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「待て待て、なんだよ自家製デミグラスって!」
 図らずも沈黙で感想を伝えてしまった中園が、我に返ってみついた。
「うちのオムライスは六百八十円。完全に足が出るだろう!」
「そのぶんはもちろん、価格に反映させます」
「は、値上げするってこと? いくら」
「千二百円くらいが妥当かと」
たけぇよ!」
 マルヨシ百貨店の大食堂は、ボリュームたっぷりでお手頃価格。そのコンセプトでずっとやってきた。そこまでの値上げはさすがに、常連客の足が遠のく理由になる。
「でもそのぶん、美味しいものが食べられるんだから」
「いやいや、高くてうまいものが食べたい客は、大食堂には来ねぇの。ここはチープな旨さを求める奴らが来るところなの!」
「だけど私は、社長に──」
「そんなに好き勝手やりてぇんなら、自分で身銭切って店出せや!」
 中園に凄まれて、智子がはじめて言葉に詰まった。えぐられたくない傷でもあったのか、唇を噛み、眉を寄せる。ほんの一瞬の表情だったが、中園を狼狽うろたえさせるには充分だった。
「えっと。マネージャー、なんか言って!」
 苦しいときの、マネージャー頼み。中園こそ、今にも泣きだしそうな顔になっている。
 美由起はすっかり空になった皿にスプーンを置き、口元を指で拭った。
「ごちそうさまです。本当に美味しかった」
「いや、完食してるじゃないっすか!」
 智子の経歴は、伊達ではない。料理の腕はたしかだと、このひと皿でよく分かった。
 それでもひと晩考えて、自分なりに軸を定めてきたのだ。なにを食べさせられても、ぶれるつもりはない。
「ですがお値段据え置き、ラッピングタイプのケチャップソース。うちのオムライスは、それでいきます」
 もしも智子が本当に若社長から食堂の全権を預けられているのなら、刃向かわないのが利口なのかもしれない。食堂部門で再出発どころか、今度こそ降格処分になることもあり得る。
 それでもこのひと月、美由起なりに大食堂のことを考えてきたのだ。黙って引き下がるわけにはいかない。大食堂の存続が危ぶまれているなら、なおのことだ。
「うちの売りはあくまでも、『昭和レトロ』ですから」
「あなたまだ、そんなことを」
 自信満々に宣言した美由起に、智子が軽蔑の眼差しを向けてくる。いいかげんにしてちょうだいとその目が物語っている。
「分かります。前場さんは『古臭い』のが嫌なんでしょ。ですからここに、『昭和レトロ』の定義を打ち立てます。一つ、昭和らしいもの」
 美由起はそう言って、右手の人差し指を立てた。
 続いて、中指。
「二つ、ノスタルジーを感じるもの」
「三つ目」最後に薬指を立て、問答無用に言い放つ。
「可愛らしいもの!」
 三本指を突きつけられて、智子と中園が揃って腑抜けた顔になる。気持ちは分かるが、美由起は正気だ。
「可愛い?」呟いてから、智子が額を押さえて首を振る。
「言っていることが、分からないわ」
「私ではなく、小五の娘の意見です。ラッピングタイプのオムライスは『可愛い』そうです」
「ああ、うん。俺、なんか分かるかも」
 驚いたことに、小五女子の感性に寄り添ってきたのは中園だった。
「たしかに可愛いすよね。お腹のところがぽこんとして、そこにちょうど毛布を掛けるみたいに赤いケチャップが載っかってて。絵心なくても黄色と赤のマジックさえあれば描けちゃう感じ、最高に可愛いっす」
 適当に話を合わせている様子ではない。奥二重の鋭い目で、真剣にオムライスの魅力を語っている。
 中園ほどオムライスの「可愛さ」を理解できている気がしないが、美由起は「そうなのよ!」と尻馬に乗った。
「しかもラッピングオムライスって、素人が作ってもそんなに可愛くならないの」
「そうっすね。ころんとした形が作れない」
「だから家庭でも、カバータイプが主流になってるんだって」
「へぇ、時代だなぁ」
 茶番はこのくらいで充分だ。美由起は表情をあらためて、智子に向き直る。
「ですから前場さん、ケチャップソースの、最高に美味しいラッピングオムライスを作ってくれませんか?」
 智子の料理人としての腕と、できるかぎり美味しいものを提供したいという熱意は買う。あとはこちらのコンセプトにうまくはまりさえすれば、反目せずにやっていけるのではないだろうか。そんな期待を込めて、返事を待った。
「どうして、私が」
「まさか、作れないわけじゃないでしょう?」
「いや、無理なんじゃないすか。ラッピングのほうが技術がいりますもん」
 中園にまであおられて、智子は首まで赤くなった。折り返している厨房服の袖をさらにまくり上げ、卵を二つ片手に掴む。
「いい? 今のうちに『すみませんでした』と謝る準備をしておきなさい!」
 なんだか格好いい。智子はもう、プロの眼差しで卵をかき混ぜはじめている。
 込み上げてくる笑いを噛み殺しながら、美由起はこの人のこと、そんなに嫌いじゃないかもしれないと思い直していた。



 プロの料理人というのは、作る姿も鑑賞に値する。
 たとえば舞いの名手のように、無駄な動作が一切ない。菜箸も使わずフライパンの上で卵がかき混ぜられてゆく様をもう一度目の当たりにして、美由起は感嘆のため息をつく。
 ここまでの手順は、さっきと同じだ。さて問題は、この後である。
 智子はまだ半熟すぎるのではないかと思われる段階でフライパンを揺するのをやめ、残っていたチキンライスを卵の向こう側半分に載せた。
 あとは神業だ。フライパンの底を五徳に軽く打ちつけてから、握った拳で柄をトントンと叩いて卵を巻いてゆく。まるでオムライスがひとりでに躍って形をなしてゆくみたいだ。思わず「おおお!」と称賛の声が洩れる。
「お皿!」
「あ、はい!」
 短く指示が飛び、慌てて皿を差し出した。フライパンからオムライスが飛び出し、その上にポンと載る。
「うわぁ!」
 なんて綺麗なオムライス。大食堂のショーケースに貼りついてメニューを選んでいた、子供時代のときめきがよみがえる。
 智子はあっという間にもう一つを作り上げると、「このくらいはいいでしょう」と言ってフライパンに赤ワインを注いだ。それを火にかけてアルコールを飛ばし、ケチャップを入れて延ばしてゆく。
 従来よりも赤みの深いソースがぱつんと張ったオムライスのお腹にかけられて、ますます食欲をそそる色味になった。
「どう。特別なものは使っていないわよ」
 見ていたから知っている。まるで魔法のようだった。
 中園もまた、焼きムラのないきめ細かな卵の表面に見入っている。レシピの変更は、ソースに入った赤ワインくらいのもの。それなのに、いつものオムライスとは見た目から違っていた。
「いただきます」
 スプーンを入れるのももったいないが、食べてみないとはじまらない。覚悟を決めてひと口分を崩し、?張ってから美由起は目を見開いた。
「んー!」
 もはや言葉にならない。
 個人的な好みとしては、カバータイプに軍配が上がると思っていた。でももしかしたら、本当に美味しいラッピングオムライスを食べたことがなかっただけなのかもしれない。
「美味しい! こちらのほうがチキンライスに半熟の卵がとろとろ絡んで、一体感がありますね」
 カバータイプの場合、ライスと接するのはフライパンで焼かれた面だ。その点ラッピングだと、半熟の側でライスを包む。半熟卵と米の親和性の高さは、もはや言うまでもない。オムライスが米料理であることを考えると、こちらのほうが正しい形のように思えてくる。
「これのどこに古臭さがあるっていうんですか。レトロな見た目を残しつつ、現代人の舌もうならせる。最高のオムライスですよ!」
 なによりお値段も据え置きにできる。美由起はすっかり興奮し、二つ目にもかかわらずぺろりと平らげてしまった。
「そうまで言ってもらえると、料理人冥利につきるわね」
 智子もまた、美由起の惜しみない賛辞に気をよくしている。ならばもうひと押しだ。
「これをオムライスリニューアル! とうたって売り出しましょう。同じラッピングタイプでもこんなに違うなら、お客様にとっても新鮮な驚きがあるはずです」
 もしかして、智子にならできるんじゃないだろうか。輝きを忘れたこの大食堂に、魔法をかけ直すことが。ただの懐古趣味に終わらない、幅広い世代から愛される店にしていけば、きっと売り上げもついてくる。
「そうかもね。べつに私も、カバータイプに特別な思い入れがあるわけではないし」
 よし、言質は取った。この大食堂を、どこのデパートにでもあるテナントになど渡すものか。
 仕事にやり甲斐を覚えるのは久し振りだ。この、指の先にまでどくどくと血が通っている感覚。視界までがクリアで、多少無理をしても疲れる気がしない。そうだ自分は元々、百貨店の仕事が好きだったのだ。
 考えていたことが予想以上にうまくいって、美由起は舞い上がっていたのだろう。皿の上にスプーンが放り出されるカランという音に、はっと現実に引き戻された。
 空になった皿を手に、中園が神妙な面持ちで立ちつくしている。
 しまった、はしゃぎすぎた。中園にだって、料理人としてのプライドがあるはずなのに。長年にわたり大食堂を支え続けてくれた相手に対して、あんまりな仕打ちである。
 かといって、「ごめん」と謝るのもおかしなことになりそうだ。美由起は気まずさを押し隠し、中園の言葉を待った。
「めちゃくちゃ、旨かった」
 悔しさの滲んだ声だった。それでも中園は、負けを認めた。
「これに比べりゃ俺のオムライスなんて、卵に火が通りすぎてて米と全然馴染んでねぇ。同じ材料でこんなもん作られたら、これからどうすりゃいいんすか」
 いつもはよくも悪くも騒がしいのに、驚くほど覇気がない。料理人としてのプライドどころか、心までへし折られている。
「中学んとき鬼怖おにこえぇ先輩にシメられて、まぶた縫い合わされそうになったとき以来の絶望っす」
 物騒な過去の記憶まで垂れ流しにして、中園はゆっくりとした動作で皿をシンクに置いた。まるで引退をする歌手が、マイクをステージにそっと置くかのように。
「は、アンタなに言ってんのよ」
 傷心の中園にも、智子は容赦がない。鼻先でハッと笑い、手近にあった木べらを突きつけた。
「これからどうすりゃって、決まってるでしょ。一刻も早く、さっきのオムライスを作れるようになりなさいよ」
 もっと、こてんぱんに言い負かすつもりなのかと思った。中園も、目と口をまん丸にして智子を見つめ返している。
「なによ、その顔。アンタ副料理長でしょう。私以外に誰も作れないんじゃ困るじゃないの」
「あれを俺も、作れるようになるんすか」
「あたりまえでしょう。作れるまで朝晩特訓するから」
「──あねさん」
「やめて。気持ち悪い呼びかたしないで」
 美由起はこわっていた肩をほっと緩めた。最悪の場合、へそを曲げた中園が食堂を辞めると言いだすのではと危ぶんでいた。
 悔しくてたまらないのに負けを認めることができるのは、これから伸びてゆく人間の大事な資質だ。中園ならば、智子の技術を自分のものにしようと、必死に食らいついてゆくに違いなかった。

「おはようございまーす。あれっ、どうしたんですか。三人とも早いですね」
 和食部門のスタッフが、厨房服の前を留めながら出勤してきた。もうワンサイズ大きいのを支給してやらないと、腹回りがきつそうだ。
 時計を見れば、早くも営業一時間前になっている。早出スタッフが続々と、「おはようございます」と集まってきた。
「えっ、オムライス? 試食会やってたんですか。なんだぁ、俺にも声かけてくださいよぉ」
「リニューアルですか。どんなふうに?」
「いつからですか?」
 一時はどうなることかと思ったが、新体制でもやっていける自信が湧いてきた。メニューのてこ入れは、厨房スタッフの技術力向上にも繋がる。
「そうね。ひとまずリニューアル開始日を決めて、その日に向けて洋食部門を鍛えていきましょうか」
 智子が美由起に、今後の流れについて伺いを立ててくる。勝手に話を進めていた昨日までとは打って変わって、少しは認めてくれたのだろうか。
「ええ、告知はこちらで進めていきます。キャンペーン用の予算が下りるかもしれませんので、申請しておきますね」
 一気に慌ただしくなった厨房に、いつまでも立っていては邪魔になる。美由起はホールに出て、スマホに今後のタスクを打ち込んでゆく。
「リニューアルまでの猶予は、ひと月ほどあれば足りますか?」
「いいえ。全員の足並みが揃うのを待たなくても、副料理長さえマスターしてくれればオーダーは回せるでしょう。その半分で」
「かしこまりました」
 カウンター越しに中園が「えっ、半月?」と声を裏返らせるのが聞こえてきたが、黙殺する。根性だけは見上げたものだから、意地でも間に合わせてくるだろう。
「今調べてみたら、毎月五日をたまごの日と定めているところがありますね」
「へえ、どうして?」
「〇五で、タマ・ゴらしいです」
「いいわね。じゃあリニューアルは六月五日で」
「無理矢理じゃないすか!」
 その日までに、美由起サイドも急ピッチで仕事を進めなければ。忙しくなるが、この三人が息を合わせれば、もっと面白いことができる気がしてきた。
「それが落ち着いたら、次のてこ入れはハンバーグかしら。今って既製のデミグラスソースなのよね?」
「いやアンタ、まだ言ってんのかよ。自家製は無理なんだよ!」
 ただし、息はめったに合わないものとする。

 

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