序 スクールカースト
出席番号4番 漆原亞里亞
真冬の一時間目に体育の授業がある日ほど、憂鬱な日はない。
凍てついた空気が立ち込める教室の隅で溜息を吐くと、息は瞬時に白く染まった。
二〇一七年一月現在、亞里亞が通う、京都で最も古いといわれているこの校舎には、どの教室にもエアコンが備わっていない。
八坂神社の目の前、観光客向けに様変わりしていく祇園の一等地で、この学校だけが戦前から時が止まったかのように異彩を放っている。
アーチ形の正面玄関や窓、木の温かみを感じる長い廊下が、レトロで映えるとインスタに載せている生徒もいるが、叶うのなら亞里亞は、中学のとき模擬試験会場として訪れた、鴨川沿いにある高校のガラス張りの校舎に通いたかった。
だが、平均をだいぶ下回っていた自分の偏差値では、秀才が集まるその公立高校を受験すること自体無謀であり、この私立八坂女子高校へ進学するほかに選択肢はなかった。
雑誌の付録でついてきたX-girlのトートバッグから体操服を取り出しながら、ふと窓の外に目をやる。
いつの間にか雪が降りはじめていた。きっと、体育館はもっと冷えるだろう。考えるだけで、憂鬱さが倍増する。しかし、どれほど憂鬱になったところで体育の時間はなくなったりしない。
亞里亞は覚悟を決め、いっきに絆創膏を剥がすように勢いよく制服を脱いで下着姿になる。多くの女子高生が持ち合わせている羞恥心などは、もう微塵もない。何せここは女子高なのだから。入学して半年も経てば、共学に通う女子のように、一秒でも下着を見られない工夫をしながら体操服に着替える生徒は一人もいなくなる。なんなら視界の端では先ほどから、教卓に乗り、下着姿でストリッパーのように踊っている生徒すらいる。
このクラスのムードメーカーであり、問題児でもある、根古屋羽凜。
彼女は『うりん』という名でYouTuberをしていて、昨年の夏『女子高生の退屈な夏休み』という、タイトル通りの、なんでもない夏休みの一日を晒した動画を投稿したのを境に、いっきに人気に火がついた。
亞里亞は最初、羽凜が苦手だった。というより、自分とは違う星の人間だと感じていた。
青みがかった黒髪ボブはウィッグのような不自然さで、首には水色の猫耳ヘッドホンが掛けられており、制服のスカートからは、真っ青なカラータイツを覗かせている。そのような奇抜なファッションセンスを持つ彼女と、友だちになれるとは思わなかった。
実際、友だちとは呼べない。彼女とはただのクラスメイトであり、それ以上でもそれ以下でもない。
けれど、好奇心で彼女の動画を視聴しているうち、その飾らないトークが癖になって画面上の彼女のことは応援していた。つい二日前に行われた、チャンネル登録者数十万人突破記念のライブ配信にも「おめでとう」と、コメントを送るくらいには。
「ねえ羽凜、そんな下品な姿、もし拡散されたら、あんた炎上するよ」
教室の中央の席に座る大神リサが、下着姿で踊る羽凜を見上げ、机に頬杖をついたまま、気だるげに指摘する。
藤田ニコルのファンで『Popteen』というティーン向けギャル雑誌を愛読している彼女は、濃いアイメイクを好み、スカート丈は心配になるくらい短く、校則違反の金髪に近い髪色をしている。なのに教師たちが注意しないのは、こんな底辺校に通う生徒に誰も期待していないことに加え、リサを恐れているからに違いなかったし、亞里亞もいわゆるギャルである彼女のことがこわかった。
「リサリサ、あたしの人生が終わるときは、あたしが死ぬときだよ。炎上したくらいじゃ、あたしの人気は落ちないから大丈夫だってばよ。むしろ炎上して知名度上げたいくらいだね。てか、それいいな。よし! みんな、あたしのこの美しい乳、投稿していいよー!」
雪見だいふくのような真っ白な胸を寄せながら、羽凜が教室にいる生徒たちに呼びかける。
「……あんたって、マジで救いようのないバカだね。あと、そのリサリサって呼ぶの、ダサいからほんとやめて」
リサは呆れたように言い放ちながらも、グラビアポーズを取る羽凜の姿をスマホに収めては笑みをこぼしている。
いったい、彼女たちと自分は何が違うのだろう。羽凜の真っ白な肌や、リサの体操服越しにもわかる豊満な胸を見つめていると、考えずにはいられなくなる。
生まれ持ってなのか、育った環境のせいなのかはわからないが、一軍女子と呼ばれる彼女たちには華がある。話しかけられただけで畏怖してしまうような、圧倒的な存在感が。
それに比べて、自分は何のオーラもない。がっかりするほど健康的な色の肌と、貧乳な上に腹まわりについた余分な脂肪を隠すように、亞里亞は急いで体操服を着た。
「あ、更紗、おはよー」
教卓の上から羽凜が下着姿のままで、教室の入り口に手を振る。無論、そこにいるのは一軍女子だ。
「え……朝から何やってんの」
はしたないと言わんばかりに、羽凜を見上げ、星川更紗が苦笑している。
「羽凜ストリップ劇場」
「……何それ。はやく着がえなよ、風邪ひくよ」
「バカと天才は風邪ひかないんだよ」
「あんたそれ、どっちのつもりなの」
羽凜と戯れながら、更紗が笑うたびに、後れ毛なくきっちりと一つに束ねられたポニーテールが揺れる。亞里亞は想像する。もし自分があの髪型を真似したら、ダサいと思われること必至だと。けれど、清純派という言葉を具現化したような更紗には、その髪型がとても似合っていた。
彼女は目がそれほど大きいわけでもないし、鼻が高いわけでも、唇がふっくらしているわけでもない。けれど「このクラスで一番可愛いのは誰か」と問われたら、全員が更紗だと答えるだろう。そしてその可愛さは、羽凜やリサのように、誰かの真似や、目立とうとして作られたものではなかった。
「亞里亞ちゃん、おはよ」
更紗が机に鞄を置きながら言う。席替えで隣になってからというもの、更紗は毎朝こうして、二軍の自分に自ら挨拶を投げかけてくれる。その行為に、特別意味がないことは知っている。だがどうしようもなく、亞里亞の気分は浮き立った。
「おはよ。今日、寒いね」
「うん、めっちゃ寒いー」
「それ、更紗ちゃんのマフラー、もしかしてバーバリー?」
更紗が首から外した、ベージュブラウンに赤のラインが入ったチェック柄のマフラーを指差し、亞里亞は訊いた。
「そやで。昔、お姉ちゃんが巻いてたやつ、貰ってん」
「そうなんや、めっちゃ可愛い」
「ありがとー、うれしい」
努めて明るく会話をしながら、亞里亞はほんの一瞬だけ、自分も一軍女子になれたような気になる。
更紗は、羽凜やリサほど近寄りがたい存在というわけではない。でも亞里亞は更紗と、積極的に親しくなりたいとは思わなかった。自分が彼女の友だちとして相応しくないことは明らかだったし、おそらく本能的にそれを理解していた。だから強がりなどではなく、こうして時々話せるただのクラスメイトでよかった。
――第一、私には生涯の親友がいるのだから。
その親友さえ隣にいてくれれば、たとえ誰に嫌われたとしても亞里亞はきっと平気だった。
「あっ、螺良だ」
席に座ったばかりの更紗が、主人を見つけた犬のように声を弾ませて立ち上がり、教室の入り口へ駆けていく。登校してきたのは、曜日螺良だった。
「螺良おはよー。今日は遅刻しなくて偉いやん」
先ほど自分に向けられた態度とは違う、本当の友だちに向けた態度。
「寒すぎてはやく目が覚めた」
小さく欠伸をしながら螺良が答える。
「螺良様、今日もかっこええなあ」
「あんなに寝ぐせついてんのにな」
近くの生徒から漏れた声に、亞里亞は心の中で頷く。
亞里亞の恋愛対象は紛れもなく異性であり、はやく彼氏が欲しいと四六時中願っているほどだが、螺良には密かな憧れを抱いていた。というより、この学校に通う大多数の生徒が、螺良に気に入られたいと感じているはずだった。
それは彼女が、いわゆる、女子高の王子様的存在であるからだ。
百七十五センチの高身長。中性的で色気のある顔立ちは、女子ということをしばしば忘れさせた。所属しているバスケ部では、まだ一年生なのにエースとして活躍していて、普通ならば煙たがられそうなものだが、上級生からも相当気に入られている。休憩時間になるとたびたび、黄色い声と共に、螺良を呼び出しに教室まで来るのだから相当だろう。
そんな人気者の螺良に、自ら話しかける勇気を、亞里亞は持ち合わせていない。自分のような二軍が彼女の時間を拘束するのは、流石に烏滸がましく思えた。
「はやいって言っても遅刻ギリギリやけどな。とりあえず、はやく着替えて。体育館行かな」
「え、今日って一時間目体育やっけ。だる……。更紗、一緒にサボろう」
「あかんって。螺良、遅刻しすぎて一時間目の単位、どれもヤバいやん」
「……確かに」
二人から視線を外し、亞里亞は席を立った。別に、嫉妬ではない。本気で螺良を好きなわけでもない。ただ、プールの中から見上げる太陽のように、あまりにも眩しいものは、ずっと見つめていると眩暈がしてくる。
言わずもがな、螺良も一軍女子だ。
このクラスの一軍は、羽凜・リサ・更紗・螺良の四人で形成されていると言っていい。
入学して一カ月も経つ頃には、誰に振り分けられたわけじゃないのに、誰もが教室での立ち位置をわかっている。言い換えるなら、スクールカースト上の自分の位置を。
ルックスがよいか、抜群にコミュニケーション能力があるかなど、他の生徒よりも目立っている、上位数パーセントの生徒たちが集まる一軍。
普通という言葉では片づけられないが、もっとも多くの生徒が属する二軍。
容姿に恵まれない生徒や、変わり者の掃き溜めである三軍。
大きくはその三層に振り分けられる。
容姿も並、これといった才能も持ち合わせていない亞里亞は、もっとも多くの生徒が属する二軍の中層にいた。そして、一軍女子に憧れる一方で、そのポジションに満足してもいた。
華やかな一軍女子でもないが、三軍女子のように日陰にいるわけでもない、ごく普通の女子高生である自分に。
それに少女の世界で流行っている物語の主人公は、普通の女子という設定で溢れている。
だから亞里亞は、この教室にいつか運命的な出来事が降り注ぐのなら――それが何なのかはわからないが――それはクラスメイトの誰でもない自分の元にやってくると、心のどこかでそう信じていた。
「乃愛、準備できた? 体育館、一緒に行こ」
席を立つと、亞里亞はいつものように、一瀬乃愛を誘いに行く。二学期のはじめに自分が籤で引き当てた廊下側の席とは違い、窓際の乃愛の席は陽が当たって羨ましい。
「うん、できたよ。行こ」
やわらかい笑みを浮かべ、乃愛が立ち上がる。彼女こそが、亞里亞にとっての生涯の親友。
当然ながら乃愛も、二軍の中層に属している。
他の学校ではわからないが、この教室において違うランクの者同士が親友になることはほぼない。つまり乃愛は、自分と同じレベルの、どこにでもいそうな平凡な生徒だ。
でもこの学校が共学だったなら、確実に自分より、彼女のほうが男子からの人気を集めるだろうと亞里亞は思う。そのおっとりした雰囲気に女の自分ですら癒され、すべてを包み込んでくれるような包容力が、彼女には備わっているからだ。
「今日、めっちゃ寒ない」
「うん、めっちゃ寒い」
一月の冷え切った廊下は、まるで死刑台へと続くようだった。
寒さを紛らわすように、亞里亞は乃愛と腕を組む。
乃愛とは小学生の頃からの幼馴染で、これまで二人で過ごしてきた時間は計り知れない。
家が近所だったことから、登下校を共にするうちに仲が深まったのが始まりで――放課後にお互いの家を行き来するようになると、乃愛の母は自分たちを姉妹のように可愛がってくれ、夏休みになると必ず、アウトドア好きの乃愛の父が、キャンプに連れていってくれるようになった。
動物たちの鳴き声が木霊する森の中、二人で張った小さなテントで寝袋を並べて眠るとき、亞里亞は乃愛と本当の姉妹になれた気がしてうれしかった。
「今日、授業何するんやっけ」
乃愛の体温を奪うように身体を押し付けながら亞里亞は訊く。
「バスケちゃうかったかなあ」
「バスケか。じゃあ螺良様、活躍するかなあ」
「するやろねえ」
はんなりと語尾を伸ばしながら乃愛は話す。いつしかその喋り方が、亞里亞にも少し移った。
「あたしら、螺良様と同じクラスでラッキーやんな」
「うん、ほんまにい」
「あー。螺良様みたいな彼氏、ほしいなあ」
「亞里亞なら、すぐできるよお」
「そうかなあ。でも女子高やし、出会いもないし、絶望やわ」
「絶望って、大げさやなあ」
どんな下らない話にも彼女は笑ってくれる。だから乃愛といるとき、亞里亞はお喋りになった。ただの二軍女子である自分が、乃愛と話しているときだけは、この学校の主人公のように思えた。
『二人一組になってください』は全4回で連日公開予定