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出席番号24番 水島みずしま美心みしん(承前)


 再びスノードロップが咲いたのは、それから一年が過ぎた翌年の二〇一九年、一カ月後に卒業式を控えた二月の中旬だった。
「――あなたの死を望みます」
 背後から声がして振り返ると、そこには花恋が立っていた。赤みがかった茶色の髪は、去年よりもほんの少し明るくなり、肩にかかるほどだった長さも胸元まできれいに伸ばされている。
「スノードロップ、今年も咲いたんだね。去年教えてくれたとき、あんまりにもこわい花言葉だったから覚えちゃった」
 花壇の前にしゃがみ込み、微笑みながら花恋が言う。
 何日かぶりに、花恋が話しかけてくれた喜びを噛みしめながら、美心は頷いた。
 最後の一年間も変わることなく、美心は生きる亡霊だった。教室の輪に入れることはなく、カーストの底辺で息をしていた。だがこの時期にもなれば、底辺高校とはいえ、進路のことで誰もが自分のことに掛かりきりになり、特別無視されているというよりかは、存在そのものが空気であるだけ、というべきなのかもしれなかったし、最初からそうなのかもしれなかった。
 結局最後まで、美心の高校生活に、青春という文字はなかった。けれどこうして、花恋と話せた日や、教室で花恋と目が合う瞬間や、花恋が二人一組になってくれた時だけは、自分が普通の女子高生として機能しているような幸せを味わうことができた。
「ねえこれ、新しい花を、植えたの?」
 手が土にまみれることもいとわず、美心が植えたばかりの苗を撫で、花恋が訊く。
 美心は再び頷いた。この薔薇の大苗も、行きつけの花屋のおじいさんに薦められたものだった。
「でも、もうすぐ卒業だよ。誰が育てるの?」
 花恋が無邪気に訊く。
 はっとして、確かに……と美心は思った。なんだかこの花壇は、ずっと自分のもののような気がしていた。新入生が入部するかもわからず、手入れをしてくれる根拠もないのに、新しく植えてしまったことが途端に罪のように思えてくる。
「考えて、なかったです……」
 美心は考えなしだった自分を責めながら答えた。
 同い年の花恋に対して、時折敬語になってしまうのは憧れもあるだろう。だが、それを抜きにしても、美心はもう自分が同級生に対してどのように話していたか、うまく思い出せなかった。
「やっぱり」
 花恋は笑ったあとで続けて訊いた。
「卒業したら、水島さんは何するの」
「……私は、バイトをする、予定です」
 クラスの大半の生徒は大学や専門学校に進学するだろう。美心もキャンパスライフに憧れがないわけではない。でも、この数年ですっかりコミュニケーション能力を失った自分が、謳歌おうかできるとは思えなかったし、それに美心には密かな夢があった。
「行きつけの、お花屋さん、で」
 その夢を叶えた自分を想像しながら、美心はつけ加える。
 バイト先となる花屋は、スノードロップやこの薔薇の苗を買った花屋で、店主であるおじいさんが、ほとんど好意で雇ってくれることになったのだ。
 働きたいと申し出たときは、清水の舞台から飛び降りる気持ちだったが、おじいさんは「ちょうど人を探していたんだよ。でも、申し訳ないが、社員を雇う余裕はうちにはなくてね。バイトでもいいかい」と提案してくれた。
 美心は、大きく二度頷いた。どんなに給料が低かったとしても、そのおじいさんのもとで働くことをずっと夢見ていた。花への愛に溢れた、その花屋で。
「お花屋さんか、いいね」
 前向きな花恋の反応に嬉しくなりながら、美心は頷いた。
 自立したかった。つつましく暮らせるだけのお金を稼ぎ、一人でも生きていけるように。
「……いつか、小さなお花屋さんを開くのが、夢なんです」
 そしていつか、その夢を叶えられるように。
「へえ、水島さんは、もう夢があるんだ。とっても素敵だね」
 花恋が笑顔を浮かべて言う。
 ずっとカーテンを閉じていた部屋に、突然、春の光が差しこんだようだった。
「うん」
 嬉しさで声が震える。
 幼い頃から、花が好きだった。十歳の頃、母に「美心は、大きくなったら何になりたいの」と訊かれたときも、「お花屋さん」と答えた。
 しかし母はあのとき、美心の夢を、粉々になるまで否定した。
「えー。何それ。夢なさすぎだよー。美心は、知らないかもしれないけど、お花屋さんって、脇役なんだよ? 想像してるような、きらきらしたお仕事じゃないの。朝早くて、きついし、汚いし。それに全然、儲からないし。ねえ、お花屋さん以外に、なりたいものはないの? もっと、ちゃんとした仕事」
 思い返せば、「ちゃんと」というのが母の口癖だった。
 そして母はきっと、花屋に恨みのようなものがあるのだろうと、美心は思った。なぜならそんなふうに、何かを真っ向から否定されたことは、それまでなかったからだ。
 風俗店で働き始める前、母は祇園のクラブにホステスとして勤めていたことがある。
 だから、花屋が脇役だと決めつけて、見下したような発言をするのは、誕生日や何かのイベント等の際に、花屋が店を飾り付けに来たり、花を運んで来たりするのを見ていたからなのだろう。
 でもきっと、母に花が届いたことはなかった――。
 それ以来、美心は夢を胸の中にしまい、誰かに告げることはなかった。否定されて、穢されるのが嫌だった。でもさっき、花恋に告げることに抵抗はなかった。それどころか、告げてみたかった。
「いつかオープンしたら、お花、買いにいくね」
 きっと花恋なら、こんなふうに優しい言葉を投げかけてくれると、夢に光をふりかけてくれるという期待があったからなのだろう。
「朝倉さんは……卒業したら、どうするの」
 久しぶりに、心の中に彩りを感じながら、美心は訊いた。
「私はねえ、東京に帰るの。留津が勉強を見てくれたおかげで、四年制の大学に受かったんだよ。奇跡だよね。てか、生徒会に入ってるのに、頭悪いってうけるよね」
 確かに花恋は頭がいいとは言えなかった。補習や、追試を受けているところを、何度か見たことがある。
「そういえば留津はね、学校の先生になりたいんだって。すごいよね。尊敬しちゃうな」
 花恋が続けて言う。
 ……留津。繰り返されるその響きに、美心の胸は締め付けられる。
 花恋と留津は、この一年間で親友と呼べるほどの関係性になっていた。それは二人と同じ教室に存在しているだけの美心から見ても、疑う余地はなかった。
 秀才であるがゆえなのか、留津は昔から、優等生そのものといった外見をしている。眼鏡をかけていて、肩まで伸ばされた黒髪は一本一本が意思を持ったように几帳面に耳にかけられ、赤毛のアンのように目元から頬にかけてそばかすがある。正直、美少女そのもののような花恋とは釣りあっていない。けれどそれは、見た目の話に過ぎない。
 人はいつだって、自分にないものを持っている人間に惹かれる。
 だから美心は、美しい花が好きで、自分にないものをすべて持っている花恋が眩しいのだ。
 きっと花恋も、留津に対して、そうだったのだろう。
 明らかに外見的なレベルが違う留津と花恋が親友になったことに顔をしかめる生徒もいたが、美心にはその理由がわかった。そもそも花恋は、カーストなど気にするような生徒ではない。気にしていたら最底辺の生徒と自ら二人一組にはならない。そして花恋が誰と親友になろうとも、彼女のカーストの順序が下がることはないだろう。
 それにしても留津は、教師を目指すくらいなのだから、やはり本来なら、こんな底辺の女子高ではなく、もっと偏差値の高い高校へ入学できたはずだ。例えば鴨川沿いにある、誰もが憧れる公立高校に。
 ――なのに、留津がこの学校を受験したのは、なぜなのだろう。
 いつから、教師になりたいという夢を、抱いていたのだろう。
「……朝倉さんは、どうして、この学校に転校してきたんですか」
 留津とはじめて言葉を交わした日のことを思い出しながら、美心は訊いた。
「うーんとね、一時期、不登校だったの、私」
 思ってもみない返答だった。
 きっとこういうとき、花恋だったら、無邪気にどうしてと訊くのだろう。その理由を訊ねて欲しいと、自分ならば思うだろう。でも美心には勇気がなかった。
 言葉を探している途中で、下校のチャイムが鳴った。
「じゃあ、卒業式でね。写真、撮ろうね!」
 スカートをひるがえしながら立ち上がり、中途半端に終わった会話に未練がある様子もなく、花恋が去っていく。
 その姿が見えなくなってから、美心は思わず溜息を吐いた。
 自分も花恋のように美しかったら。留津のように賢かったら。正々堂々と、花恋と友だちになれたのだろうか。名前で呼び合うことができたのだろうか。
 一度くらい、花恋に下の名前で呼ばれてみたかったなと思う。
 そして、呼び捨てにはできなくとも、花恋ちゃんと、呼んでみたかった。
 しかしもう、叶うことはない。
 卒業すれば二度と、花恋と会うことはないだろう。東京に行ってしまうのだから、なおさら。
 たとえば親友同士だったとしても、ずっと一緒にい続けることは困難だ。
 友情は儚い。何よりも。美心はそう思っている。
 美心へ
  お誕生日おめでとう。
  そして、高校卒業おめでとう。
  三年間、一人でよく、がんばったね。
  なかなかむかえに行けなくて、なにもしてあげられなくて、ごめんね。
  でもお母さん、美心のことは、あれから一日だって、忘れたことはないんだよ。
  それだけは、信じてね。
  そして。明日の卒業式、ちゃんと行くからね。はりきって、スーツも買っちゃったんだから。
  卒業式が終わったら、これからのこと、ちゃんと話そうね。
 美心はポストに入っていた手紙を読み終えると、小さく畳んでブレザーの胸ポケットに仕舞った。昨日のうちにポストに届いていたのは知っていたが、今朝まで読まずにいた。読むのがこわかった。また「卒業式に行けない」と書いてあったら、起き上がれる自信がなかった。
 白い梅の花が咲く家の角を曲がり、学校への道のりを歩きながら、四年ぶりに母に会えるのだという高揚感が、美心の足を速めた。
 この門を潜るのも、今日で最後だ。
 学校に着き、くすんだ校舎を見上げ、少しだけ感慨深く思う。学校は嫌いだったが、繁華街の中心にそびえ立つ、このクラシカルなたたずまいの校舎を美心は気に入っていた。
 土地が狭く、講堂としても使っている体育館はバスケットコートほどの大きさしかないため、例年卒業式には三年生しか出席しない。
 下級生たちのいない閑散とした廊下を抜け、無言で教室に入る。『卒業おめでとう』の短冊がついた鮮やかな黄色の薔薇のコサージュが、全員の(もう胸につけている生徒もいたが)机の上に置かれてある。
 美心は最後列中央の自分の席に着くと、他の生徒と同様にコサージュを制服の左胸にあるポケットにつけた。
 それにしても……教室が異様にざわめいている。
 卒業の日を迎え、離ればなれになる哀しみに暮れて、という雰囲気でもなかった。
 むしろ怒りや混乱に近い声が飛び交っていた。
 視力がそれほど良くないことも相まって、美心はその原因にしばらく気がつくことができなかった。二月の最終授業の日に黒板に書かれた寄せ書きが消されていたことにも。なぜなら美心だけは、その寄せ書きに参加していなかったからだ。
 しかし周囲の声に耳を澄ませているうち、ようやく元凶がわかり、美心は黒板に目を凝らした。寄せ書きに何が描かれていたか知らなくとも、緑色の黒板に映える、白いチョークで書かれた事項に違和感を覚えた。
 それは、担任である鈴田先生の字で間違いはなかったが――ありがちな教師から卒業生に向けたメッセージではなく、何かゲームのルールのような内容が書き連ねられていた。

 

【特別授業】
・二人一組になってください
・相手と手を繋いだ瞬間【二人一組】と判定します
・誰とも組むことができなかった者は、失格になります
・全員が二人一組になり終え、その回の失格となる者が確定したら、次の回へと続きます
・一度組んだ相手と、再び組むことはできません
・残り人数が偶数になった場合、一人が待機となります
(待機する者は、投票で決定します)
・人数が半数以下になったら必ず「二人一組になってください」の掛け声で始めてください
(破った場合、その回は無効になります)
・特定の生徒が余った場合は、特定の生徒以外全員が失格になります
・最後まで残った二人、及び一人の者が、卒業生となります
(卒業生は遅れず、卒業式に出席してください)
・授業時間は約六十分です
・卒業式までに卒業生が決まらなかった場合、全員が失格となります

[例外として]
・授業の途中で、教室の外に出た者は、即失格となります
・自他に関わらず、コサージュを外した者は失格となります
(相手のコサージュを外した者も同様です)

 

「特別授業……って、なんだってばよ」
「二人一組になってくださいって、体育かよ」
「てか、失格って何」
「失格になったら、卒業式、出られないってこと?」
「いやいや、ないっしょ」
 もうすぐ校則が無効となるからだろう。とうとう金髪になった大神リサと、春休みの間に明らかに二重幅をアップデートさせた根古屋羽凜が、意図の掴めない板書に対して、冗談を言い合っては手を叩いて笑っている。美心はこの一軍の二人と一度も言葉を交わしたことはないが、喋りたいと思ったこともなかった。
 そして、呆然と黒板を見つめながら――何か嫌な予感が全身に巡っていくのを感じていた。

 

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