレットに留まる。素早く文字を読む。記憶障害? 嘘。わたしが? ああ、でも、そうだった気がする。だからブレスレットをつけられてるんだ。
確か最初は入院患者に着けるような、柔らかい素材のリストバンドだった。だけど、わたしがはさみで切って外してしまうから、今度は金属製のブレスレットになったんだ。ただ、それも勝手に手から抜いてしまうから、チェーンを短くされて、おまけに留め具をペンチで挟んで壊された。
なんだ、いろいろと覚えてるじゃない。よかった。でも――
わたしは、プレートについた無数の傷や、塗料のはげかけた赤十字のマークを撫でる。
いったい、どれくらいの期間、これをはめているんだろう?
二か月や三か月という感じじゃない。一年? 二年? それとも……。
わたしは改めて両手の甲を見た。いやだ……なにこれ、すごい荒れてる。爪のまわりはささくれてるし、明らかにみずみずしさを失っている。慌てて髪の毛に手をやった。背中に垂れていた髪の束を、前に持ってくる。ところどころ、白いものが交じっていた。
「なんで……?」
わたしが忙しく首をめぐらせるのを、みんなが怪訝な表情で眺めている。
わたしは鏡を探していた。が、洗面台は引き戸の近くにあって遠い。ふと窓側を見れば、小さい薄型テレビが備え付けの棚の上に置いてある。真っ黒いつるりとした液晶画面から、化粧っ気のない、疲れ切った中年女が見つめ返していた。
「これ、わたしじゃない……」
周囲の空気がはっと緊張した。
「柏原さ――」
「わたしじゃない!」
泣きながら叫ぶと、
「もう一度、大きく息を吸いましょうか」
と医師が言い、看護師が背中をさすり始めた。わたしは涙をぬぐいながら、深呼吸を試みる。最初は嗚咽混じりの浅い息だったのが、数分ほど繰り返すうちに整ってきた。
ふと、目の前に立つ男女が気になる。
「ねえちょっと、あんたたち誰?」
わたしの問いに、二人は目を見開く。
「勝手に人の部屋に入ってこないで。早くお父さんとお母さんに連絡してよ」
この二人が誰だかはわからない。けれども何となく、こんな部屋に閉じ込められているのは、こいつらのせいだと直感した。
「その……お父様とお母様のことなんですが」
わたしが落ち着きを取り戻すのを待っていたように、女が口を開いた。
「先ほどまでのお話を覚えていらっしゃいますか?」
わたしは少し考える。この女と話していた? 何だっけ。
「柏原さんが通り魔に遭遇されて、逃げるために道路に飛び出して車と接触したということです」
助け船のつもりか、男――よく見ると割と整った顔をしていた。それに、女よりもだいぶ若い――が口を挟んだ。
「そうだったんですか。だからわたし、病院にいるんですね」
ざっと見た感じ、怪我もない。頭の後ろや背中が痛い程度だ。ラッキーだったんだ。
「いえ、そうではないんです」再び女が言った。「その事件が起こったのは二十年前でして」
「……二十年前?」
思わず眉をひそめる。
「ええ。ここからが本題なんですが」
女が、ごくりと唾を呑むのがわかった。いやな予感がして、傍らに控える医師を見る。わたしの目から怯えを察したのか、医師が女に「あまりにも興奮するようなら、話を途中でやめてもらいます。いいですね?」と念を押した。「わかっています」と女は頷き返したが、その言葉とは裏腹に、その表情には何が何でも話を進めるという強い意志が漲っている。わたしはぎゅっとシーツを握りしめた。
「二十年前、あなたはご両親と銀座に出かけてらした。そこで通り魔に遭遇した。あなたは助かりましたが、残念ながらご両親は――犠牲になられました」
どくん、と耳元で鼓動が響く。目を見開いたまま硬直するわたしに、女が言った。
「お亡くなりになったということです」
息ができない。ものすごい速さで心臓が打っているのに、体中からすうっと熱が逃げていく。思わず目をつぶると、ぶちまけられるように、再び真っ赤なものがまぶたの裏を染めた。
そうだ、あれは血なんだ。辺り一面の血、血、血。そして――ああ、何かがその中に横たわっているのが見える。きっと死体。死体に違いない……。
なにかが胃からせりあがってきて、えずいた。すかさず看護師が、プラスチックのトレーをわたしの口元にあてがう。
「今日はこのくらいでいいでしょう。逃亡の恐れもないのだから」
酸っぱい胃液を吐くわたしの耳に、医師の声が聞こえる。少しの間があったあと、仕方がないといった調子で女が「ではまた明日に出直します」と答えた。
「おばさん、待って」
わたしは口元を拭い、慌てて顔を上げた。
「ちゃんと聞かせて。なにが起こったの? わたし、知りたい」
ドアまで行きかけていた男女が振り向く。医師が頷くのを見ると、二人は足早にベッドまで戻って来た。
「詳しいことは、こちらに書いてあります」
男が自分の鞄から書類を取り出し、わたしの目の前に置く。それは新聞記事のコピーだった。日付は一九九×年の九月七日。これが二十年前ということだろうか?
『ガラスの殺意』は全3回で連日公開予定