最初から読む

 

 午後十一時三十分──。
 家計簿を閉じる。毎晩つけている十一時のニュースは、温暖化が家庭経済に及ぼす影響について取りあげていた。
 家計が苦しいのは、どこも同じだ。今夜は風があって過ごしやすい、などと自分に言い聞かせながら、エアコンを切り、窓を開けたのは節約のためだった。
 たかが一時間あまり我慢したところで、たいした違いはない。自分だけ我慢したところで、二階の四畳半は食事中で本人不在でも、おかまいなしに冷え切っているのだろうし、啓介が帰ってくれば、ただいまの挨拶もそこそこにスイッチを入れるはずだ。それでも、家計簿を出すと、エアコンを切らずにはいられなかった。
 たとえ、啓介に嫌味っぽくつぶやかれるのはわかっていても。
 暑い暑い。おまえはいいよな、一日中エアコンのきいたところで働いているんだから。
 スーパーのパートなど、やりたくてやっているのではない。それでも、夢が叶った代償と思えていた頃は、鼻歌混じりに仕事もできた。どんなに疲れていても、ひばりヶ丘に向かう坂道を上りながら徐々にわが家が見えてくるにつれ、心が軽くなっていくようだった。
 ひばりヶ丘。市内で一番の高級住宅地、ひばりヶ丘。ひばりヶ丘に家を建てた。
 真弓の夢は一戸建ての家に住むことだった。
 貧しい生まれというわけではなかったが、父親が転勤族だったのと、母親の「家族は一緒に住むものだ」という考えとで、アパートやマンションを転々とし、一度も戸建てに住んだことがなかったのだ。
 広くなくてもいい。小さな庭のある家で、家庭を築きたい。
 そんな夢に少しでも近づくために、短大卒業後、中堅の住宅メーカーに就職した。展示場での案内が真弓の仕事だった。家に対する思いは誰よりも強く、営業部の男性よりも成果をあげた時期があった。
 自分の方が仕事ができる。そんな自負があったのか、営業部の男性はどこか頼りなく感じた。どうして、家を持つ喜びをもっとアピールできない。どうして、家が与えてくれる幸せをもっとアピールできない。
 そんなとき、展示場を訪れた客が壁を傷つけた。系列の工務店から修理にやってきたのが、遠藤啓介だ。
 ──展示場で子どもを野放しにするなんて、非常識にもほどがあるわ。
 憤る真弓に、啓介は穏やかな口調で言った。
 ──直せばいいんですよ。きれいなままの家なんて、あり得ないんだから。
 現場で働く啓介は、今は独身だが、いつか自分の家を建てるのが夢なのだ、と真弓に語った。
 家を建てるのは子どもを授かるのと同じことだ。建てたからといって、終わりではない。愛情を持って接し、必要に応じてメンテナンスを施し、大切に住んでいくことによって、本当のわが家になるのだ。
 啓介の言葉すべてに共感できた。この人しかいない。
 啓介と結婚し、彩花が生まれ、家を建て──自分の人生は想像以上に思い通りにいったのではないか、と思えた期間は、果たして一年あっただろうか。
 テーブルの真ん中に置いてある観葉植物の葉に積もったほこりを、指先でふきとる。
 大好きな観葉植物も、壁紙も、照明も、テーブルセットも、全部理想通りのものだ。これ以上は何も求めていない。それなのに。
 なぜ、心穏やかに過ごせないのだろう。家を持つことと、家族の幸せは別物だというのか……あり得ない。
 だが、このくらいでいいのだ。ニュースで見るように、世の中には大変な人たちがたくさんいる。それに比べれば。
 癇癪を起こされようと、罵られようと、よそ様から文句を言われず、一日が無事に終了すれば、それで充分ではないか。
 ニュースは明るい音楽とともに、プロ野球の話題に切り替わった。
 啓介の帰りが遅い。いつもスポーツコーナーまでには帰ってくるのに。
「ナプキン買ってきて」
 背後から声をかけられた。彩花が、風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭っている。
「あら、ママのじゃダメなの?」
「勘弁してよ、あんな特売品。明日、体育があるんだよ。絶対にダメ」
 午前零時前。どうしてこんな時間に、娘の生理用品を買いに行かなければならないのだろう。
「ちゃんと先月言ったでしょ。もうすぐなくなるって。毎日スーパー行ってるくせに、なんで買ってこないのよ」
 彩花が甲高い声を上げる。そんなこと言っていただろうか。もしかすると、言っていたかもしれない。生理用品だけではない。朝出るときは、あれも買っておこう、これも買っておかなければと思うのに、夕方仕事が終わる頃には、疲れきって、朝考えていたことなどすっかり忘れてしまう。
「いつものでいいのよね」
 銘柄を確認しながら、立ち上がる。言い返しても仕方がない。今から買いに行けばいいだけだ。
「ついでに、アイスも買ってきて。ハーゲンダッツのストロベリーね」
 平然と言われる。もしかして、こちらが本当の目的ではないか。だが、それを問いただそうとは思わない。聞いてどうなるわけでもない。まだ風呂に入っていなくてよかった。
 使い慣れた手提げバッグを持ち、サンダルをつっかけて、ドアを開けた。
 人影が映る。
 ハッと息を飲んだが、目の前に立っていたのは啓介だった。
「なんだ、あなただったの、おかえりなさい。今日はまた遅かったのね」
「ああ、ちょっと急用が入って。それより、どこに行くんだ? こんな時間に」
「コンビニよ。悪いけど、お夕飯、レンジの中に入ってるから、温めて食べて」
「……何かいるもんがあったら、俺が買ってこようか?」
 啓介にしては気の利いた言葉だった。だが、いくらなんでも、生理用品を買いに行かせるわけにはいかない。
「いいわ。ついでに、明日のパンも買いたいし」
 玄関前の階段を下り、幹線道路に向かう坂道を数歩下った。
 ふと、振り返る。
 静まりかえった高橋家。二階の灯りはまだともっている。よかった。騒ぎが収まっている。一時的なものだったのだ。それとも、さと子がまた、様子を見に行ったのか。
 肩をすくめながら歩き出す寸前、暗がりの中で啓介と目が合った。まあ、と言ったのか、じゃあ、と言ったのか、あわててドアが閉められた。まだ中に入っていなかったのか。四十前のおばさんでも、夜道を一人歩きさせるのは、心配なのだろうか。
 なんとなく嬉しくなり、ビールのつまみでも買ってきてあげようか、と足取りも軽く深夜の坂道を下っていった。

 午前零時二十分──。
 家から一番近いコンビニエンスストア、〈スマイルマート・ひばりヶ丘店〉は、坂道と幹線道路が合流する角にある。
 地方都市の住宅街の片隅に、一晩中開けておかなければならない店など必要なのだろうか。不良のたまり場になってしまうのではないか。昨年のオープン当初はそう危惧したものだったが、あればあるで利用してしまうし、真弓が思うような不良を見かけたこともなかった。
 やはり、環境のいいところなのだ。
 中に入り、カゴを手に取ると、雑誌コーナーの前に見覚えのある少年が立っていた。
 高橋慎司。ほんの一、二時間ほど前、大声を張り上げていたはずの子だ。
 マンガ雑誌を立ち読みしている。
 この子でもマンガを読むのか。当たり前だ。中学生なのだから。
 真弓に気付いたのか、慎司が顔をあげる。誰だっけ? という顔をして、ああ、と思い当たったのか、「こんばんは」と笑顔で頭を下げた。真弓も「こんばんは」と気後れしながら挨拶を返す。
 この子は外に声が聞こえていたことを知らないのだろうか。
 淳子には、何も聞こえなかったかのようにふるまおう、と思っていたが、慎司に対しては何も考えていなかった。怪訝な顔をしてしまっただろうか。取り繕うように、明るく声をかけてみる。
「気分転換? わたしも彩花の夜食を買いに来たの。来年は高校受験だし、お互いがんばりましょうね」
 お互い、はマズかったか。まったくレベルが違うというのに。しかし、彩花が中学受験に失敗したのは、小学校が違うから知らないだろうし、公立に行ってるからといってバカにもしていないだろう……。
 サイレンの音が響く。

 

この続きは、書籍にてお楽しみください