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 大正ロマンの香りすら漂う老舗と、キラキラしいラグジュアリーホテル。ずいぶん華やかな道を歩んできたらしいのに、なぜこんなところに。
「待ってください。聞いてませんよ」
 中園が不満の声を上げ、美由起も「ええ」と同意する。
「私も、初耳です」
 前料理長の退職が二ヶ月前。それ以来ポストは空いていたが、副料理長の中園が引き継ぐものと思っていたし、厨房もそのつもりで回っていた。
 まだ三十四歳とはいえ、中園は高校時代のアルバイトからの叩き上げで、大食堂のメニューには誰よりも精通している。前料理長も、後継者とするつもりで育ててきたのだろう。でなければ厨房全部門の責任者を経験させた上で、副料理長に指名したりはしない。
「驚いたでしょう。僕が引き抜いてきたんだからね。感謝してね」
 創業一家の長男としてなに不自由なく育ったせいか、若社長は驚くほど自己肯定感が強い。不満の声すら、賛美に聞こえてしまうらしい。得意げに顎を反らしてみせた。
「そんなわけだから前場さん、よろしくね。分からないことがあったらこの二人に聞いて。それじゃ、今日も笑顔で頑張って」
 朝礼の締めの言葉を代わりに言うと、若社長は右手を上げて去ってゆく。「あの」と慌てて追いすがり、ショーケースの前で追いついた。
「ああ、そうだ。マネージャーには話しておかないとね」と、若社長が振り返る。
 通路の端に美由起を呼び、耳打ちをするように言う。
「このところ、百貨店の売り上げが芳しくないのは君も分かってるよね。ここだけの話だけど、最近じゃ役員達の間で、大食堂はやめにしてこのフロアをテナント貸しに切り替えようという声が挙がっているんだ」
「えっ」
 思わず叫んでしまった。まさか、大食堂がなくなるということか。
「もちろん、まだ決まったわけじゃないよ。残したいという声だって多いからね。けど、このまま売り上げが厳しい状態にしておくわけにはいかない。だから君たちのために、都会の一流のシェフに来てもらったんだ。この状況を改善するためにね」
 突然の通告はショックが大きく、目の前が暗くなる。売り上げの低迷は百貨店全体の問題だと思っていたが、まさか大食堂がそのような崖っぷちに立たされていたとは。
「まぁ、僕は味方だから安心して。頑張ってね」
 若社長は明るくそう言って美由起の肩を叩き、颯爽と行ってしまった。

「なんなんすか、あの女!」
 従業員出入り口から駐輪場に出たとたん、中園敦がめ込んでいた怒りをぶちまける。腹から絞り出された声は思いのほかよく響き、美由起は「まぁまぁ」とその肩を叩いた。
「いや、マネージャーだってムカついてるでしょ。今日一日の態度、何様ですか、あれ」
 悪い人ではないのだが、中園は直情傾向にある。昔はヤンキーだったらしく、額にり込みの跡が残っているが、そういうやからにかぎって変に純粋だったりする。
「うん、気持ちは分かるけど、声を落として」
 こんなふうにちゃんと言葉にしないと、相手の意図がみ取れないのはやっかいだ。
「すみません、つい」
 中園がしょんぼりと肩をすぼめる。
 気持ちは分かるのだ、本当に。美由起だって、戸惑っている。
 突如として現れた料理長、前場智子は不慣れな環境に萎縮するでもなく、「初日だから今日は、厨房の中を見させてもらうわ」と宣言し、腕を組んでじっとスタッフの働きを注視していた。無遠慮な視線を注がれて、厨房はさぞ仕事がしづらかったことだろう。
 そうやって一日を過ごし、営業時間もそろそろ終わろうというころ、智子は「だいたい分かった」と言いながら近づいてきた。そして「マネージャーに副料理長、この後ミーティングをしましょう」と、こちらの都合も聞かずに決めてしまったのである。
 他のスタッフを通常通りに帰してから、プラスチックのコップに水を注ぎ、智子と向き合うことになった。できるかぎり残業はしたくないが、この三人で今後の方針を擦り合わせておくのは、早いほうがいい。
 ところが智子は美由起や中園になにか質問するでもなく、一方的に宣言した。
「まずは洋食から、メニューのてこ入れをしていきます」
 人というのは、想定外の事態に弱い。美由起のみならず中園までが、自信に満ちた智子の顔をぽかんと眺める羽目になった。
「聞けばレシピは、創業当初からほとんど変わっていないんですってね」
「いいや、違う。ここの社屋に移ってからだ」
 最初の衝撃が去り、さすがに聞き捨てならないと、中園が口を挟んだ。そうだとしても、四十年以上は変えていないことになる。
「怠慢ね」
 智子は言葉を選ぶことなく、きっぱりと断じた。
「あんだと?」
 中園にすごまれても、動じない。涼しい顔で水をひと口飲んだ。
「伝統を守る老舗だって、時代と共にマイナーチェンジはしているものよ。舌の肥えた現代人に、満足してもらえるようにね。昔に比べれば今なんて、いくらでも美味しいものがあるんだから」
 今のレシピは先々代が開発し、前料理長から受け継いだものである。息子のように可愛がられてきたという中園が、先に繋ごうとしていた味だ。怠慢とまで言われては、黙っていられるはずがない。
「いやいや、ぽっと出がいきなりなに言ってんすか。この味が懐かしいって、長年通ってる常連さんもいますんでね」
「そう? 昨日食べたオムライス、ちっとも美味しくなかったけどね」
「てめぇ、ふざけんなよ!」
 よく我慢したほうだが、中園はついに椅子を蹴って立ち上がった。なにしろ昨日のオムライスを作ったのは、洋食部門チーフでもある彼である。
「はい、ストップ、ストップ。落ち着いて!」
 暴力沙汰はご免だ。美由起は智子の胸ぐらを掴みかねない中園の前に躍り出て、体で止めた。すぐに勢いを殺せたから、中園だって女性相手に本気で手を出すつもりはなかったのだろう。
 一方の智子はといえば、血相を変えた男を前にしても平然と座っている。それどころか名案とばかりに、手を打ち鳴らした。
「そうね、まずはオムライスからてこ入れをしていきましょう」
 いったいどういう神経をしているのだ。鼻息の荒い中園を背中で押さえながら、聞いてみる。
「あの、てこ入れをするにしても、伝統あるメニューをいきなりリニューアルするというのはどうなんでしょう」
 迫力のある智子の眼差まなざしが、美由起を捉える。危うく飲まれそうになったが、しっかりしろと己を鼓舞して先を続けた。
「うちは懐かしの大食堂としてグルメサイトに取り上げられたり、遠方からの観光客がレトロな雰囲気を求めて立ち寄ったりもします。そんな『古き良き』ところが魅力なのに、急にそれを捨ててしまっては、お客様も戸惑われるのではないでしょうか。まずは広報活動に力を入れたり、経費削減の見直しからはじめてみては──」
 語尾が尻すぼみになったのは、話の途中で智子がやれやれと、首を振ってみせたからだ。
「社長から、うちの売り上げデータは見させてもらったわ。順調に右肩下がりだったわね。このままでいいと、本気で思ってるの?」
 鮮やかな切り返しに、美由起はどきりと胸を押さえた。若社長の言っていた、大食堂の代わりにテナントを入れる可能性についても、もしかして彼女は聞かされているのか。その上での提案ならば、中園と一緒になって反対するのも躊躇ためらわれる。
「それにあなたの企画、『レトロな昭和の大食堂で食玩作り体験』だっけ。一時的に人を集められるかもしれないけれど、それだけよ。食堂なんだから、料理で勝負しなくてどうするの」
「なぜ、それを」
 上に提案して、ボツにされた企画まで智子は把握していた。呆然ぼうぜんとする美由起に向かって、頬を歪めて笑ってみせる。
「『古臭さ』を『昭和レトロ』と言い換えて、お粗末な料理の上に胡座あぐらをかかないで。私は料理人だから、あんな卵がぺらぺらのオムライスなんか人に出せない。いっそのこと、カバータイプに変更してはどうかしら。そちらのほうが人気があるでしょ」
 オムライスは、ざっくりと二種類に大別できる。昔ながらのライスを卵で包むラッピングと、卵で全体を覆うだけのカバーである。
 ふわとろのカバータイプが一般的になったのは、九〇年代後半のカフェブームからだろうか。当時高校生だった美由起も、オムライスの概念が変わったと思った。今でも個人的な好みで言えば、カバータイプに軍配が上がる。
 だけど、マルヨシ大食堂のオムライスは──。
 ぎりり。背後で中園が歯ぎしりをした。怒りを抑えた低い声で、問い詰める。
「てめぇに、なんの権限があるってんだよ」
「あるわよ。料理長権限が」
 智子は人の神経をさかでするのがうまい。しれっとした顔で応じた。
「社長には、好きなようにやっていいと言われてる。だから私は、ここに来たの」
  
 自転車の鍵を外し、歩道に出る。中園もヘルメットを右腕に掛け、二五〇ccのバイクを引いてきた。まだ愚痴をこぼし足りないようで、美由起の横に並んで立つ。
「俺はね、断固闘いますよ。勝負は明日っす。あんな横暴、他のスタッフだって許すはずないんすから」
 美由起があまり遅くまで残れないから、続きは明日の朝ということにして解散した。熱くなってしまった中園を落ち着かせたかったし、自分も頭を整理したかった。 
 だがこのぶんだと中園の怒りは、明日に持ち越しそうである。
「若社長も、なに考えてんすかね。よそで実績があったって、うちにはうちのやりかたがあるってのに」
「う~ん、そうねぇ」
 すぐそこの車道を、白いベンツが横切ってゆく。若社長の車だ。
 マルヨシ百貨店の経営は、楽観視できないところにきている。それでも若社長の羽振りがいいのは、前社長、つまり今の会長がはじめた郊外型の大型スーパーが好調だからだ。そのおかげで百貨店の収益が目減りしても、なんとか現状維持の経営を続けていられた。
 だから大食堂がなくなるかもしれないとは思いもよらず、美由起も異動を受け入れたのだ。新天地で再起を図ろうというときに、こんな問題が持ち上がるなんて。
 可能性を仄めかされただけの今の段階では、他の従業員にはなにも言えない。売り上げのために智子が呼ばれたのなら、彼女と従業員との間に軋轢が生じないようにするのが美由起の仕事だ。
「ともかく、これから一緒にやっていくわけだし。もう少ししっかり話をして──」
 白いベンツをなにげなく目で追っていて、気がついた。助手席に、若い女が座っている。
 あの女性は、たしか──。
「あっ、ああ! 白鷺しらさぎさん?」
 中園も気づいてしまったようだ。智子に凄んでいたのとは別人のような狼狽ろうばいぶりで、声を上擦らせる。
 ベンツはどんどん遠ざかり、交差点を左折して見えなくなった。だがあれはたしかに、白鷺カンナだった。
 マルヨシ百貨店の顔ともいえる、受付嬢だ。短大を出たばかりのハタチである。
「えっ、えっ、なんで?」
 入社当初から、可愛い子が入ったと男性社員が騒いでいた。ぱっちりとした夢見る瞳に、ピンクのチークが映える頬。さくらんぼ色の唇が奏でる声は、小鳥のさえずりのように愛らしい。小柄で思わず守ってあげたくなる風情があり、インフォメーションに配属されてからは常連客の中にも順調にファンを増やしている。
 中園も、ひそかに憧れていたくちなのだろう。残念なお知らせがありますと、美由起は胸の中で前置きをした。
「二人でよく、出かけているみたいですよ」
「つき合ってんの?」
「知りませんけど」
 カンナになにを期待していたか知らないが、毎朝髪を隙のない内巻きボブにブローしてくる女がただ純真なだけのはずはない。本当はそうとう計算高いのだろうと、同性ならばすぐに見抜く。だからカンナは女性社員からのウケが悪かった。
「だって若社長、奥さんも子供もいるじゃん!」
 中園の血を吐くような叫びに、美由起はうんざりとため息をつく。
 そう、若社長は既婚者だ。不倫をする男も相手の女も、まったくもって許しがたい。しかも従業員の目につくところで車に乗って去るなんて、脇が甘すぎるではないか。
 美由起が入社した十五年前、まだ社長室長という地位にあった彼は、陰で「若様」と呼ばれていた。いまだに「若」が取れないのは、こんなふうに腰が定まっていないせいだ。本人は見た目がいつまでも若々しいからと解釈しているらしいが、裏では「バカ社長」ともささやかれている。現場になんの相談もなくあんな癖の強い料理長を送り込んでくるあたり、やっぱりむちゃくちゃだと思う。
 マルヨシ百貨店は、そして大食堂は、この先どうなってしまうのか。
 急に現れた智子のことも、どこまで信用していいのか分からない。
 羅針盤も持たずに漕ぎ出した舟のように、美由起は不安な気持ちで揺れていた。

 

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