20年前に起きた通り魔事件の犯人が刺殺された。自ら「殺した」と通報したのは、その事件で両親を殺害された女性。だが彼女は、惨劇から逃げる際に交通事故に遭い、「高次脳機能障害」を負っていた。記憶が10分しか保たないのだ。警察の取り調べに対し、供述は二転三転する。はたして「復讐」は成し遂げられたのか? それとも……。

 驚愕のサスペンスであり、「家族とは何か」を問う救いの物語でもある本書『ガラスの殺意』がついに文庫化された。

「小説推理」2018年10月号に掲載された書評家・大矢博子さんのレビューで、本作の読みどころをご紹介する。

 

ガラスの殺意

 

■『ガラスの殺意』秋吉理香子  /大矢博子[評]

 

人を殺した、と警察に告げた女性。しかし彼女は記憶障害があり、次の瞬間にはそれを忘れていた──。家族とは何かを問う一気読み必至の衝撃ミステリ。

 

 警告しておく。秋吉理香子『ガラスの殺意』は、時間のないとき「ちょっとだけ」などという思いで開かない方がいい。読み始めたら最後までやめられない。翌朝が早かろうが予定の時間が迫ってようが、途中でやめることができない。それほどの強烈な吸引力だ。

 物語の始まりは、殺人現場にいるらしい女性の視点。彼女は警察に電話をし、人を殺した、と告げる。次の場面は病院だ。彼女は警察が駆けつけたとき倒れてしまったらしく、病室で事情聴取が始まるのだが──その女性、柏原麻由子は、自分が誰かを殺したらしいことも警察に電話をしたこともまったく覚えていない。

 記憶喪失とは異なる。彼女は20年前に通り魔から逃げる最中、車に撥ねられた。そのとき脳に障害が残り、それ以降の記憶の蓄積ができないのだ。10分かそこらで、今、自分が何をしていたかも忘れる。40代なのに自分を高校生や大学生だと思っていることもある。今話している相手が、突然誰だかわからなくなる。さっきまで認識していた「病院にいる」ということが、急にわからなくなる。

 本人視点で語られる、記憶の混乱の描写が見事だ。いや、混乱とは少し違う。忘れたことすら忘れる、とはこういうことかと、臨場感あふれる描写に目が釘付けになった。

 前半は、逮捕され、留置場に入れられと目まぐるしく変わる環境の中で、麻由子が何をどう認識して生活するのかと、本人の供述があてにならない中で警察がどう証拠固めをするのかという点が中心になる。が、途中から物語はがらりと様相を変える。こう来たか、と固唾を呑んだ。

 ミステリとしての面白さ、何重もの逆転と衝撃の真相は圧巻。だが実は本書の最大のテーマは、家族の介護だ。

 事件を捜査する刑事の桐谷は、認知症の母を施設に預けている。ところが、結婚していることさえ忘れてしまう麻由子を側でずっと支えている彼女の夫を見るにつけ、罪悪感に苛まれてしまうのだ。

 同じ問題を抱えている読者には、辛い場面もあるかもしれない。だが、ラスト間際、桐谷のバディである若い刑事が桐谷に告げた福音とも思える言葉を、どうかじっくり噛み締めていただきたい。これを伝えるために、著者はこの物語を書いたのではないだろうか。

 本書はノンストップサスペンスであり、意外な真相が待つ秀逸なミステリであるとともに、家族とは何かを描いた救いの物語なのである。