午後十時十分──。
どこからか、甲高い女の叫び声が聞こえた。
『やめて!』
テレビ画面に目を向ける。十時のドキュメンタリー番組では、長い闘病生活から復帰したベテラン俳優が命の重さについて語り、会場はわざとらしいくらい静まりかえっている。
『助けて!』
天井に目を向けた。彩花がドラマでも見ているのだろうか。少し音が大きいような気がするが、わざわざ二階の部屋まで注意をしに行く気にはなれない。
『誰か!』
違う。これはテレビの音ではない。音量を下げてみる。叫び声や物音は、窓の外から聞こえてくるようだ。
ゆっくりと腰をずらして椅子から降りると、かがんだ姿勢のまま、足音を潜めて窓辺に寄った。人差し指でカーテンを少しだけひっかけ、外の様子を窺ってみる。
お飾り程度のフェンス越しに見える、外灯に照らされた通りに人の気配はない。
『やめて、お願い!』
声はどこかの建物の中から響いているようだ。カーテンから指を外す。
泥棒だろうか。警察に通報した方がよいのだろうか。しかし、早とちりだと困る。
迷っていると今度は、ドシン、と鈍い音が響いた。
誰か他に気付いている人はいないのだろうか。この時間なら、留守にしている家の方が少ないはずだ。もしかすると、誰かがもう通報したかもしれない。
『許して!』
両手で耳をふさぐ。身をかがめたまま、なるべく音をたてないように窓辺を離れると、駆け足でリビングを抜け、階段を上がっていった。
奥の部屋のドアを開けると、冷凍庫を開けたような冷気が流れ出してくる。
「勝手に入ってくるな! まだ、何か用があんの?」
散らかったままのラグの上に、だらしなく寝転がり、テレビを見ていた彩花が機嫌悪そうに振り返った。画面には、お笑い芸人が映っている。それほど音量は高くない。
「だって、大変なことになってるじゃない」
ドアを閉めると、声を潜めて言った。
「何が?」冷めた声で返される。
そういえば、この部屋では外からの騒ぎが聞こえない。いや、神経を集中させると、わずかに聞こえる。
ラグの上に放り出されたリモコンを取り、テレビの音量を下げる。腰をかがめてゆっくりと窓辺に寄り、ほんの少しカーテンをずらして、音をたてないように鍵を外す。
十センチほど窓を開けた。
「ちょっと、なにしてんの……」
からだを起こし、声を張り上げかけた彩花も、窓に目を向けた。
『うぉー』と雄叫びのような男の声が響きわたり、『助けて!』と女の声が続く。
一階にいたときよりも、大きくはっきりと聞こえる。
「ほら、ね。大変なことになってるでしょ」
二人で外に目を向ける……が、彩花がすっと立ち上がり、窓を閉めた。鍵をかけ、カーテンを隙間なく合わせる。テレビの音量が上げられた。
「ヘンなカッコ。ほっとけば? 向かいからでしょ、あれ」
そう言われ、ようやく気が付いた。叫び声は、向かいの高橋家の主婦、淳子のものだ。
どうしてすぐに気付かなかったのだろう。いや、当然だ。今までそんなもの、聞いたことがなかったのだから。あの、おっとりした奥様がこんな声を出すなんて。それこそ、ただごとではないのではないか。
「でも、もし、泥棒だったらどうするの? 叫び声を上げたのに、隣近所の皆さんは誰も助けてくれませんでした、なんてことになったら……」
「大丈夫。アーとかオーとか叫んでるのって、タカボンじゃん。ただの親子げんかだよ」
確かに冷静になれば、男の声は高橋家の息子、慎司のものだとわかる。しかし、彼もまた、そんな声を出すような子ではない。
「だって、それでもちょっと、おかしいわよ」
「やめなって。他人の家のもめ事に首突っ込むような、みっともないマネしないでよ。あんたがでしゃばらなくても、そろそろラメポが行くんじゃないの? ほんっと、オバサンは無神経なんだから」
「そんな言い方しないの。小島さん、いつも親切にしてくれてるじゃない」
「どうだか。ニコニコしてるわりには、目が笑ってないんだよね、あのオバサン。なんか、よそんちのこと探ってやろうって感じ? さっきみたいにね。ったく、どんな噂が立つんだか」
彩花は鼻先で笑うと、真弓に背を向け、寝転んだ。
噂……。
窓の横、ポスターの残骸が垂れ下がり、がらんとむき出しになった壁を見る。
薄いピンクのチェックの壁紙。少し高いけれど、彩花が気に入ったのなら、これにしようか。その代わり、汚したり傷付けたりしないこと。そんな約束をして選んだはずだった。
無数に走る、引っ掻き傷……。
向かいの家からの声について考えるのは、やめることにした。良かれと思い、勇気を出してとった行動が、相手のプライドを傷つけてしまうかもしれない。それどころか、お宅なんてしょっちゅうじゃないですか、などと言われてしまえば、逆にこちらが恥をかかされることになる。
「早く、お風呂に入るのよ。ママのあとはイヤなんでしょ」
彩花の部屋を出て、下に降りた。家計簿を広げたままのダイニングテーブルに着く。
『お願い! もうやめて!』
まだ聞こえる。やめてほしいのはこちらの方だ。両耳をふさぐように、頭を抱え込んだ。
わが家の声はこんなふうに聞こえていたのか。
窓を閉めておこう。今さらながらに思い立つ。
『許して、許してちょうだい!』
悲鳴が涙声に変わった。何も聞こえなかったことにしよう。淳子に会っても、大丈夫でしたか? などと声をかけてはいけない。うるさくしてごめんなさいね、と言われたとしても、何のことかしら、とシラを切ろう。それがここで円満に生活していくための、礼儀というものだ。
泥棒でないのなら、隠れる必要はない。まっすぐ窓辺に向かい、窓に手をかけた。片側のカーテンを開け、今度は向かいの家に焦点を合わせて様子を窺う。だが、高い塀に囲まれた高橋家の様子は、せいぜい二階の部屋に灯りがともっているかどうか、ということくらいしかわからない。
二階の奥の部屋には灯りがともっている。しかし、これはいつものことだ。夜中の二時頃、トイレに起きたときに、ともっているのを見かけたことも何度かある。比奈子か、慎司、どちらかの勉強部屋なのだろう。姉は大学までエスカレーター式の私立の女子校に通っているから、弟の方かもしれない。
それよりも──やはり、余計なことをしなくてよかった。高橋家のガレージに、車が停まっていた。わが家の車の一・五倍はあるのではないかと思う、ピカピカに磨かれた紺色の外国製の高級車だ。淳子は、自動車の免許を持っていない、と言っていた。大学病院に勤務する医者である、主人の弘幸が通勤に使っているらしく、昼間ガレージはからっぽだ。
いくら親子げんかがエスカレートしても、父親がいれば大丈夫だろう……か?
いや、啓介と一緒にしてはいけない。わが家はあてにならないけれど、高橋家なら大丈夫だ。あまり話したことはないけれど、見るからに威厳がありそうなあの父親なら、子どもも反抗しないはず。それに、比奈子や慎司にしても、彩花に比べれば何倍もものわかりがいいはずだ。癇癪なんて、起こしたこともないのだろう。
引っ越してきた当初、真弓は淳子と顔を合わせるたびに、高橋家の子どもたちのことを褒めた。
優秀な学校に通ってらっしゃるんですね。礼儀正しいですね。すらっと背が高くてうらやましいわ。
それに対する淳子の答えは、いつも決まっていた。
あら、そんな、嬉しいわ。
続きを待ってみるが、それで終わり。褒められたら褒め返すというのが、礼儀ではないのか。子どもを褒めることなど、挨拶のようなものだ。挨拶をされれば挨拶を返す。だが、返ってくるのは、まったく謙遜のない満ち足りた笑顔だけ。
よほどの親バカか。いや、彩花に褒めるところがないのだ。
自分の子どもがよその子よりも優れている、ということを信じて疑っていないのだ。
自慢の子ども。幸せな家庭。
そんな家の親子げんかを真弓が仲裁。それこそ物笑いの種だ。
静かに窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。音が途切れる。
外から飛び込んできた問題の解決策はあっけない。窓なんか開けなければよかったのだ。
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