【七月三日(水)午後七時四十分~七月五日(金)午前十一時】 

 午後七時四十分──。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 目の前には少女が一人。あやと名付けたのは遠藤えんどうゆみだった。
 甲高い声を張り上げながら、勉強机の上にあるものを手当たり次第、わしづかみにしては、床に叩き付けている。いや、携帯電話、プリクラ帳、お気に入りのものは避けている。教科書、辞書、ノート……。ペンケースは先月買ったばかりなのにもう飽きてしまったのか。
 だが、白地にピンクのハート模様のラグが、音も衝撃も吸収してくれる。少し高かったけれど、奮発して買ってやってよかった。
 以前は、その中途半端な鈍い音が彼女の神経を逆なでするのか、さらに怒りを募らせながら、今度は壁に向かって投げ付けていた。が、二ヶ月ほど前に、そこにお気に入りのアイドルのポスターが貼られてからは、軌道が変わることはなくなっていた。
 ポスターを一瞥いちべつした後、出て行け、クソババア! と残った気力をすべて振り絞るようにしてののしると、かんしやく劇場は終了する。クソババアに逆上してはいけない。終わりの見えない癇癪が延々と続くよりは、はるかにマシなのだ。
 大切に育ててきたはずのわが子に、どうしてこんな言い方をされなければならないのだろう。
 初めは深く傷つきもした。だが、これは本心ではなく、振り上げた拳を下ろせなくなってしまった彩花の、こんなことはもう終わらせたい、という苦しみに満ちた叫びなのだ。そう思えば、寛大に受け止められるようになった。
 家庭内暴力相談サイトに投稿してみたらどうだろう。「壁にポスターを貼ると効果あり。手に入りにくいものほどよい」。近頃は、そんなことを考える余裕すらできていた。
 ポスターは、今日の昼がネットオークションの終了時間だから、と平気な顔をして学校を休もうとする彩花を説得し、真弓が責任を持って、落札したものだ。
 紙切れ一枚に一万円。真弓にも若い頃、夢中になったアイドルはいたが、ポスターにそんな金を払ったことはない。
 バカバカしい。しかし、落札できなかったら──。
 学校から帰ってきた彩花は、ポスターを落札できたことに喜んだのに、値段を聞くと、バカじゃないの? と吐き捨てるように言った。
 いくら高くても五千円でしょ。相場もわからずに、じゃんじゃん値上げしていったんじゃないの? あんたって、ヘンなところが負けず嫌いで、見栄っ張りなんだから。そのしわ寄せが全部あたしのところに来てるって、ちょっとは理解してよね。
 しわ寄せ、って何だろう。結局、ありがとう、とは言われなかった。代金は全部真弓が支払った。二日分のパート代。家のローンはまだ三十三年も残っている。私立高校を受験するかもしれない彩花の進学費だって必要だ。
 だが、一万円は無駄ではなかった。癇癪を起こし、壁に向かって辞書を振り上げた彩花の手が、下がったのだから。むしろ、安いものだ。
 それ以来、真弓は、笑顔がかわいいポスターの少年、たかしゆんすけくんに好感を抱き、応援するようになった。出演番組はほとんどチェックし、CDや写真集も買い集めた。最初はたどたどしかった俊介くんの歌や演技が、短期間でメキメキと上達するのを応援するのは楽しかったし、何よりも、彩花との共通の話題ができたことが嬉しかった。
 もうすぐテストじゃないの? 学校はどうなの? 早くお風呂に入りなさいよ。
 それまでは彩花に向かって口を開けば、文句しか出てこなかった。それでは、真弓が癇癪スイッチを押しているようなものだ。
 俊介くん、今度ドラマに出るんだって。主題歌も歌うみたいよ、すごいわね。そうだ夏休みに、コンサートに行ってみない?
 えーっ、オバサンとコンサートなんて恥ずかしいよ。でも、どうしても付いてきてほしいっていうんなら、一緒に行ってあげてもいいよ。その代わり、服買ってよね。
 俊介くんを介せば、彩花と楽しい会話が成立する。機会があれば、彼にお礼の手紙でも書きたいくらいだ。そして何よりも、夏休みが楽しみだった。
 しかし、今夜の癇癪の原因は俊介くんだった。
 水曜七時の人気クイズ番組に、新番組の宣伝を兼ねて出演した俊介くんが難しい問題をスラスラと答え、実は名門の私立校に通っているということがわかったのだ。真弓はそれをめただけ。
 すごいわね、俊介くん、頭も良かったなんて。だから演技も上手いのね。台詞せりふだってすぐに憶えられるだろうし、ストーリーもしっかり頭の中に入ってるんでしょうね。ダンスも歌も上手だし、基本的に頭のいい子は何でもできるのよね。
 どうせ、あたしは落ちました!
 どの言葉でスイッチが入ってしまったのか、彩花はそう叫ぶと、二階に駆け上がっていった。同時に、泣き声なのか叫び声なのかわからないような声が家中に響き渡る。ほうっておきたいが、そうすると、エスカレートするばかりだ。一度、下まで降りてきて、キッチンの食器を片っ端から投げ始めたことがある。
 重い足取りで二階に上がり、彩花の部屋のドアを開けた。すでにいくつかの参考書が床に散らばっている。
「やめなさい、彩花。ママ、謝るから。勉強なんてできなくていいのよ」
「バカにするな!」
 ノートが、教科書が、次々と床に叩き付けられる。机の上には携帯電話とプリクラ帳しか残っていない。よし、今日はこれで終わりだ。安堵のため息をついたと同時に、彩花の手が壁に伸びた。
「やめて!」
 少年の笑顔が真っ二つに引き裂かれる。その瞬間、真弓のからだは透明なフィルムに包み込まれた。全身に水糊をかけられ、それが徐々に固まっていくような……何だろう、この感覚は。
 フィルム越しに見えるのは、真弓の知らない世界。
 見たこともない珍獣が暴れている。サル、ネコ、顔の作りとしてはリスか。長い爪をむき出しにし、全身で暴れる珍獣。修復不能なまでに引き裂かれたポスター。だが、珍獣は手を止めようとしない。壁に無数の爪痕が刻まれる。
 やめろ。やめてくれ。わたしの宝物を傷つけるヤツは、許さない。
 ピンポン、と高い音が響いた。
 ドアフォンだ。こんな時間に誰だろう。真弓を覆っていたフィルムがニュルニュルと溶けていった。
 一階に降り、玄関モニターを確認する。ニッコリと笑う丸顔の婦人、隣家のじまさと子が必要以上に顔を近づけて立っていた。ドアを開ける。
 スウェットの上下姿。肩からポシェットが斜めがけされている。黒いベルベット地にちりばめられた、一円玉大の金色のスパンコールから目が離せずにいると、さと子は滑り込むように中まで入ってきた。
「これ、いただきもののチョコレートなんだけど、うちみたいな年寄り二人じゃ食べきれないから、もらってもらえないかしら」
 小さな紙袋が差し出された。結婚前に一度だけバレンタインデーに奮発して買ったことのある、有名ブランドのものだった。丁寧に礼を言い、紙袋を受け取ったのに、さと子は帰ろうとしない。真弓の肩越しに奥をのぞき込んでいる。
 チョコレートは口実だ。
「あ、あの、もしかして、大きな声を出してしまったから、ご迷惑をおかけしたんじゃないでしょうか。娘の部屋にゴキブリが出て、それで大騒ぎしてしまって……。たまにあるんです。わたしも娘もおお袈裟げさで、本当に申し訳ございません」
 早口で一気にまくしたてた。しかし、さと子は顔の前で手を横に振る。
「あら、まあ、何のこと? 声なんて聞こえたかしら。こんな時間に来たわたしのせいね。失礼しました。では、ごめんくださいませ」
 笑顔のまま背を向け、さと子は出ていった。ドアを閉め、ため息をつく。
 恥ずかしい。
 彩花の癇癪が、真弓の叫び声が、近所中に響いていたに違いない。今日だけではないはずだ。さと子はいつも、それが気になっていたに違いない。人のさそうな婦人だ。好奇心などではなく、本当に心配してくれていたのかもしれない。たまりかねたところに、たまたま、今日はチョコレートという口実があった。
 いや、隣家とはいえ、声など聞こえるのだろうか。外の通りからの声なら、たまに聞こえてくることはあるが、小島家から声が聞こえてきたことなど一度もない。老夫婦の二人暮らしだからか。しかし、同じ年頃の子どもがいる、向かいの高橋たかはし家からも声が聞こえてきたことはない。いくらよくできると評判の子どもたちだって、年頃なのだから、音楽くらいは聴くだろうし、テレビだって見るはずだ。そもそも、わが家ならともかく、小島家は隣家の騒音が気になるような安っぽいつくりにはなっていないはず。
 やはり、チョコレートを届けてくれただけなのだろうか。
 だとしたら、ゴキブリなどと、恥ずかしいことを言ってしまった。
 前に住んでいたボロアパートならともかく、築三年目の住宅にゴキブリが出るはずもないし、出たとすれば、メーカーの担当者に即クレームの電話だ。
 さと子は誰かに言いふらすだろうか。
 遠藤さんのお宅にはゴキブリが出るんですって。まあ、イヤだわ。
 本当にイヤだ。
 二階に上がる気力も失せ、リビングに戻った。テレビもエアコンもつけっぱなしだ。物入れの引き出しから、家計簿と電卓を取り出し、テーブルに置く。
 さと子はもう帰っただろうか。
 通りに面した窓を十センチほど開けると、生ぬるい風が薄いコットンのカーテンをわずかに揺らした。カーテンを閉めたまま窓を全開にする。エアコンを切ってテーブルに戻ると、電卓片手に家計簿の記入をはじめた。
 今夜は風があって過ごしやすい。

 

『夜行観覧車』は全3回で連日公開予定