それはセピア色の記憶。
早くしなさいと急かされながら、うんと背伸びをしてショーケースに貼りつく。
ピンと反ったエビフライ、デミグラスソースのかかったハンバーグ、とろっとろのあんかけラーメン、真っ赤に染まったナポリタン、ウエハースの載ったアイスクリーム、夢が詰まったプリン・ア・ラ・モード。
どれもこれも魅力的で、目の前がチカチカする。
だけど、それでも──。
やっぱり、お腹がぱつんと張った黄色いオムライス!
好きねぇと呆れられながら、自分で券売機のボタンを押す。
出てくるのは魔法の切符。いい子にしていたご褒美に、ひとときの夢を見させてくれる。
あのころの大食堂には、まだ輝きが残っていた。
一
西側一面に取られた窓が、茜色に焼けた空をパノラマに映す。じわりじわりと夜の藍に侵食されつつ、残光は雲に未練を滲ませる。
この大食堂も、黄昏色。べつに夕暮れ時でなくとも、入り口に施されたオレンジ色のステンドグラスと電球色の照明、それから否応なしの斜陽感のためか、そう見える。
厨房とホールを仕切るカウンターの前に立ち、暮れゆく空に目を遣っていた瀬戸美由起は、「マネージャー」と声をかけられ、我に返った。黒いワンピースの制服を着たパートの女性が二人、こちらに頭を下げてくる。
「時間なので、お先に失礼します」
「ああ、はい。お疲れ様です」
三十八歳の美由起より、ベテランパートたちのほうがずいぶん歳上だ。それに食堂勤務歴も長い。この大食堂のマネージャーになってまだひと月という心許なさもあり、スタッフにはそれなりに気を遣う。美由起は帰ってゆく二人を満面の笑みで送り出した。
午後六時半のラストオーダーが過ぎ、人員はもはや少数でいい。ホールには美由起が残るのみ。厨房でも、まだ料理の提供がある洋食部門以外は後片づけに入っている。
「お願いしまーす」
副料理長の中園敦の声がして、カウンターに湯気の上がる皿が置かれた。出来たてのオムライス。昔ながらの、卵でチキンライスを包んだものだ。ラグビーボール形に膨らんだお腹のところが、真っ赤なケチャップソースに彩られている。
「はーい」
愛想よく返事をして、左手に載せたトレイに皿を置く。トレイは手のひらではなく指で持つのだと教えてくれたのは、さっき帰ったパートさんたちだ。はじめはおっかなびっくりだったが、ようやく様になってきた。
二百席もある食堂だが、客の姿はすでにまばらで、半券に書き込まれた席番号を確認するまでもない。このオムライスが本日最後のオーダー。ラストオーダーぎりぎりにやって来た女性客のものである。
「お待たせいたしました」
高い裏声を使い、客の前に料理をサーブする。紙ナプキンで包んだスプーンも添えて、代わりにテーブルに置いてあった食券のもう半分を回収した。
「ごゆっくりどうぞ」
七時閉店なのだからあまりゆっくりされても困るのだが、儀礼的に腰を折り、下がろうとする。
「待って」
呼び止められた。
なにか不都合でもあったかしらと、美由起は微笑みを浮かべたまま首を傾げてみせる。相手の女は四十がらみ。目元に険が含まれている。
「あなたがマネージャーの、瀬戸さんね」
美由起は胸元に目を落とす。名札はついているが、役職までは書かれていない。他のスタッフたちとは違い、一人だけ黒のパンツスーツだからそう思ったのか。それともさっきパートさんたちに呼ばれていたのを聞いていたのか。
「ええ。そうですが、なにか」
あらためて見ても、知らない女だ。スポーツでもしていたのか肩が厚く、太っているわけではないがたくましい。髪も女性にしては短くて、つまり細身でロングヘアーを一つに束ねた美由起とは、正反対の見た目である。
女は化粧っ気のない頬を歪めて、笑ったようだ。
「この食堂は、いつからあるの?」
元号が昭和だったころから変わらない大理石模様のテーブル、座席番号を示す銀色のスタンド、つまみを掴んで持ち上げるタイプの古い箸立て。そういったものを見回しながら問うてくる。
「はい、当食堂のオープンは一九七六年ですから、もう四十年以上になります」
この手の質問は珍しくもない。美由起は笑顔のまま、淀みなく答える。
「へぇ。どうりで古めかしいはずね」
妙に棘のある言い回しだ。だけど、感じかたは人それぞれ。己にそう言い聞かせ、眉間に皺が寄らないよう心掛ける。
「ええ、どうぞ当店のクラシカルな雰囲気をお楽しみください」
ものは言いよう。言葉を巧みにすり替え、一礼する。それでも女は皮肉げな笑みを浮かべたままだ。
「クラシカル、ねぇ」
嫌な感じ。たしかに設備は古くあちこちにガタがきているが、文句があるなら入らなければよかったのだ。
「ありがとう、もういいわ」
女に手で追い払われ、もう一度深く腰を折ってから引き下がる。嫌な客を相手にするときほど、動作は丁寧に。そうすることで少しは頭が冷える。
店内が広く見渡せる定位置にまで戻り、乱れがちな呼吸を整える。大丈夫、冷静に対処できたはず。さりげなく窺うと、女は面白くもなさそうな顔つきでオムライスを口に運んでいた。
二
東京までは通勤圏内、歴史ある蔵の町。マルヨシ百貨店は地元民なら誰もが知る、地方デパートである。
私鉄の駅からは徒歩三分。かといって鉄道系の百貨店ではなく、江戸期から続く老舗呉服屋系でもない。創業者である村山良三郎が昭和十二年に「良三郎商店」を立ち上げ、それを戦後株式会社化し、「マルヨシ百貨店」と商号変更したものである。
以来地元に支えられ、百貨店冬の時代と呼ばれる昨今、各地の名店が破綻し、大手同士が統合して生き残りを図る中でも、地道に利益を出している。
社の沿革は入社時の研修で頭に叩き込まれたから、今でも空で言えてしまう。
午前八時四十五分、美由起は裏口にある従業員専用の駐輪場に自転車を止め、自身の勤務先を見上げる。見る度に、古びたものだと感心する。
頭の中の沿革を繰ってみると、この建物ができてからすでに四十年以上が過ぎている。必要に迫られて耐震工事やリノベーションは施されているが、全体的に昭和のにおいがするデザインだ。丸に良の字が入った赤いロゴも、心なしかくすんでいる。
隣の市で生まれ育った美由起も子供のころ、母に連れられて何度か来た。そのころから数えても、約三十年。世代交代が必要になるわけである。
従業員出入り口から入り、ロッカーで手早く着替えを済ませる。百貨店の営業は午前十時からだが、なかなか時間が取れない事務仕事を片づけるため、時間前から出勤しているスタッフは多い。特にチーフやマネージャーといった肩書きがつくと、その傾向が強くなる。
美由起もまた、ご多分に洩れず。狭くて暗いバックヤードを通り、貨物兼用のエレベーターで最上階の六階へ。壁に擬態したドアを押しフロアに出ると、まず食品サンプルの並んだショーケースに迎えられる。
マルヨシ百貨店の最大の特徴といえば、外商に強いことでも、十年前からはじめた葬祭サービス事業でもなく、最上階の食堂がまだ現役だというところだ。しかも外食業者への業務委託はせず、自社経営なのである。
日本国中を探しても、かなりのレアケースとなってしまった。もはやガラパゴスと言ってもいい。従業員の高齢化も進んでおり、六十過ぎまで頑張ってきた食堂部門のマネージャーと料理長が、この春揃って引退した。そのため、食器・リビング部門でマネージャーを務めていた美由起が、食堂部門に異動となったのだ。
飲食業の経験は、アルバイトすらしたことがない。それでも頑張らなきゃと、スーツの襟を整える。
四月のはじめに大失敗を犯し、その直後に出た辞令だ。懲罰の意味もあるのかもしれないが、本来ならマネージャーから降格されてもおかしくはなかった。この異動は新天地で一からやり直せという訓示なのだろうと、前向きに捉えている。
食堂のオープンは、午前十一時。早出の厨房スタッフの出勤が、その一時間前だ。
誰もいない朝の食堂はがらんとして、よそよそしい。せっかくの静謐を邪魔するなと、拒絶されているようですらある。
それでもここに、自分の居場所を作らなければ。
経費削減のため開店前は空調を抑えているから、五月半ばに長袖のスーツは暑い。美由起は脇に汗が滲むのを感じつつ、テーブルに伏せてあった椅子を下ろす。
居場所を作るためにはまず、数字を出すことである。料理長の任命はなぜか保留とされており、マネージャーである美由起は必然的にここのトップとして、みんなを束ねるよう努力しなくてはならない。
百貨店の来客数と売り上げは年々じわじわと下落しており、当然大食堂も好調とは言えない。伝統的なものの価値が薄れ、新しいものが歓迎される時代だが、それでもこの昭和レトロな雰囲気を、集客に繋げられないものだろうか。
百貨店の大食堂というノスタルジー、一周回った斬新さ、洗練されていないがゆえの愛らしさ。そういったものは、今の若者にもうけるだろう。
シャワー効果という言葉がある。主に百貨店で使われるもので、上層階の施設を充実させ、上から下へと客の流れを作り、店舗全体の売り上げ増加に繋げる販売手法である。たとえばレストラン街に人気のテナントを入れる、集客力のある催事を行う、といった試みがそれだ。
大食堂が、その役目を担えるならば。若者の百貨店離れにだって、ブレーキをかけられるかもしれなかった。
己の汚名返上のためにも、この先一年が勝負である。
「よし!」と気合いを入れ直し、美由起は鞄から取り出したラップトップパソコンを開いた。
いよいよ開店十分前。早出スタッフは厨房、ホール合わせて十六人。準備が整ったところで全員を一カ所に集め、簡単な朝礼を行う。
厨房は洋食部門、和食部門、麺部門、デザート部門と分かれており、それぞれのスタッフから注意事項があれば共有してもらう。といっても自発的に発言できる者ばかりではないので、こちらから水を向けてやらねばならない。
「今日から冷やし中華がはじまりますよね。具はなんですか?」
尋ねると、麺部門の女性が背筋を伸ばした。待遇はパートだが、勤続年数の長い人だ。
「あ、はい。キュウリ、錦糸卵、ハム、ワカメです」
「タレは酢醤油ベース?」
「はい。それで皿の縁に芥子を添えます。芥子抜きのご要望は半券に書き込んでください」
「分かりました。ホールの皆さん、特にお子様のいるグループにはその旨お伝えしてください」
ホールスタッフ六人も、皆パートだ。うち四人は勤続十年を超えている。冷やし中華が出るのも毎年のことなので、「はいはい」と半ば聞き流している。
ひと通りの申し送りが終われば、「さぁ今日も笑顔で頑張りましょう」と締めくくるのが通例だ。だがその前に、背を向けた入り口から人が入ってくる気配がした。
百貨店の大食堂に、開閉式のドアはない。それでも『準備中』の看板は出ていたはずだ。相手がせっかちな客である可能性を考えて、美由起は笑顔を作ってから振り返った。
「若社長」
そう呟いたのは、副料理長の中園だ。こんな所にはめったに姿を現さない人物を前にして、ぽかんと口を開けている。
「おはようございます!」
日の浅いパートの中には、顔を知らない者もいたのだろう。中園の呟きを受けて、スタッフ一同が腰を折った。
「まぁまぁ、いいからいいから」
マルヨシ百貨店三代目社長、村山翼は鷹揚を装って、かしこまるスタッフを労う。もう四十も半ばを過ぎたはずだが、相変わらずよく日に焼けた、ホスト崩れのような風貌だ。ロレックスがよく見えるよう、手を前に出すときはいったん腕を伸ばしきって、スーツの袖から左手首を覗かせる。そんな動作が無意識に染みついている。
若社長は白い厨房服を身に着けた、四十がらみの女を伴っていた。その顔に見覚えがあるのに気づき、美由起は目を瞠る。
「長らく料理長不在で皆には迷惑をかけたと思うけど、ようやくね、僕がスカウトしてきましたから。前場智子さん。行きつけの、中目黒のビストロにいた人」
「前場です。よろしくお願いします」
居並ぶスタッフに向かって挨拶をする前場智子は、肩が厚くたくましい。間違いなく昨日美由起に対して、店の古めかしさをあげつらってきた女だった。
「その前は、都内の洋食店とホテルのフレンチレストランで修業をしていたんだよね」
若社長が誰もが知る老舗洋食店と、外資系ホテルの名を口にする。その経歴に、パートのおばさんたちがざわめいた。
『たそがれ大食堂』は全4回で連日公開予定