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 職場から自転車で約十分。観光の中心地である蔵造りの町並みは、日中は人も車も多くて走行しづらいが、この時間なら真っ直ぐに突っ切れる。
 美由起はこめかみに汗を浮かべつつ、二階建てのアパートの階段を駆け上がり、突き当たりの部屋のドアに取りついた。
「ごめん、遅くなった!」
 靴を揃えるのは後回しにしてダイニングに駆け込むと、テーブルセットの椅子に立て膝で座っていたづきが顔を上げる。手元には漢字ドリルが広げられており、宿題を片づけていたようだ。
「ごめん、本当にごめんね。すぐご飯にするね」
 時計を見れば、すでに八時半だ。さぞかしお腹を空かせていることだろう。できるかぎり十時には布団に入れてやりたいのに、風呂の時間を考えるとちっとも余裕がない。
「いいよ、そんなに焦んなくても。また自転車かっ飛ばしてきたんでしょ。危ないからやめてって言ってんのに」
 この春から小学五年生になった美月は、もういっぱしの口を利く。息を切らしている美由起に、説教までするくらいだ。
 勉強の邪魔になるのか、前髪をリボンつきのゴムで留めてあり、可愛らしい。美由起はおでこが狭いから、すっきりとした額は別れた夫譲りだろう。近ごろ妙に、大人びた表情をするようになった。
「ご飯だって、カレーくらいなら私も作れるのにさ」
「それはダメ!」
「分かってるよ。ママのいないときに包丁とガスは使うな、でしょ」
 二人で暮らしてゆくことになった四年前に、取り決めた約束だ。五年生なら許可しても大丈夫なのかもしれないが、心配が先に立ってやめどきが分からない。それに自分が働くことで、娘に負担をかけたくないという後ろめたい気持ちもあった。
「分かってるじゃない。偉い、偉い」
 職場のロッカーで、スーツから普段着に着替えてきた。美由起はハンドソープで手を洗い、椅子の背にかけてあったエプロンを身に着ける。疲れていても、座ってひと休みをする暇はない。
「今日はなにしてたの?」
「べつに。普通に帰って、マンガ読んで宿題してた」
「そっか」
 美月は三月まで学童に通っていたのだが、定員オーバーの際には下の学年が優先される。それと本人の希望もあり、今年度からやめることになった。新しい指導員の先生が協調性を重んじるタイプで、仲間から外れて一人本やマンガを読んでいたい美月とは合わなかったらしい。
「よかった、清々せいせいした」と美月は喜んでいるものの、親としては放課後の長い時間をどう過ごしているのか、見えないだけに気がかりだ。このくらいの年ごろから、子供は大人に嘘をつくのがうまくなる。
「あと、溜まってた洗濯物やっといた」
「えっ。ありがとう」
「体操着洗いたかったから、ついで」
 実のところ、家事はあまり得意じゃない。帰ったらすぐに洗濯機を回そうと思っていたのに、忘れていた。母親がそんなだから、美月は自分にできることを探してやろうとする。嘘をついているかもしれないと疑ってしまったのが申し訳ないくらいの、いい子だった。
「手伝う?」
「ううん。下準備はもうできてるから、宿題やっちゃいなさい」
「はぁい。ご飯なに?」
 職場であんなことがあるとは思わずに、朝のうちにしたごしらえをしてしまった。柔軟にメニューを変えられるほど、美由起は料理ができるわけでもない。
 流しの下から取り出したボウルに卵を割り入れながら、背中で答える。
「──オムライス」

 帰宅後の調理時間短縮のため、チキンライスはフライパンで炒めるのではなく、炊飯器で炊き込んである。不器用な美由起にはこのほうが、ライスがべちゃっとしなくていい。あとは卵で包むか載せるかするだけなので、フライパンが一つしかなくても問題はない。
「包むやつは難しいからね。無理しないでね」
 母の料理の腕前をよく知る美月が、宿題の手を止めて気遣ってくる。
「うん、分かってる」
 卵料理はもたもたしてはいけない。先に皿を二枚出し、チキンライスを形よく盛りつけておく。その間にフライパンを熱しておき、バターを溶かして割りほぐした二個分の卵液を一気に──。
「ああっ!」
 しまった、フライパンを熱しすぎた。端からみるみる固まってゆき、慌ててゴムべらで混ぜ返す。その結果、出来上がったのは火を通しすぎたスクランブルエッグだ。
「大丈夫、大丈夫。こっちはママが食べるから」
 熱くなったフライパンをいったん濡れ布巾の上に置いて冷まし、再挑戦。半熟状態になるよう、ゴムべらで絶えず掻き回す。
 よし、そろそろいいんじゃないか。あとはフライパンの上を滑らせて、卵をライスに移すだけ。それなのに、思うように滑ってくれない。
 そういえば、卵を入れる前にバターをひき直すのを忘れた。そのせいで、フライパンに貼りついてしまったのだ。
 舌打ちしたい衝動をこらえてフライ返しを手に取り、卵を引き剥がしにかかる。
「あああっ!」
 盛大に破れた。けっきょくまた、スクランブルエッグができてしまった。
「ママ、落ち込まないで。ケチャップかければきっと美味しいよ」
 流しの縁に手をついてうなだれていると、美月が近寄ってきて背中を撫でてくれた。なにも言われなくてもテーブルの上を片づけて、台布巾で拭いている。母親が不甲斐ふがいないせいで、この子には余計な気遣いをさせてばかりだ。
 元夫と別れたときも、慰めてくれたのはまだ幼かった美月だった。正確に言えば、離婚したことを実母に責められたときである。
「まったくアンタは堪え性がないんだから。男の浮気なんて、犬が電信柱にオシッコするみたいなものじゃない。しかも今回がはじめてだったんでしょ。許してやんなさいよ。まだ小さいのに母子家庭になっちゃって、美月ちゃんが可哀想よ」
 そうなのだろうか。美由起さえ我慢すれば済む話だったのか。
 仕事をしながら苦手な家事と子育てをこなし、自分の時間などまったくなかった。そんな中でも元夫は飲み会や趣味の映画鑑賞に費やす時間があり、B級映画コミュニティで知り合った女子大生とよろしくやっていた。
 いったい、なにから許せというのだろう。家庭を壊すようなことをしでかしたのは向こうなのだ。「子供のため」に、卑屈になるなんてできなかった。
 元夫の仕打ちよりも、実母の追い打ちが胸に刺さり、涙が出てきた。子供がいる前で無神経な話をされたことも、悔しくてしょうがなかった。
 実家からの帰り道、堪えきれずはなすすりながら歩いていると、手を繋いでいた美月がきゅっと握り返してくれた。
「みづき、かわいそうじゃないよ。ママがいるから、へいきよ」
 本当は、パパがいなくなって寂しかったに違いないのに。美由起を悲しませないようにと、自分の感情は後回しにしてしまう。そんな健気な娘のために、オムライスひとつ満足に作ってやれない母親だ。
 遣り切れなさを抱えつつ、食卓にオムライスもどきとレタスのサラダ、昨日の残り物の味噌汁を並べてゆく。美月がケチャップでハートを描いてくれたから、少しは美味しそうな見た目になった。
「意外に難しいよね、オムライス。私もこの間、調理実習でやったよ。包むタイプだった。うまくできなくて破れたけどさ」
「あ、そうなんだ」
 五年生からは、家庭科の授業がはじまる。そういえば先月、卵がいるから買っといてと言われたことがあった。
「それでさっき、包むやつは難しいって言ってたのね」
 オムライスもどきは卵とライスの親和性こそないものの、不味いというほどでもない。「いただきます」を言ってから、互いに食べ進めてゆく。
「クラスの中でも、包んだやつ食べるのはじめてって子、けっこういてさぁ」
「えっ、そうなの?」
 昭和生まれの美由起が子供だったころは、オムライスといえばラッピングタイプしか思い浮かばなかった。家庭で食べるときも、薄焼き卵に包まれて出てきたはずだ。
「載せるだけのほうが簡単だから、そうしてるママが多いみたい。お店でもあんまり、包むやつ見ないもんね」
 言われてみれば、いつの間にか外食で見かけるのもカバータイプが主流になっている。今どきの子供たちは、意外にラグビーボール形のオムライスに馴染みがないのかもしれない。
「あれっ、美月ももしかして」
「ううん、マルヨシで食べたじゃん。三年のとき」
「そうだっけ」
 買いたいものがあれば休憩時間に済ませてしまうため、親子でマルヨシに行くことはあまりない。子供服も百貨店はどうしても高く、量販店に頼っていた。
「あれって不思議だよね。はじめて食べても、なんか懐かしい気がするんだよ」
「そういうもの?」
「うん。あと、可愛い」
「可愛い?」
 斬新な意見だった。美由起はスプーンをくわえたまま、目を瞬く。
「たとえばさ、オムライスのキーホルダーを作るとしてさ、包むタイプのほうがころんとしてんじゃん。可愛いじゃん」
 その感覚はよく分からないが、なるほど「え」かとに落ちる。今の子はSNSが大好きだから、流行の食べ物もフォトジェニックに寄りがちだ。
「なるほど、あれは『可愛い』なのね」
 アラフォーの智子や美由起にとってはなんの変哲もないオムライスでも、世代が違えばこうも見えかたが変わる。ならば従来のやりかたを「古臭い」と切り捨ててしまうようなてこ入れは、妥当なのだろうか。
 智子の方針をそのまま受け入れては、これまで大事にしてきた古き良きものが失われて、離れていく客だっているだろう。それでも時代に合わせて変わっていかなければならないという、彼女の言い分も理解はできる。
 古いものの魅力と、新しい感性。それらをうまく融合させることは、可能だろうか。難しく思えるが、目の前の美月が喜びそうなことを考えるところからはじめてもいいかもしれない。そう思うと、なんだかやる気が出てきた。
「うん、なんとなく分かった。さすが美月、最高!」
「なにそれ。意味分かんない」
 出し抜けに手を叩いて喜びだした母親に、美月が不審の目を向けてくる。だがまんざらでもなさそうに、唇の端がひくりと吊り上がるのが愛おしかった。



「なんだよアンタ、勝手に厨房に入ってんじゃねぇよ!」
「言っている意味が分からないわ。料理長が厨房に入らないで、どうやって仕事をするの」
「だから、認めてねぇって言ってんだよ!」
 約束の営業二時間前に出勤してみると、早くも中園と智子が厨房でやり合っていた。甘くて香ばしい香りが漂っているのは、智子がチキンライスを炒めているからだ。
 見とれるほど手際がよく、米の一粒一粒にケチャップがまんべんなく絡んでゆく。そういえば掃除機がけを優先したせいで、朝ご飯を食べそびれた。鳴りそうになるお腹を押さえつつ、カウンター越しに声をかける。
「おはようございます。なにをしているんですか」
 朝一で話し合いをするはずが、実力行使に出ているではないか。智子は手元に目を落としたまま、チキンライスを仕上げてゆく。
「おはようございます。あれこれ言うより、食べてもらったほうが早いと思って」
 強引な女だ。けれどもフライパンを揺する手つきひとつ取ってもたしかな修業の跡が窺えて、胃袋が期待の声を上げてしまう。
 タイル張りの厨房の床は水を流した後なのか濡れており、パンプスでは歩きづらい。それでもカウンターを挟んでのやりとりはまだるっこしく、美由起は意を決して中に踏み込んだ。
「具はあえて、現状のレシピのままにしてみました」
 ということは、鶏胸肉、タマネギのみじん切り、マッシュルームだ。仕上がったチキンライスを二枚の皿に盛り、智子は卵に手を伸ばす。
 卵は一人につき二つ。泡立て器でしっかりと混ぜ、ざるしてカラザを取り除く。そのひと手間に目を瞠り、文句を言っていた中園もひとまずは口を閉じた。
 バターはたっぷり。フライパンに卵液を流し入れるとたちまちじゅわっと音を立てて膨らむ。智子の右手には菜箸が握られているものの、左手でフライパンを揺するだけで中身が流動し、かき混ぜられたようになってゆく。表面がつやつや、ぷるぷるの半熟状態になったら、なんの苦もなくつるりと移動し、卵がライス全体を覆い隠した。
 その上から、小鍋で温めていたデミグラスソースをかける。市販品とは違う、深い黒褐色をしている。
「ソースは自宅で作ってきました」
 ほどよく煮詰められたソースのほうじゆんな香りに、じゅるりと唾が湧いてくる。試食用として小さめに作ったようだが、正規のサイズで食べたいくらいだ。
「どうぞ、大食堂の新オムライスです」
「いや、『新』じゃねぇし!」
 悪態をつきつつも、中園が真っ先に皿をひったくる。悔し紛れに大口を開けてオムライスを頬張り、そのまま眉を寄せて黙ってしまった。
「美味しい!」
 代わりに声を上げたのは、美由起である。半熟の卵とやや苦みのあるデミグラスソースが絶妙に絡み、舌の上でとろけてゆく。従来のレシピ通りだというライスは口に入れるとほろほろとほぐれ、かといってパサついているわけでもない。
 銀座あたりの、老舗洋食店で出てきてもおかしくはない味だ。少なくとも、昔ながらの百貨店の大食堂で食べられるクオリティではない。
「でしょう」
 微笑む智子は満足げだ。はじめてこの人の、皮肉っぽくない笑顔を見た気がする。

 

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